第2話:退職後の業務連絡は、一切受け付けておりません。
王都の分厚い城門。
が、重々しい音を立てて背後で閉まった。
その瞬間、全身の力がふっと抜けるような、
かつてない軽やかさが、私を包み込んだ。
「ああ……空が、こんなに青かったなんて」
前世、窓のないオフィスで連日日付が変わるまで、
キーボードを叩いていた日々。
そして今世、神殿の最深部にある術式室で、
二十四時間休まず、結界の糸を編み続けてきた、
この十年。
私の世界は常に「壁」に囲まれていた。
けれど今、私の目の前にはどこまでも続く草原と、
輝くような街道が伸びている。
私は手元の小さなカバンをぽんと叩いた。
中身は着替え数枚と、
これまでに貯めたわずかなお給料(報奨金)。
そして神殿の去り際に持ってきた、
私物の魔力回復ポーション数本だ。
「さて、まずは馬車を拾わなきゃ。
目指すは隣国『アイゼンガルド』……。
の辺境にあるという、秘湯中の秘湯。
シュネー温泉へ!」
私はスキップせんばかりの足取りで歩き出した。
自分が門を出た数分後。
王都を覆っていた「黄金の結界」が、
まるで電池の切れた電球のように点滅し、
ぷつりと消失したことなど、露ほども知らずに。
一方その頃、王立神殿の大広間は。
まさに、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「な、何事だ! なぜ結界が消える!? メアリ、
早く予備の魔力を流し込め!」
王太子カイルが、顔を真っ青にして叫ぶ。
「やってますわ! やっていますけれど……!
なのになぜ!?」
大聖女として覚醒したばかりの妹、メアリが、
水晶玉に必死に手をかざしている。
彼女の魔力は確かに膨大だ。
歴代の大聖女に匹敵する、
圧倒的な「量」を持っている。
だが、彼女は知らなかった。
ティナが十年間。
たった一人で国を守り続けていたのは、
彼女の魔力が「多かった」からではない。
彼女が前世のエンジニア知識を総動員して作り上げた、『超高効率・自動循環型魔力回路』。
それが、ティナという「サーバー」が、ログアウトした瞬間に、システムごとシャットダウンしてしまったのだ。
「馬鹿な……。祈るだけと言っていたではないか!」
「カイル様、あれを見てください!
外壁の魔法文字が……! 崩れていきますわ!」
神官たちが悲鳴を上げる。
ティナにとって自分が組んだ術式は、
「定時で帰るために必死で構築した、
ただの自動化ツール」に過ぎなかった。
他人が触れば一瞬でオーバーフローを引き起こす、
複雑怪奇なスパゲッティ・コード。
しかしその認識は、彼女には欠片もない。
「ティファーニアを……ティファーニアを連れ戻せ!
早くしろ!」
カイルの声が空虚に響く。
だが、彼女はすでに、街道を走る快速馬車の中、
駅弁代わりのサンドイッチを頬張っていた。
「ふふ、やっぱり旅の醍醐味はこれよね」
私は馬車の揺れに身を任せ、
ハムとチーズがたっぷり入った、
とびきり美味しいサンドイッチを咀嚼していた。
神殿の食事は、常に冷めたスープと硬いパン。
聖女は質素であるべきという、
これまたブラックな社畜規定のせいだ。
温かくて、噛めば味がする食事が、
これほど幸せなんて。
「あー、そういえば」
私は飲み込んだ後で、ふと思い出す。
「メアリちゃん、神聖力の『返上』、
ちゃんと受け取ってくれたかな?」
最後にやったこと。
それは、自分の体内に残っていた全神聖力を、
神殿の核である「聖結晶」に流し込む作業だ。
前世で言うところの「PC机掃除」である。
私物が残っていると後で面倒だから、
きれいに掃除して、使えるデータ(魔力)は、
共有フォルダ(結晶)に置いてきた。
「私の魔力は出力が低いから、
あの子の膨大な魔力の邪魔にならないよう、
きっと隅っこの方に馴染んでるはずよね」
実際には、ティナの「純度100%にまで圧縮・最適化された魔力」は、メアリの「荒削りで不安定な魔力」と混ざった瞬間、激しい拒絶反応を起こしていた。
例えるなら。
最新OSがインストールされたメインフレームに、
強引にアナログの古いパーツを入れたようなもの。
今ごろ神殿のシステムは、
修復不可能なエラーを吐き出し、
フリーズしていることだろう。
だが、ティナは本気でこう思っていた。
『あの大聖女様なら、
私の置いたゴミデータなんて一瞬で上書きして、
もっとすごい結界を作るんだろうな』
「さあ、お仕事のことはもうおしまい。
次は温泉、温泉よ!」
馬車は国境を越え、隣国アイゼンガルドへと入る。
この国は「氷帝」と呼ばれる冷徹な皇帝が治める軍事国家だと聞いているが、温泉地である辺境は年中ポカポカしているらしい。
数時間の揺れの後、私はついに目的の地、
シュネー温泉郷に到着した。
馬車を降りた瞬間。
鼻をくすぐる硫黄の香りと、立ち上る白い湯気。
「……天国だわ」
私はふらふらと、一番近くにあった、
趣のある宿……。
「雪うさぎ亭」の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
「はい! 一泊、いえ、
とりあえず一週間お願いします。……あ、
魔力回復の効能があるお湯って、ここですか?」
「ええ、うちの名物は『龍の涙』と呼ばれる源泉。
魔力疲れには最高ですよ。……お嬢さん、
顔色が少し悪いですね。
相当無理なお仕事をされていたんでしょう?」
宿の女将さんの優しい言葉に、
不覚にも目頭が熱くなる。
「……はい。十年間、一回も有給が取れなくて」
「まあ、それは大変でしたね。
ぜひ、ゆっくりしていってください」
案内された部屋に荷物を置き。
私は速攻で浴衣に着替えた。
タオルを手に、大浴場へ。
ガラガラと扉を開ければ、
そこには広大な露天風呂が広がっていた。
雪が舞う中、湯気の中に浮かぶ岩風呂。
「……極楽」
ざぶんと肩まで浸かった瞬間、
十年間張り詰めていた緊張が、
指先から溶け出していくのを感じた。
私が温泉に浸かると、湯の色が澄んだ青色から、
神々しいまでの黄金色に変化した。
「あぁ……魔力が抜けていく……幸せ……」
一方、露天風呂の反対側、仕切りの向こうでは。
一人の男が、呟いていた。
「……誰だ。この『龍の涙』の霊力を、
一瞬で最大まで活性化させたのは」
傷を癒やすために極秘で湯治に来ていた、
アイゼンガルド帝国の王弟、
アレクシオス・フォン・アイゼンガルドーー。
その人であった。
彼は驚愕していた。
建国以来、一度も「満たされた」ことのない、
この伝説の霊泉が、見知らぬ入浴客の影響で、
今まさに伝説に謳われる、
「至高の薬湯」へと、
変貌を遂げようとしていることに。
「ふぅ……。極楽すぎて、寝ちゃいそう……」
ティナは、当然のように。
仕切りの向こう側に、誰かがいることなど察せず、
ただただ、有給消化の快感に身を委ねていた。




