表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/35

ドイツ語上手だなおい

放課後。俺が一番愛する時間帯だ。


 教師の眠たい説教からも、小山内の腐った妄想からも、そして何より――球技大会実行委員の仕事も本日はナシ、隣の席の「重すぎる恋」からも解放され、図書館やトレーニング場所の土手へ帰還できる。


 はずだった。


「……マジかよ」

 昇降口にたどり着いた俺の耳に届いたのは、バケツをひっくり返したような激しい雨音。


 多くの生徒が「うわー、最悪」「傘ねえよ」と嘆きながら立ち尽くす中、俺は冷静に鞄の底を探った。

 俺は平穏を愛する男だ。天気予報のチェックと折りたたみ傘の常備は、呼吸をするのと同じレベルの基本動作に過ぎない。


 さっさと帰ろう。


 外でトレーニングをするのは無理だから、今日は家で筋トレして勉強して、昨日の残りのカレー食って寝よう。そう思って、靴を履き替えようとした時だ。


 人だかりの少し外れた場所に、「絵」があった。

 朝比奈七瀬だ。


 彼女は柱に寄りかかり、憂いを帯びた瞳で雨空を見上げていた。


 長い睫毛が震え、白く細い指先が、空を切るように伸ばされる。その姿は、まるで悲劇のヒロインか、あるいは雨に濡れる紫陽花の精か。


「七瀬さん、傘がないのかな……」

「俺が入れてあげたいけど、畏れ多くて近寄れねえ……」

 男子生徒たちがウダウダと囁きあっている。


 ……あいつら、幸せそうでいいな。俺には聞こえているんだよ。あのアンニュイな表情の裏で、緊急サイレンが鳴り響いているのが。


(緊急事態! 緊急事態! 豪雨です! 想定の3倍の雨量です!)


(議長! どうしますか!? この雨の中を駆け抜けるプランは却下されました! 制服が透けるのは佐鳥くんの前限定です! 他の有象無象に見せるわけにはいきません!)


 有象無象ってお前。


(落ち着いて! 鞄の底には折りたたみ傘があります!)

 そう、朝比奈は完璧主義者だ。傘を持っていないわけがない。

(でも! ここで傘をさして帰ったら、ただの「準備のいい女」で終わっちゃうわ!)

(これは神がくれたチャンスよ! 「相合傘イベント」発生のフラグなのよ! 最近は実行委員会で二人で話すことも増えた今、決して不自然ではない!)


(採用! 傘は隠蔽インビジブル! 奥底に封印せよ!)


(佐鳥くんが来るのを待つんだ! そして「あら、奇遇ですね。私、傘を忘れてしまって……」と健気に震える! これだ! プラン名「雨宿りの捨て猫」作戦!)


(でも待って! もし佐鳥くんも傘を持ってなかったらどうするの!?)


(ふぇぇっ……あいあいがさ、したいよぉっ! わーん!)

 今の新キャラだな。幼女か。


(あああ、佐鳥くんが来ちゃう! 靴箱の影に見えた! どうする!? 震える!? しゃがみ込む!? それともいっそ雨の中に飛び出して「雨も滴るイイ女」を演出する!? こう、髪を払って水飛沫をあげる峰不二子みたいなムーブする!? それで佐鳥くんが傘差し出してくれるの待つ?)


 結構古いの知ってるな。


「……はぁ」

 ……うるさい。雨音よりも激しい脳内会議のせいで、俺の鼓膜は限界だった。


 このまま放っておけば、彼女はパニックのあまり本当に雨の中へダイブしかねない。あるいは、俺が素通りしてしまった場合は、明日一日中後悔の反省会を聞き続けることになるだろう。


 詰みだ。


 俺は深くため息をつき、鞄の底から折りたたみ傘を掴んだ。

 その時だった。


 朝比奈が、決死の覚悟を決めた顔で、雨のカーテンに向かって一歩踏み出したのだ。


(行くわよ! 濡れても美しい女、朝比奈七瀬! いざ!)

