抱いて!……あ、それはまだダメ! 恥ずかしい!
球技大会を数日後に控え、俺と朝比奈は、実行委員の仕事として旧体育館の裏手にある備品倉庫に来ていた。
普段は使われない古い倉庫だ。
カビと埃の匂いが立ち込める薄暗い室内で、俺たちは玉入れの球や綱引きのロープの数を数えていた。
「ええと、赤のビブスが二十枚、白が……」
クリップボードにペンを走らせていた朝比奈は真面目に仕事をしているが、俺は他の音の方が気になっていた。
倉庫の鉄扉の向こうから聞こえるチリチリとした不快なノイズ。
(へへっ、閉めてやろうぜ)
(聖女様、あの陰キャと二人きりで埃まみれの倉庫でお泊りかよ。ウケる)
暇なやつらだ。
俺が舌打ちを噛み殺した直後。
ガチャンッ!
鈍い金属音が響き、倉庫の重い鉄扉が完全に閉ざされた。
「あら……風かしら?」
朝比奈が小首を傾げて扉に近づき、ノブを回す。
だが、ガチャガチャと空回りするだけで開かない。
「開かないわね。……古いから、建付けが悪くて引っかかっちゃったのかしら」
外から鍵をかけられたことになど微塵も気づかず、純粋なアクシデントだと思い込んでいる聖女様。
だが、その脳内は、外の連中の悪意など吹き飛ばす勢いで、別の方向に沸騰し始めていた。
(伝令ェェェッ!! 我が軍は密室の陣に孤立しました!)
(なんだと!? しかしこれは……!)
朝比奈の脳内に、いつぞやの『五虎大将軍』たちが再登場していた。
兜を被ったミニ朝比奈たちが、陣幕の中で床を叩いて立ち上がる。
(軍師殿! いかがなされる! 軍議だ! 軍議を開く!)
(ふっふっふ……慌てるな、猛将たちよ。この状況、見方を変えれば『圧倒的好機』である!)
(な、なんと!?)
(考えてもみよ。ここは薄暗い密室。頼れるのは互いのみ。恐怖と不安が交錯する中……そう、いわゆる『吊り橋効果』が発動する絶好のシチュエーションである!)
(おおおぉぉぉっ!! さすがは軍師殿! 天は我らに味方した!)
(よし! 直ちに『不安げなヒロイン』モードに移行せよ! 佐鳥くんの胸に飛び込み、その頼もしい腕に抱きしめるのだ!)
……お前、本当にたくましいな。
俺はため息をつきつつ、スマホを取り出した。
圏外だ。この旧体育館の裏手は電波が入りにくい。
「さ、佐鳥くん……どうしよう。スマホも、圏外みたい……」
朝比奈がスマホの画面を見せながら、計算し尽くされた『潤んだ瞳』で俺を見上げてくる。
脳内では(よし! 完璧な上目遣いだ!)と大合唱が起きている。
「……仕方ない。誰か通りかかるのを待つか」
「そ、そうね……。でも、暗くて、ちょっと怖い、かも……きゃっ!」
朝比奈がわざとらしく足元をふらつかせ、俺の方へ倒れ込んできた。
(『暗闇でバランスを崩す』の陣を引く! さあ受けてみよ!)
俺は無表情のまま、半歩だけ横にスライドした。
「あわわっ!?」
俺に寄りかかるはずだった朝比奈は、そのまま空を切って跳び箱の山に突っ込みそうになり、慌てて自分で踏みとどまった。
踏みとどまれることはわかっていた。そうじゃなければさすがに助ける。
(避けたァァァ!? なんで!? そこはガシッと腰を抱くところでしょ!)
(やり直し! 次は『埃が目に入っちゃった』の計だ! 至近距離で顔を近づけさせよ!)
「い、痛っ……。佐鳥くん、なんだか埃が目に入っちゃったみたい……。よく見えないわ……」
朝比奈が片目を押さえ、涙目を作りながらフラフラと俺に近づいてくる。
俺は無言でポケットから未開封の目薬を取り出し、彼女の手に握らせた。
「差せ」
「えっ、あ、はい……」
(物理アイテムで解決されたァァァ!! なんと堅牢な城か!)
(くっ……! だが諦めるな! ここには私たちしかいない! 沈黙が続けば、いずれ互いの鼓動が聞こえるほどのムードになるはず……!)
目薬を差して視界を回復させた朝比奈は、今度は作戦を変え、体育座りで跳び箱の陰に縮こまった。
薄暗い倉庫。カビの匂い。そして、静寂。
……になるはずだった。
(……)
(…………)
(……近い。3メートル先に、佐鳥くんがいる)
(真っ暗闇で二人きり。このまま朝まで誰にも気づかれなかったら……?)
(どうしよう、佐鳥くんが獣になっちゃったら! いや、ならないだろうけど! でも万が一ってことも! 心の準備が!)
(心臓の音がうるさい! 聞こえちゃう! 佐鳥くんに聞こえちゃうよォォォ!)
……聞こえてるよ。物理的にな。
沈黙のムードどころか、彼女の脳内は暴走特急と化していた。
鼓動の音(ドックン、ドックン)というBGMまで勝手に再生され始め、俺の脳髄をガンガンと揺らしてくる。
(ああっ、ダメ! 佐鳥くんの息遣いが聞こえる気がする! 暗闇効果で色気が三割増しよ!)
(議長! 体温が上昇しています! このままではオーバーヒートで鼻血が出ます!)
(深呼吸だ! でも深呼吸したら佐鳥くんの残り香(成分)を吸い込んじゃう!)
(ははは! 宴じゃ! 宴を開け!)
俺はこめかみを強く押さえた。
うるさい。限界だ。
外からは連中の下劣な笑い声が微かに聞こえ、内からは恋愛脳の武将たちがドンチャン騒ぎをしている。
こんな埃っぽい空間で、この大騒音に付き合わされ続けるなんて、俺の平穏が死滅する。
「……少し下がってろ」
俺は持っていたビブスの束を放り投げ、鉄扉の前に立った。
「えっ? 佐鳥くん……?」
朝比奈が目を丸くする。
この旧体育館の扉は古い。建付けはガタガタだ。
長年の鍛錬で培った体幹と足腰があれば、この程度の劣化した扉、どうということはない。
俺は呼吸を整え、重心を落とした。
外には人の(声)はしない。
さっきの連中は閉じ込めるだけ閉じ込めて、どこかへ行ってしまったらしい。
「……ふっ!」
短い呼気と共に、俺の右足が跳ね上がった。
狙い違わず、扉の蝶番のすぐ横、最も強度が落ちている一点に、全体重と捻りを加えた蹴りを叩き込む。
ドゴォォォォォンッ!!
爆発のような轟音が古い倉庫に響き渡った。
ひしゃげた金属音と共に、外のかんぬきごと扉の金具が弾け飛び、重い鉄扉が勢いよく外側へと吹き飛んで開いた。
俺は舞い散る埃を払いながら、ゆっくりと外に出る。
俺がやれやれと振り返ると、倉庫の中では朝比奈がポカンと口を開けて固まっていた。
(えっ?)
(……えっ!?)
脳内の五虎大将軍たちも、手にした軍配を落として硬直している。
(み、密室イベントが……物理破壊された……!?)
(私のドキドキムードは!? 暗闇のドキドキは!?)
大混乱に陥る脳内議会。
だが、数秒のフリーズの後、朝比奈の瞳に別の光が宿った。
(……でも)
(扉を蹴り破る佐鳥くん……脚長っ! そしてあの冷たい視線! ワイルド……!)
(待って、さっきの『少し下がってろ』って声、低くて超絶セクシーじゃなかった!?)
(議長! プラン変更! 『吊り橋効果』から『ワイルドな彼に惚れ直す』ルートに移行します!)
(全軍、佐鳥くんの男らしさにひれ伏せェェェッ!!)
……お前の適応能力、どうなってんだよ。
結局、騒音は『佐鳥くんワイルド! 抱いて!……あ、それはまだダメ! 恥ずかしい!』という別の爆音に切り替わっただけだった。
ひしゃげた扉を見て感嘆のため息をついている。心配するな抱かないから。
「すごいわ、佐鳥くん……! 古いから完全に壊れちゃってたのね。助かったわ!」
「朝比奈。点検の続きだ」
「は、はいっ! 佐鳥くん……カッコよかったです……!」
顔を真っ赤にして小走りでついてくる朝比奈。
消え入りそうな声が聞こえたが、本人は今(何を言っている私は! 聞こえたか! 聞こえたのか!?)と騒いでいるから、聞こえなかったことにする。
「はあ……それにしても」
彼女が他人の悪意に一切気づいていないことは、いいことなのだろうか。
それとも逆か。
俺は溜息をつきながら、ひしゃげた鉄扉を元に戻すのを諦め、次の備品チェックへと向かった。
備品を数えつつ、色々考える。
蹴り破ってしまった扉への言い訳、悪意を見せてきた連中のこと。
そして、今も最大ボリュームでうるさい隣の人への対応。
高校入学して二か月程度だが、いろいろと、めんどうくさい。




