01 - 逃げ水の向こう側
逃げ水、というのをご存知だろうか。
よく晴れた風のない日に、遠くに見えるアスファルトなどの上が水のように見える現象だ。近付けどそれに辿り着くことは出来ないことから、逃げ水、という名称が付いた。夏の風物詩だ。
これは熱せられた地表面近くの空気が膨張し、屈折率が変わることにより起きる、一種の蜃気楼である。屈折率が変わり、上方の景色が映り込むため、水面のように見えるのだ。
そんな逃げ水。決して辿り着かないはずの逃げ水に辿り着いた時、一体どうなるのだろうか。
「……………」
それが、今現在の僕の状況だった。
◆ ◆ ◆ ◆
その日は8月に入ったばかりの暑い日だった。僕はうだるような暑さが続く中、クーラーの効いた部屋でグッタリしていたのだが、同居人が、アイス欲しいなぁ、などと言いだした。最初はもちろん拒否した。当たり前だ。外は37℃以上ある真夏日の気温。誰も外になんか行きたくないだろう。
だが、次の瞬間見せた残念そうな顔に、仕方無くコンクリートジャングルを抜け、近くのコンビニに向かうことにした。
我ながら甘いなぁと思う。
というわけで。
「あつい………」
なんて呟きながら、午後の一番暑い時間帯に僕は徒歩でコンビニに向かうのだった。
最初は、歩きながら陽炎揺らぐ空気をぼんやりする頭で眺めていたが、そのうち道の先に逃げ水があるのに気付いた。夏だなぁ、なんてぼやきながら進行方向にある逃げ水を見つつ進んでいたのだが、なぜか逃げ水が近付いている気がした。
あれ?と思った時には、時すでに遅し。いつの間にか僕は水面のような地面に立っていて、周囲からは静寂しか存在しなかった。
「一体なにが起こったんだ………?」
まず、足元を確認する。水面のように反射しているが、しっかりとした踏みごたえがあり、それが堅い地面だということを伝えてくる。なんだか、鏡の上に立っているような感覚だった。
次に周囲。つい10秒ほど前までは汗を拭きながら歩く営業マンや、荷物の積み卸しをしている宅配の人や、日傘を差して歩く婦人なんかが居たはずだ。
しかし今、いつの間にか、周囲に人は誰も居なかった。先ほどまでうるさいほど鳴いていた蝉時雨も止み、鳥の囀りすら聞こえない。道路を走る車は一台もおらず、信号が淋しそうに点滅し、赤になった。
10秒ほど迷ってから出した決断は、
「………戻ってみるかな」
そして僕はきびすを返し、再び歩き出した。
しかし、1分歩いても5分歩いても、元の“世界”には帰れない。それだけでなく、半径100メートルくらいから先に移動出来ないことが分かった。どれだけ歩いても、元の場所に帰ってくるのだ。
これは困った。
………困ったどころの話ではないよね………。
「どうしよう………、どこかの店に入ってみようかな………」
そう呟くと同時、僕の独り言に、初めて介入する声が聞こえた。
「あら? 珍しいやん、人が入り込んで来るなんて」
その声に、僕は驚いて振り返った。
次の瞬間、僕は固まってしまった。
そこには、時代錯誤な昔風の着物を着て、肩上で軽くウェーブした黒髪を持つ見目麗しい女性が立っていたのだ。
よく見れば前髪が目にかからないように、左側はピンで留めているみたいだ。その現代風なところと、古風な着物がなんともミスマッチで、しかし彼女の不思議で神秘的な雰囲気には妙にあっていた。
「………そんなに凝視されると、うちも恥ずかしいんやけど………」
「あっ、ごめんなさい」
彼女の方が年上に見えたので、一応敬語を使う。
しかし彼女は、少し苦笑して首を横に振った。
「ごめんやけど、普通に話してくれへん?」
「え? あ、はい……じゃなくて、うん」
一瞬間違えたが、すぐに訂正した。すると、彼女はとても嬉しそうに笑った。
「うん、ありがとぉ。じゃあ久し振りに人と会うたし、よければちょっと話しせぇへん?」
彼女は優雅な京都訛りで訊ねる。生まれは京都なのだろうか?
