ヴィスフォータク・カバッディー!!!
体育倉庫に一瞬だけ軟禁された数日後。
俺は学校から少し離れたファミレスの、一番奥まったボックス席に陣取っていた。
ドリンクバーのアイスコーヒーと、広げた参考書。
この店はすいていることが多く、心の声も聞こえにくい。
例の図書館に次ぐ俺の勉強スポットである。
その、はずだった。
「……ここなら、誰にも聞かれないですね」
「うん……。緊張するわ、師匠」
聞き覚えがありすぎる声が、背中合わせの席から聞こえてきた。
俺は参考書をめくる手をピタリと止めた。
間違いなく、朝比奈七瀬と小山内南志見だ。
逃げるタイミングを失った俺は、息を殺して「地蔵」になることを決めた。
「まずは、前回の復習からいきましょうか」
「え、ええ。……お願い」
小山内の淡々とした声と、朝比奈の緊張した声。
一見、真面目な勉強会に聞こえる。
だが、俺の鼓膜にはもう一つの音声が鮮明に届いていた。
(本日の講義テーマは『不意打ちのボディタッチ』。これです。佐鳥くんのような『鈍感系やれやれ主人公』には、言葉よりも物理的な接触が有効です)
……いきなり物騒な講義が始まった。
小山内は口では「前回の復習」と言いながら、心の中でとんでもないレジュメを読み上げているらしい。
「……で、この『スリーブ・タグ』という用法ですが」
「すりーぶ……たぐ……?」
小山内が専門用語っぽく言った単語を、朝比奈が復唱する。
(タイトル『袖引き』作戦! 服の袖を指先でちょこんと摘む。これぞ奥義!)
「はい。意味はわかりますね? 『袖』を『引く』んです」
「そ、袖を……」
朝比奈の声が裏返った。
(袖引き……!? メモ! 書記官、緊急メモだ! 一言一句聞き漏らすな!)
(佐鳥くんの袖……! あのユニクロのジャケットの袖を……!?)
俺の脳内には、朝比奈の頭の中で開催されている脳内会議の映像が流れ込んできた。
ミニ朝比奈たちが巨大なホワイトボードに向かって「袖!」「つまむ!」「可愛い!」と書き殴っている。
「で、でも……いきなりそんなことしたら、変に思われないかしら……?」
(痴女だと思われませんか!? 『なんだこいつ布製品が好きなのか?』と誤解されませんか!?)
「ノンノン。大丈夫です。ポイントは『時間』と『強度』です」
小山内がチッチッ、と舌を鳴らす音が聞こえた。
「時間は短く。強さは……そうですね、小鳥が枝に止まる程度で」
(1.5秒! これ以上長いと『重い女』になります。強すぎると『引き剥がし』になります)
細かいなオイ。
「……やってみましょうか。私を『彼』だと思って」
「えっ!? い、今ここで!?」
ガタッ、と背後の席が揺れた。
(シミュレーション開始! 目の前に佐鳥くんがいると想定……!)
(ターゲット、右袖! 指先震えるな! 上目遣い充填率120%!)
(いくぞ! 3、2、1……接触!)
「あ, あのっ……ねぇ……」
朝比奈の、演技がかった甘い声。
衣擦れの音がする。だが、その直後。
「……朝比奈さん」
「は、はいっ!」
「それは袖ではありません。私の二の腕の肉です」
小山内の冷静なツッコミ。
「しかも、力が強すぎます。猛禽類に捕獲された小動物の気分です」
(痛い痛い痛い! 握力50キロ!? これが『聖女』の腕力か……!)
(だが……悪くない。この『不器用な全力さ』こそが、佐鳥くんの父性本能をくすぐるスパイスになる可能性がある)
「あうう……ご, ごめんなさい……!」
(ギャアアアアア! 失敗! 大失敗です! 師匠の腕を粉砕するところでした!)
(撤退! 一時撤退を具申します! 穴があったら入りたい! むしろマントルまで掘り進みたい!)
背後の席で頭を抱えているであろう朝比奈の気配と、脳内に響き渡るサイレン音。
俺は氷の解けかけたアイスコーヒーをストローで啜りながら、天井を仰いだ。
……くだらねぇ。
本当に、全精力を懸けてくだらない会議をしてやがる。
だが、不思議と不快ではなかった。
完璧に見える彼女が、裏側でこんなポンコツな努力をしていると知ると、呆れを通り越して少しだけ笑えてくる。
「袖掴みはさておきですね。まずは一緒に過ごす時間を確保することが大切です」
「ふむふむ!」
「学校以外が望ましいですね。任せてください。貞治を使って四人で、というテイで誘いましょう」
やめろ。お前が糸を引いて、朝比奈と椛島に迫られたら断れる気がしない。
「……ふぅ」
俺は二人に気づかれないよう、さらに深く席に沈み込んだ。
この「作戦」がいつ実行されるのかは知らないが……。
まあ、その時は、袖くらい掴ませてやってもいいかもしれない。
握力で千切られない限りは。
※※
休日。
俺は抵抗する間もなく駅前のカラオケ店の一室に押し込まれていた。
メンバーは、俺、朝比奈七瀬、椛島貞治、小山内南志見の4人。
名目は「球技大会に向けた決起集会」だ。
(クックック……。計算通りです)
(カラオケボックス。それは密室における「吊り橋効果」と、薄暗い照明による「ムード補正」、そしてラブソングによる「間接的告白」が可能な、恋の戦略核兵器!)