 バカ、風邪ひくだろ。


 俺は反射的に動き、彼女の背後でバッ、と傘を開いた。


 そして、雨の中に飛び出そうとした彼女の頭上に、傘を差し掛ける。


「……っ!」

 雨粒に打たれる覚悟をしていた朝比奈が、落ちてこない雨に驚いて振り向いた。


「……あ、佐鳥、く……」


 至近距離で目が合う。

 美しい顔が凍りつき、彼女にしてはかなり珍しい間抜け面だ。


 俺はできるだけ無愛想に、事務的に告げる。


「……濡れるぞ。駅まで。……入れば」

 朝比奈が、ぽかんと口を開けた。

 ……おい、フリーズするな。会議はどうした。早く入らないと俺の肩が濡れるんだが。


 俺がもう一度「ほら」と促そうとした、その時だった。

 ――ピタリ。


 今まで頭の中で反響していたサイレンも、怒号も、悲鳴も。すべてが唐突に消え失せた。


 そして直後に聞こえてきたのは、脳髄を震わせるような、壮大で美しい旋律だった。


『♪~~~~~~!!』


(ふろいでっ!しゃーねる! げってんふるけん! とほるてあうす! えりーじむ~♪!)


 ベートーヴェン、交響曲第九番。いわゆる「歓喜の歌」。

 しかもフルオーケストラ。合唱付きだ。ドイツ語上手だなおい。


 朝比奈の脳内会議場の天井が吹き飛び、天使たちがラッパを吹き鳴らしている映像が見えるようだ。


(好き)

(ああ、好き)

(世界が輝いて見える)

(雨音が拍手に聞こえる)

(神様、ありがとう。私、今、世界で一番幸せです)


 いつもの計算高い思考は消え失せ、ただひたすらに純粋で、暴力的なまでに真っ直ぐな、幸福の感情だけが伝わってくる。


 朝比奈は頬を朱に染め、俺の制服の袖を、遠慮がちにギュッと掴んだ。そして、震える声で呟く。


「……はい。……ありがとうございます」

 その声は、今まで聞いたどんな「聖女の演技」よりも、可愛らしく響いた。


 俺たちは一つの傘の下、雨の中を歩き出す。

 左腕に感じる彼女の体温と、頭の中に響き渡る壮大なオーケストラ。


 普段なら「うるさい」と切り捨てるところだが……不思議と、不快ではなかった。


「……あの、佐鳥くん」

「ん?」

「……肩、濡れてる」

 七瀬が申し訳なさそうに、俺の右肩を見上げた。

 俺は傘を少し左に傾けていたため、自分の右半身はずぶ濡れになりかけていたのだ。


「平気だ。これくらいすぐ乾く」

「でも……」

「いいから前見て歩け。水たまりあるぞ」

「……うん。ふふっ」


 朝比奈が嬉しそうに笑い、さらに少しだけ、俺の方へ身を寄せた気がした。


「まあ俺、クラシック音楽嫌いじゃないし、な……」


 俺は小さく独りごちて、雨に煙る駅への道を歩き始めた。

 このまま、この心地よいBGMを聞きながら帰るのも、悪くない。


 と思った。が。


(尊い)

 不意に、壮大なオーケストラとは異なる、ネットリとした「ノイズ」が背後から混線してきた。


(無理だ……その光景は私に効く……尊みに目がつぶれそうだ)

(あの距離感……、肩が触れるか触れないかの絶妙なスペースに、二人の『初々しさ』が凝縮されている)

(しかも佐鳥氏は、傘をさりげなく朝比奈さん側に傾けている……。無愛想に見えてこの気遣い。これが『スパダリ』の原石だ)


(ああ、神様。私にこの光景を見せてくれて感謝する。今の私の脳内では、pixivランキング1位確実の『雨宿り』SSが書き上がった。タイトルは『レイニー・ブルー・ラブ』で決定だ)


 俺は思わず足を止めかけた。

 恐る恐る振り返ると――昇降口の柱の陰、掃除用具入れの隙間に、瓶底眼鏡を光らせた小柄な影が、合掌して俺たちを拝んでいるのが見えた。


 小山内南志見。あの「攻略サイト」、こんな天気でも稼働してやがったのか。


 前からは「歓喜の歌」、後ろからは「腐った祝詞」。

 ステレオ放送かよ。せっかくの悪くない気分が一瞬で台無しだ。

「……行こう、朝比奈」

「えっ? あ、はい!」

 俺は少し早足になった。

 これ以上、あの生きたデータベースに「素材」を提供してやる義理はない。


 だが、背中にはしばらくの間、(あぁ~~~……幸せになれよぉぉぉ……)という、やたらと重い念が張り付いていたのだった。

ここまでで第一章です。読んでくださってありがとうございます。


本作はすでに完結まで書き上げてありますので、最後までお付き合いいただければ幸いです。


もし「続きが気になる」「朝比奈さんがうるさくて可愛い」と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】をタップして評価をいただけると、更新の大きな励みになります。

よろしくお願いいたしますー。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
唐突にクラシック音楽好きとか言ってても、幸せすぎて聞こえてないんだろうなw
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