なんてことを考えながらも僕は、うん、と頷いた。
それから近くの店に入り(もちろん誰もいない)、彼女は勝手に店の奥へ入ると、両手にアイスコーヒーを持って帰って来た。
「コーヒーで良かった?」
「うん、ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
彼女にニコニコしながら席についたので、僕もその対面に座り込んだ。
ここは店内が適度に薄暗く、落ち着いた雰囲気を持っている。アンティーク風な椅子や小物類と、ステンドグラスで出来た照明器具。部屋の隅には観葉植物が置いてあり、都会の隠れ家みたいな雰囲気だった。
僕は、一瞬でこの雰囲気が好きになった。
「ええお店やろ?」
「うん。こういった空気は大好きだね。時間がゆっくり流れる気がするし」
「うんうん、そうやんなぁ」
えへへー、と笑う彼女は、とても美しく見えた。
と、まったり雰囲気だった僕に、彼女はズイッと顔を近付けてきた。
不意に感じた花のようないい匂いに身を引きつつ、なんとか言葉を絞り出す。
「な、なにかな?」
「あなたの話、聞かせてくれへん?」
いや、僕としてはこの“世界”に彼女しかいない理由や、なぜ帰れないのかや、そもそもここって何?という疑問があったのだが、彼女の期待に満ち満ちた顔に、僕はその疑問に、とりあえずは蓋をする事にした。
「そうだなぁ………、僕が通ってる学校には面白い友人がいてさ、」
そして僕は、自分の学校生活について話し出すのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「………それじゃあ彼は?」
「うん、結局彼は彼女に告白したよ。結果は言わずもがな。今はみんな仲良くしてるよ。確執もほぼなくなったしね」
周りからしたら、やっとかよ、って感じだったけどね、と僕は続ける。
へぇ、と彼女は感嘆の溜め息をついた。
ここであることに気付き、僕は苦笑をもらした。
「なんだか僕の話じゃなくて、友達の話になっちゃったね」
「ううん、話聞いてるだけでも人となりは分かるえ。いやぁ、でもそんなドラマみたいなことがあるやねぇ………」
ほぁー、と言いながら天井を仰ぐ彼女を見て、今度は普通の笑みがこぼれた。
それを見て、彼女は少し顔を赤くしながら口を尖らせる。
「なんやのよ」
「いや、気にしないで」
飄々と応える僕に、なんだか彼女は不満そうな顔をしていたが、何気なしに見上げた時計の針に、文字通り飛び上がった。
「わわっ! もう時間なくなってしもた!」
「え、え? 何事?」
慌てる僕に、彼女は立ち上がり、僕の腕を掴んだ。
「早ぉ行かんと、ここから出られへんようになってまうんや!」
「えぇ!?」
彼女は驚き覚めやらぬ僕を外へ連れ出した。外は、いつの間にか日が傾き始めており、もうじき黄昏時と呼ばれる時間になるだろう。
そして、店を出てすぐ右に曲がった彼女は、数歩小走りで進み、すぐに立ち止まった。
そこは、今居た店と、隣のビルに挟まれた、細い路地。人一人通れるかどうかくらいの狭い道だった。
「ここを通れば、元の場所に帰れるはずや」
「………君は?」
ここを通れば帰れるのは分かった。
じゃあ、彼女は行かないのだろうか。
「うちはええんよ」
「………なんで?」
「ここは本来、人は来たらあかん場所なんよ。うちは偶然入り込んで出られなくなった異邦人。もうこっからは出られへんのや」
僕は黙って彼女の言葉を理解する。
僕も薄々は感じていた。彼女の纏う空気は、僕の――いや、僕らのソレとは一線を画している。
それはすでに彼女が――なのを如実に表していて、僕はそれに感覚ではありながら、不思議な確信を持っていた。
「………分かった。でも、約束をしようよ。いつか、また会おう」
「それは………」
分かってる。無茶な話だ。
彼女もここから出ようと、諦めず、何度も挑んだんだろう。
その結果、諦めた。
………今、僕はとても酷いことを言っている。
