毒されてるな俺も
帰宅後の自室。
高級マンションの最上階にある俺の部屋は、今日も完璧な静寂に包まれていた。
生活感のない広いリビング。冷蔵庫の駆動音と、俺がページをめくる音だけが響く。本来なら、これこそが俺の愛する「平穏」の完成形だ。
だが、今の俺は参考書の内容が頭に入ってこない。
机の上に置いたスマートフォンが、さっきから視界の端で存在感を主張しているからだ。
夕方、あの騒がしい「脳内捜査本部」のガサ入れを防ぐために交換した連絡先。正直、早まったという気もしてきた。
連絡は業務連絡だけだぞ、と言外に示したつもりだが、あのポンコツ完璧主義な聖女様のことだ。必ず何かしらのアクションを起こしてくる。
ブヴッ。
短く震えた端末に、俺は反射的に手を伸ばしていた。
画面には『朝比奈七瀬』の文字。メッセージではない。通話だ。
「……はぁ」
俺は一つ深呼吸をして、覚悟を決めた。
通話ボタンを押し、耳に当てる。どんな絶叫が、あるいはどんな脳内合唱が鼓膜を殴りつけてくるのかと身構えて。
「……もしもし」
『あ、佐鳥くん? 夜分に……ごめんなさい。今、大丈夫かしら?』
「……あ、ああ」
拍子抜けするほど、静かだった。
スピーカーから流れてくるのは、不純物が一切混じらない、真冬の清流のような凛とした声だけ。
いつもの「ぎゃああああ!」というパニックも、ミニキャラたちの怒号も、第九の合唱もない。当然だ。俺の能力の有効半径は二〇メートル。電波は彼女の「心の声」までは運んでこない。
『あのね、Tシャツのデザイン案のことなんだけど……』
「ああ、送ってくれたやつ見たぞ。B案のロゴ配置でいいと思う」
『ええ、私もそう思っていたの。ただ、生地の色味だけは実物を見ないと決められないと思って』
スムーズだ。あまりにも会話がスムーズに進む。
普段なら、彼女が言葉を発する前に、高速脳内会議に耐えきれなくなった俺が「正解」を先回りして提示し、強制終了させる。
だが今は、彼女が何を考え、どう言葉を選んでいるのか、そのプロセスが全く見えない。まるで普通の人の会話みたいだ。
『それでね、相談なんだけど……』
そこで、ふっ、と言葉が途切れた。
沈黙。電話の向こうが、完全な無音になる。
「…………」
いつもなら、この空白には「ノイズ」が詰まっているはずだ。
(議長! 誘い文句の決議を!)とメガネのミニ朝比奈が叫んでいたり。
(デートって言っちゃえ! 言っちゃいなよ!)と悪魔のコスプレをした朝比奈が唆していたり。
あるいは、感極まってオーケストラが演奏を始めていたり。
だが、今は聞こえない。
彼女が今、受話器の向こうでどんな顔をしているのか。
緊張で顔を真っ赤にしているのか、それとも澄ました顔でメモを取っているのか。
呼吸音ひとつ聞こえない静寂に、戸惑ってしまう。俺は無意識に、誰も見ていないのに姿勢を正していた。
「……朝比奈?」
『……っ! は、はい!』
「聞こえてるか。電波悪いのか?」
『ち、違うの! ごめんなさい、ちょっと……言葉を探していて』
言葉を探している?
その「探している様子」が、俺にはわからない。
カンニングペーパーを取り上げられた受験生のような、頼りない不安が胸をよぎる。
俺は無意識に、受話器を握る手に力を込めた。
『その……もし、佐鳥くんの予定が空いていたら、なんだけど』
再びの、わずかな「間」。
その直後に紡がれた声は、脳内ノイズがない分、ダイレクトに、あまりにも「女の子」の声として響いた。
なんだこれ、何で俺緊張してるんだよ。
『今度の土曜日……一緒に、お店まで見に行ってくれないかしら』
「――」
心臓が、トクンと跳ねた。
うるさい心の声がない。だからこそ、その言葉が「計算された演技」なのか、「必死の勇気」なのかの判断がつかない。
いや、そもそもそれは本質的には同じものなのだが、俺の受け取り方の問題として。判断がつかないからこそ――俺は今、ただの男子高校生として、美少女からの誘いに動揺している。
俺は自分のペースを取り戻すように、わざとぶっきらぼうに答えた。
「……まあ、いいけど。俺も暇だし」
『まっ……! ……ほんと!?』
「うわっ」
スピーカーが音割れするほどの、弾んだ声。
さっきまでの「聖女」のトーンはどこへやら、素の喜びが爆発したような声だった。
『あ、ご、ごめんなさい! 大きな声出して……。そ、そう、暇ならよかった! 効率的だし』
「……そうだな」
『じゃあ、土曜の一時に、駅の北口デッキで。……おやすみなさい、佐鳥くん』
「わかった。じゃあこれで」
通話終了のボタンを押そうとした、その寸前。
受話器の向こうから、消え入りそうな、けれど確かに甘い独り言が漏れた。
『……えへへ』
プツン。
通話が切れる。
部屋に、再び重苦しいほどの静寂が戻ってきた。
「……なんだよ、今の」
俺は熱を持ったスマートフォンを見つめ、長いため息をついた。
最後のアレは反則だろ。
いつもなら「うるせえ」と切り捨てる彼女の好意が、声だけで、しかも中身が見えない状態で投げかけられると、こうも調子が狂うものなのか。
「……土曜日、か」
次に会う時。俺の有効半径に入った瞬間。
彼女の心は、一体どんな爆音を鳴らしているのだろうか。
それが怖いような、ほんの少しだけ……確認するのが楽しみなような。
毒されてるな、俺も。
俺は思考を振り払うように、参考書を閉じて立ち上がった。
今日の勉強は、もう無理そうだ。仕方がないので、筋トレとサンドバッグのメニューを倍にしよう。
この動揺を物理的に殴り飛ばすために。
次回からデート回です




