第3話:温泉の壁越しに、国家予算級のスカウトを受けました。
「はふぅ……。生きててよかった……」
露天風呂の縁に頭を預け、私は空を見上げた。
冷たい雪の粒が頬に当たっては、熱いお湯に触れ、
一瞬で消えていく。
そのあまりの心地よさに、
前世の残業代未払いの恨みも、
今世の無給聖女としての苦労も、
すべてが湯気に溶けていくようだった。
「……信じられん。ただの湯が、
これほどまでの密度を帯びるとは」
すぐ近く。
薄い板の仕切りを隔てた男湯の方から、低く、
美しい声が聞こえてきた。
どうやら先客がいるらしい。
この宿は静かだと思っていたけれど、
やっぱり、温泉好きはどこにでもいるものだ。
「そうですよね。ここのお湯、本当にすごいです。
なんだか、今まで体に溜まっていた変な重りが、
全部剥がれていくみたいで」
私はつい、独り言の延長で相槌を打ってしまった。
聖女だった頃は、話しかけていいのは、
上位の神官か王族だけ、という、
厳しいルールがあったけれど、今はただの無職。
誰と喋ったって自由なのだ。
「……お湯が『重り』を剥がしているのではない」
男の声が、少しだけ近づいた気がした。
低いのに、どこか切迫したような、不思議な響き。
「貴殿が入浴した瞬間、この霊泉の『源流』が、
完全に開いたのだ。……ただの湯治客とは思えん。
貴殿、どこの組織の者だ?」
「組織……?
ああ、前までは国の神殿で働いていましたけど。
今はただのプー太郎です。あ、プー太郎は、
その、旅人みたいな意味ですよ!」
「神殿、だと」
男の沈黙が重く響く。
私はそんなことを気にせず、
お湯の中で手足をバタバタと動かした。
ああ、神聖力を全部結晶に置いてきて正解だった。
魔力の導管が空っぽになったおかげで、
温泉の成分が染み渡るのがよく分かる。
「ずっと……苦しかったんです。私の魔力って、
すごく効率が悪いというか、
普通の人が一回で済む魔法を維持するのに、
十倍くらいの『管理』が必要だったみたいで。
毎日毎日、メンテナンスばっかりで、
自分の時間なんて1秒もなかったんですよ」
「管理……? 低出力の魔力で、
高次の事象を維持していたというのか」
「ええ。だから、辞められてせいせいしました!
今はただ、このお湯に浸かって、
美味しいものを食べて、お昼寝がしたいだけです」
私は満足げに息を吐いた。
一方で、仕切りの向こう側。
アイゼンガルド帝国の王弟、
アレックスは、自分の耳を疑っていた。
彼は、戦場で受けた呪毒を癒やすため、
この「龍の涙」に半年近く通っている。
だが、どれほど霊力を注いでも、
この泉が本来の力を発揮することはなかった。
それが今。
壁の向こうにいる「女」が入ってきた瞬間、
泉は黄金色に輝き、
彼の体内の毒を驚異的な速度で分解し始めている。
『……信じがたい。
低出力の魔力で、管理をしていたと言ったか?
それは、魔力の絶対量ではなく「演算能力」と、
「構成力」だけで、
世界を書き換えていたということではないか。
そんなことが可能なのは、歴史上、ただ一人……』
アレックスは、お湯に浸かったまま、
震える手で自身の胸元に触れた。
あれほど消えなかった黒い斑点が……。
目に見えて、薄くなっていく。
「……おい。名前は何という」
「ティナです。苗字は……さっき、
捨ててきちゃったので、ありません!」
「ティナか。……貴殿、我が国に来る気はないか。
職を求めているのだろう」
「ええっ、スカウトですか!?」
私は驚いて、お湯から飛び出しそうになった。
まさか、退職して数時間で、
温泉の壁越しに次の仕事の話が来るとは。
「でも、私、もう難しいことはしたくないんです。
朝はゆっくり起きて、
定時に帰れて、残業がないところじゃないと。
あと、冷めたスープはもう嫌です」
「……保証しよう。住居は最高級の離宮を、
食事は帝国最高の料理人を付けよう。
出勤時間は貴殿の好きにしろ。
ただ、『そこにいてくれる』だけでいい」
「……そこにいるだけでいい?」
私は首を傾げた。
そんな、前世の「受付嬢」みたいな楽な仕事が、
この異世界にあるんだろうか。
もしかして、隣国アイゼンガルドって、
ものすごくホワイトな国なんじゃ……。
「……あ、でも、一つだけ条件が。
私、元いた国から『無能』って言われて、
クビになった身なんです。だから、
すごい魔法とかは期待しないでくださいね。
せいぜい、おまじないをかけるくらいですから」
「……フ。構わない。その『おまじない』こそが、
今の私……いや、我が国には必要なのだ」
アレックスの声に、微かな笑みが混じる。
「それなら、いいですよ! 温泉巡りが終わったら、
面接に行きますね」
「……逃がすつもりはない。
明日、私が自ら貴殿を迎えに行こう。
宿のロビーで待っていなさい」
「えっ、わざわざ? 丁寧な会社ですねぇ……」
私は感心してしまった。
前世の就職活動なんて、何十社も回って、
ようやく一社、内定が出るかどうかだったのに。
温泉に入っているだけで再就職が決まるなんて、
やっぱり辞めて正解だったんだ。
「あ、そうだ。会社名……じゃなくて、
お名前を伺ってもいいですか?」
「……アレックスだ」
「アレックスさんですね。よろしくお願いします!」
私は機嫌よくお湯から上がった。
明日の「面接」に備えて、今日は早く寝て、
お肌のコンディションを整えなきゃ。
翌朝。
宿の前に、
帝国軍の黒塗りの豪華馬車がズラリと並ぶ。
近衛兵たちが、
「伝説の聖女殿を丁重にお迎えしろ!」と、
血眼になって整列する光景を見て、
私は首を傾げた。
「わあ、大きなキャラバンですね。……あれ、
私の面接会場、あの中なのかな?」
王族用の赤い絨毯が敷かれていく。
私はてっきり、
「親切な宿のサービス」だと思って、
笑顔で踏み締めたのだった。