諦めてしまうほどに長い間頑張ってきた彼女に、さらに頑張れと鞭打つようなものだ。それは拷問のような――いや、実際拷問でしかないだろう。
それでも――
「………うん、約束しよ!」
彼女は笑って応えてくれた。
それに僕も笑って応える。
「うん。それじゃ、“またね”」
それはサヨナラじゃなくて、再会を誓う言葉。
「うん、“またね”!」
僕は手を振り、路地へ向け駆け出した。
◆ ◆ ◆ ◆
あの出来事から2年もの時間が過ぎ去った。
あれから路地を駆け抜けた僕は、その先で見知らぬサラリーマンにぶつかってしまった。すいませんと謝りながらも僕は、元の場所に帰って来たんだなと感慨深くなったものだ。
帰ってからもこの不思議な出来事を誰にも話すことはなかったが………、いや、一人だけ友人に話した。
まぁとにかく、彼以外誰にも話すことはなかった。
そうして時は過ぎ、あれから僕は、暇になればあの店に足を運んでいる。別に待っているとかではなく、なんかそこに彼女がいるような気がしたからだ。
それに、純粋にその店が気に入った、というのもあるのだけど。
あと、店とビルとの間にあった、僕が元の“世界”に戻るために駆け抜けた路地だが、こちらにはそんな路地は存在しなかった。というのも、店とビルの隙間は本当に狭く、猫も通れるかというくらいだったのだ。
もしかしたら、あそこがこちらへの唯一の道だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕はあの日座った席で、アイスコーヒーを飲んでいる。もちろん何人か人もいるし、マスターもいる。僕はすでに常連となっているので、マスターとも顔見知りだ。
今はあの時と同じ8月。あれ以来、逃げ水に追い付くことはなかったが、それでいいと思った。
だって、約束したのだから。
チリン………
店内に軽やかな音が響き渡る。
店の扉が開いたようだ。誰か入ってきたのか出ていったのか。扉は僕からは背後にあるので、見ることはできない。
すぐにそれは記憶の隅に追いやられ、僕は落ち着いた空気とBGMの中、ぼんやりと本を読みながらアイスコーヒーを飲み込んだ。
その時、
ストン、と僕の対面に誰かが座った。相席か?とも思ったが、他に席はまだ空いていたはずだ。
僕はぼんやりとしたまま本から顔を上げ、対面に目の焦点を合わせる。
そして、固まった。
「………久しぶりやね」
「君は………」
―――そこにいたのはなんと、あの日の彼女だったのだ。
2年ぶりに会う彼女は、古風な着物ではなく、空色のサマードレスを着て、長い黒髪は2つに緩く括り手前に流していた。
………僕は驚きで言葉がでなかった。
しかし、動こうとしない喉に鞭打ち、これだけ絞り出すことに成功した。
「………約束、守ってくれたんだね」
そう言って笑うと、彼女も花が咲くように微笑んだ。
「あなたと約束したから、うちは戻って来れたんよ。大変やったんよ? ………ねぇ、久しぶりにあなたのこと話してよ」
その言葉に僕は目頭が熱くなるのを感じつつ、何を話そうかと考え始めるのだった。
―――END―――
どうも。黒色猫です。
これは活動報告で書いたアレに、ちょいちょい付け加えて書き直したものです。あまり変わってないかも?
で、その時も書きましたが、この話は暑いある日に、逃げ水について調べたのがきっかけでした。そしたら決して追い付けないと書いているではありませんか。なら追い付いたらどうなんの?と思い、書き始めました。
私が小説を書く理由なんて、所詮その程度です。
それでは、少しでも暇つぶしになれたのなら、それは幸いなことです。なれなかったらごめんなさい。
次はスランプってた時に書いてた話を整理してアゲると思います。夢を喰う少女の話。
それでは失礼。またいつか。
追記。
その前に公式企画のホラー(?)でも投稿します。
追々記。
ホラーとか無理でした。夢喰い少女も出来あがらないので、お茶濁しにちょいちょい投稿していきます。