ドイツ語上手だなおい
放課後。俺が一番愛する時間帯だ。
教師の眠たい説教からも、小山内の腐った妄想からも、そして何より――球技大会実行委員の仕事も本日はナシ、隣の席の「重すぎる恋」からも解放され、図書館やトレーニング場所の土手へ帰還できる。
はずだった。
「……マジかよ」
昇降口にたどり着いた俺の耳に届いたのは、バケツをひっくり返したような激しい雨音。
多くの生徒が「うわー、最悪」「傘ねえよ」と嘆きながら立ち尽くす中、俺は冷静に鞄の底を探った。
俺は平穏を愛する男だ。天気予報のチェックと折りたたみ傘の常備は、呼吸をするのと同じレベルの基本動作に過ぎない。
さっさと帰ろう。
外でトレーニングをするのは無理だから、今日は家で筋トレして勉強して、昨日の残りのカレー食って寝よう。そう思って、靴を履き替えようとした時だ。
人だかりの少し外れた場所に、「絵」があった。
朝比奈七瀬だ。
彼女は柱に寄りかかり、憂いを帯びた瞳で雨空を見上げていた。
長い睫毛が震え、白く細い指先が、空を切るように伸ばされる。その姿は、まるで悲劇のヒロインか、あるいは雨に濡れる紫陽花の精か。
「七瀬さん、傘がないのかな……」
「俺が入れてあげたいけど、畏れ多くて近寄れねえ……」
男子生徒たちがウダウダと囁きあっている。
……あいつら、幸せそうでいいな。俺には聞こえているんだよ。あのアンニュイな表情の裏で、緊急サイレンが鳴り響いているのが。
(緊急事態! 緊急事態! 豪雨です! 想定の3倍の雨量です!)
(議長! どうしますか!? この雨の中を駆け抜けるプランは却下されました! 制服が透けるのは佐鳥くんの前限定です! 他の有象無象に見せるわけにはいきません!)
有象無象ってお前。
(落ち着いて! 鞄の底には折りたたみ傘があります!)
そう、朝比奈は完璧主義者だ。傘を持っていないわけがない。
(でも! ここで傘をさして帰ったら、ただの「準備のいい女」で終わっちゃうわ!)
(これは神がくれたチャンスよ! 「相合傘イベント」発生のフラグなのよ! 最近は実行委員会で二人で話すことも増えた今、決して不自然ではない!)
(採用! 傘は隠蔽! 奥底に封印せよ!)
(佐鳥くんが来るのを待つんだ! そして「あら、奇遇ですね。私、傘を忘れてしまって……」と健気に震える! これだ! プラン名「雨宿りの捨て猫」作戦!)
(でも待って! もし佐鳥くんも傘を持ってなかったらどうするの!?)
(ふぇぇっ……あいあいがさ、したいよぉっ! わーん!)
今の新キャラだな。幼女か。
(あああ、佐鳥くんが来ちゃう! 靴箱の影に見えた! どうする!? 震える!? しゃがみ込む!? それともいっそ雨の中に飛び出して「雨も滴るイイ女」を演出する!? こう、髪を払って水飛沫をあげる峰不二子みたいなムーブする!? それで佐鳥くんが傘差し出してくれるの待つ?)
結構古いの知ってるな。
「……はぁ」
……うるさい。雨音よりも激しい脳内会議のせいで、俺の鼓膜は限界だった。
このまま放っておけば、彼女はパニックのあまり本当に雨の中へダイブしかねない。あるいは、俺が素通りしてしまった場合は、明日一日中後悔の反省会を聞き続けることになるだろう。
詰みだ。
俺は深くため息をつき、鞄の底から折りたたみ傘を掴んだ。
その時だった。
朝比奈が、決死の覚悟を決めた顔で、雨のカーテンに向かって一歩踏み出したのだ。
(行くわよ! 濡れても美しい女、朝比奈七瀬! いざ!)
