わかってくれた
土曜日の騒がしい脳内実況の余韻が、まだ耳の奥に残っている気がする。
だが、週明けの教室は別の意味で騒がしかった。
買い出しから二日が経ち、俺たちのクラスには、俺が発注した例の「クラスTシャツ」が届いていたのだ。
段ボールから取り出された鮮やかなターコイズブルーのシャツに、教室中が沸き立っている。
「うおー! 結構いい色じゃん!」
「背中のロゴも可愛くない?」
「これ着て円陣組もうぜー!」
喧騒の中、俺は自席で頬杖をつき、その光景を眺めていた。
俺の手元にも一枚配られたが、袖を通すのは本番だけでいい。
さて、Tシャツが届けば、次に始まるのは「練習どうするか」会議だ。
そして、これが揉める。必ず揉める。高校生活の様式美と言ってもいい。
「ねえ、明日から朝練しない? 本気で優勝狙いたいし!」
一人の女子――バスケ部員の活発なタイプ――が声を上げた。
それに呼応して「いいね!」「やろうぜ!」と盛り上がる体育会系グループ。
だが、教室の空気は一瞬で二分された。
「えー、朝練? マジで?」
「俺パス。眠いし」
「放課後だけでよくね? ガチ勢じゃないし」
帰宅部や文化部を中心とした「エンジョイ勢」からの反発だ。
空気が淀む。
「は? クラス行事なんだから協力しなよ」
「強制すんなよ。ダルいって」
売り言葉に買い言葉。
楽しげだった教室が、一気に険悪なムードに包まれる。
飛び交う思考ノイズも(うぜぇ)(空気読めよ)(めんどくさ)といったトゲのあるものに変わっていく。
小学校の『男子もちゃんと歌ってくださーい』のときに百回は聞いたぞこれ。
チッ。うるさくなってきたな。
朝比奈ほどの声量は個々人にはないが、こう多いと頭痛がしてくる。
俺はシャーペンを回しながら、タイミングを計った。
このまま言い合いがヒートアップすれば、俺の安眠環境にも悪影響が出る。
どっちかの意見を尊重しつつ、適当な妥協案を匿名で、例えば黒板に書くとかして提示してやるか……。
そう考えて、俺が指を動かそうとした、その時だ。
「……みんな、少し聞いてくれる?」
凛とした、よく通る声が響いた。
隣の席。朝比奈七瀬が、スッと立ち上がっていた。
その姿は、背筋が伸びていて、表情には一点の曇りもない「聖女」そのものだ。
だが、至近距離の俺には聞こえている。
その内側で、必死に計算機を叩く音が。
(緊急事態! クラス内分裂の危機! レベル4!)
(どうする!? どちらの顔も立てつつ、建設的な着地点を見つけないと!)
(検索! 『集団心理』『対立構造の解消』『リーダーシップ論』!)
(シミュレーション開始! A案:多数決 → 遺恨が残る! 却下!)
(B案:熱意で押し切る → 冷めてる層が離脱する! 却下!)
(C案:『条件付き参加』による折衷案!)
(これだ! これで行くぞ! 震えるな私! 膝のガクガクを止めろ!)
(表情筋固定! 『慈愛の微笑み』セット! 出力120%!)
ここまで三秒。
朝比奈は、本当は震えそうな足を強引に固定して、トゲトゲしていた男子生徒たちに、ふわりと微笑みかけた。
「朝早くから集まるのは、遠くから来ている人や、朝が苦手な人には負担が大きいと思う。……強要してしまっては、せっかくの楽しい行事が台無しになってしまうもの」
「あ、朝比奈さん……」
文句を言っていた男子たちが、毒気を抜かれたように口をつぐむ。
まずは「否定派」への共感(寄り添い)。完璧だ。
「でも、優勝を目指したいという気持ちも、とても素敵だと思うの。クラスのために頑張ってくれるのは、すごく心強いわ」
次は「賛成派」への肯定。
バスケ部の女子も「ま、まあね……」と矛を収める。
「だから、朝練は『自由参加』にしない? その代わり、来た人の出席率に応じて、当日の打ち上げのジュース代を、実行委員費から少し優遇する……とかはどうかしら?」
(言った! いったわ! 言い切った!)
(どうだ!? 反応は!? 飴と自由! パンとサーカス! ……それは違うか)
(先生にはあとで私が直談判して予算をブン取る! 波平先生は適当だから大丈夫!)
……裏工作まで計算済みかよ。
教室が、しばしの沈黙に包まれる。
そして。
「……ま、自由参加ならいいか」
「ジュース奢ってくれんなら、たまには行ってもいいけど?」
「じゃあガチ勢だけで戦術練ろうぜ!」
空気が、緩んだ。
対立構造が解消され、まあそれならという納得感が広がる。
「さすが朝比奈さんだなぁ」
「いい案じゃん。角が立たないし」
「やっぱ聖女様は見てるとこ違うわ」
「朝比奈ちゃんがいるとクラスが明るくなるよね!」
クラスメートたちからの称賛の声。
朝比奈は「よかった」と謙虚に微笑んで着席した。
その瞬間、彼女の脳内からは
(た、助かったぁぁぁぁ! 足震えてたのバレてない!? 汗かいてない!?)
という安堵の悲鳴が聞こえてきたが、表面上は完璧なポーカーフェイスだ。
「……」
俺は回していたシャーペンを置いた。
出番はなかった。俺が介入するまでもなかった。
彼女は、俺がいなくても、こうやって一人で戦えるのだ。
あの震える足と、高速回転する脳みそフル稼働させて、自分の力で「聖女」という役割を全うしている。
「……お疲れ」
俺は視線を黒板に向けたまま、ボソリと呟いた。
「えっ?」
「……今の、いい落とし所だったんじゃないか」
隣から、息を飲む気配がした。
そして数秒後。
俺の耳には、いつもの脳内会議ではなく、静かで誇らしげなファンファーレが届いた。
(……佐鳥くんに、褒められた)
(見ててくれた。私が頑張ったこと、ちゃんと分かってくれた)
「……ありがと」
返ってきた声は、クラスのみんなに向けた「聖女の声」ではなく、等身大の「朝比奈の声」だった。
俺は何も答えず、ただ微かに口角を上げた。