ドリンクバーの機械の前で、小山内が不敵に笑っているのが聞こえる。
やはりこいつか。
「さあ佐鳥くん! 今日は喉が枯れるまで歌おう! 腹式呼吸はカバディの基本だからね!」
(カバディ、カバディ、カバディ、カバディ………)
椛島がマイクを握りしめ、すでに戦闘態勢に入っている。
「え、えっと……私、カラオケなんて久しぶりで……」
隣に座らされた朝比奈は、お嬢様らしくモジモジしている。
だが、その脳内ではすでにステージの設営が完了していた。
(照明さん、ピンスポ準備! 音響さん、エコー強めで!)
(今日のセットリストは『純愛バラード』で攻めます! 歌詞に想いを乗せて、佐鳥くんのハートを狙い撃ちよ!)
(衣装チェンジ! 脳内イメージは純白のドレスで!)
……うるせえ。まだ一曲も入ってないぞ。
「じゃあ、トップバッターは僕が行くよ! 聞いてくれ、『ヴィスフォータク・カバッディー』!」
椛島が立ち上がる。どうやらヒンディー語らしい。インドでは人気の歌だそうだ。……本当か?
椛島が歌い始める。同時並行で、日本語訳のらしき歌詞の意味が椛島の脳内から漏れる。
「メーラー・サーンス、メーラー・アトマ~♪」
(俺の呼吸、俺の魂)
「ラクト・メ・ハェ・アグニぃぃい!!♪」
(血の中には炎がある)
「ドゥシュマン・コ・パカロおぉぉおっ!!」
(敵を捕まえろ)
「レーカー・ケ・パール・チャーロ!!」
(ラインの向こうへ行け)
「ヴィスフォータク・カバッディー!!!」
(爆裂カバディ!!!)
そ、そうか……。椛島は歌うときは内心でもカバディとは言わないんだな。いや、カバディ関連なのは変わらんが……。しかし歌は上手いな。
「すごーい! 椛島くん上手!」
「さすが貞治。肺活量がゴリラ並みですね」
今のがそれでサラッと流れるところにこの集まりとメンバーの異常性を感じざるを得ない。
女性陣が拍手する中、俺はジンジャーエールで耳鳴りを誤魔化した。
そして、魔の時間は訪れる。
「次は朝比奈さんの番ですね。……あ、私、勝手に入れちゃいました」
「えっ!? これ、私が歌うの!?」
小山内がリモコンを操作し、ニヤリと笑う。
画面に表示されたのは、誰もが知る王道のラブバラードだ。
(ナイス選曲! さすが師匠! わかってるぅ!)
(いくぞ! 感情移入レベルMAX! 目の前の佐鳥くんだけを見つめて歌うのよ!)
朝比奈がマイクを両手で包み込むように持ち、立ち上がった。
スピーカーから、静かなピアノの前奏が流れ始める。
彼女は一度深呼吸をし、ゆっくりと瞼を閉じ――そして、カッと目を見開いた。
その瞬間、彼女の脳内ステージの照明が落ち、ピンスポットが一本、彼女を照らし出した。
(――恋。それは、時に人を臆病にさせる……)
……ん?
なんだこの、やたらと渋いナレーションは。
(けれど、雨上がりの空にかかる虹のように、貴方への想いは私の心を鮮やかに彩っていくのです……)
(言葉にできないこの胸の痛み、せめて歌に乗せて届けたい……)
朝比奈はマイクを握りしめたまま、微動だにせず、少し遠い目をしている。
脳内では、低音の効いた男性ナレーターに扮したミニ朝比奈の声が、イントロの尺に完璧に合わせて口上を述べていた。
(それでは聞いてください。朝比奈七瀬で、魂の慟哭――『フォーエバー・ラブ』)
大御所の演歌歌手かお前は。
「♪~~~~~!」
歌い出した瞬間、その渋いナレーションは消え飛び、透き通るような美声が室内に響き渡った。
うまい。悔しいが、めちゃくちゃうまい。
(好き! 好き! 大好きーッ!)
(CDTVをご覧の皆様! 今週の第一位はもちろんこの曲!)
(ゲストは私! 観客も私! そして審査員は佐鳥くん!)
歌ってる最中はカウントダウンTVになってるし。忙しい奴だな。
「……ふぅ。ど, どうだったかな……?」
歌い終えた朝比奈が、上気した顔で俺を見る。
脳内では(鳴り止まないアンコール! 紙吹雪! スタンディングオベーション!)と大騒ぎだ。
「……おう。すごかったぞ。最初の入り方とか、ベテランの風格があった」
「えっ? ほ, 本当?」
(ベテラン……? 実力派ってこと!?)
違う、そうじゃない。
ああ、俺はアレ歌うか。