バカ、風邪ひくだろ。
俺は反射的に動き、彼女の背後でバッ、と傘を開いた。
そして、雨の中に飛び出そうとした彼女の頭上に、傘を差し掛ける。
「……っ!」
雨粒に打たれる覚悟をしていた朝比奈が、落ちてこない雨に驚いて振り向いた。
「……あ、佐鳥、く……」
至近距離で目が合う。
美しい顔が凍りつき、彼女にしてはかなり珍しい間抜け面だ。
俺はできるだけ無愛想に、事務的に告げる。
「……濡れるぞ。駅まで。……入れば」
朝比奈が、ぽかんと口を開けた。
……おい、フリーズするな。会議はどうした。早く入らないと俺の肩が濡れるんだが。
俺がもう一度「ほら」と促そうとした、その時だった。
――ピタリ。
今まで頭の中で反響していたサイレンも、怒号も、悲鳴も。すべてが唐突に消え失せた。
そして直後に聞こえてきたのは、脳髄を震わせるような、壮大で美しい旋律だった。
『♪~~~~~~!!』
(ふろいでっ!しゃーねる! げってんふるけん! とほるてあうす! えりーじむ~♪!)
ベートーヴェン、交響曲第九番。いわゆる「歓喜の歌」。
しかもフルオーケストラ。合唱付きだ。ドイツ語上手だなおい。
朝比奈の脳内会議場の天井が吹き飛び、天使たちがラッパを吹き鳴らしている映像が見えるようだ。
(好き)
(ああ、好き)
(世界が輝いて見える)
(雨音が拍手に聞こえる)
(神様、ありがとう。私、今、世界で一番幸せです)
いつもの計算高い思考は消え失せ、ただひたすらに純粋で、暴力的なまでに真っ直ぐな、幸福の感情だけが伝わってくる。
朝比奈は頬を朱に染め、俺の制服の袖を、遠慮がちにギュッと掴んだ。そして、震える声で呟く。
「……はい。……ありがとうございます」
その声は、今まで聞いたどんな「聖女の演技」よりも、可愛らしく響いた。
俺たちは一つの傘の下、雨の中を歩き出す。
左腕に感じる彼女の体温と、頭の中に響き渡る壮大なオーケストラ。
普段なら「うるさい」と切り捨てるところだが……不思議と、不快ではなかった。
「……あの、佐鳥くん」
「ん?」
「……肩、濡れてる」
七瀬が申し訳なさそうに、俺の右肩を見上げた。
俺は傘を少し左に傾けていたため、自分の右半身はずぶ濡れになりかけていたのだ。
「平気だ。これくらいすぐ乾く」
「でも……」
「いいから前見て歩け。水たまりあるぞ」
「……うん。ふふっ」
朝比奈が嬉しそうに笑い、さらに少しだけ、俺の方へ身を寄せた気がした。
「まあ俺、クラシック音楽嫌いじゃないし、な……」
俺は小さく独りごちて、雨に煙る駅への道を歩き始めた。
このまま、この心地よいBGMを聞きながら帰るのも、悪くない。
と思った。が。
(尊い)
不意に、壮大なオーケストラとは異なる、ネットリとした「ノイズ」が背後から混線してきた。
(無理だ……その光景は私に効く……尊みに目がつぶれそうだ)
(あの距離感……、肩が触れるか触れないかの絶妙なスペースに、二人の『初々しさ』が凝縮されている)
(しかも佐鳥氏は、傘をさりげなく朝比奈さん側に傾けている……。無愛想に見えてこの気遣い。これが『スパダリ』の原石だ)
(ああ、神様。私にこの光景を見せてくれて感謝する。今の私の脳内では、pixivランキング1位確実の『雨宿り』SSが書き上がった。タイトルは『レイニー・ブルー・ラブ』で決定だ)
俺は思わず足を止めかけた。
恐る恐る振り返ると――昇降口の柱の陰、掃除用具入れの隙間に、瓶底眼鏡を光らせた小柄な影が、合掌して俺たちを拝んでいるのが見えた。
小山内南志見。あの「攻略サイト」、こんな天気でも稼働してやがったのか。
前からは「歓喜の歌」、後ろからは「腐った祝詞」。
ステレオ放送かよ。せっかくの悪くない気分が一瞬で台無しだ。
「……行こう、朝比奈」
「えっ? あ、はい!」
俺は少し早足になった。
これ以上、あの生きたデータベースに「素材」を提供してやる義理はない。
だが、背中にはしばらくの間、(あぁ~~~……幸せになれよぉぉぉ……)という、やたらと重い念が張り付いていたのだった。
ここまでで第一章です。読んでくださってありがとうございます。
本作はすでに完結まで書き上げてありますので、最後までお付き合いいただければ幸いです。
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よろしくお願いいたしますー。




