第六十九話 「気まずい屋敷から逃亡して街へ。ひったくり犯を『慣性の法則』でゴミ山へシュートした」
エリスのポンコツ化と、アリア&クロエからの無言のプレッシャー。
極限状態に達した屋敷の空気に耐えきれなくなった俺は、ついに「買い出し」という名目で逃亡を図ることにした。
「わたくしも行きますわ! 最近、最高級の茶葉を切らしてしまって、喉が渇いて死にそうでしたの!」
「おにくー! まちで、あまーいお肉たべるー!」
ついてきたのは、昨夜の惨劇を何も知らないシャルロットとミリムの二人だけだ。
アリアとクロエを置いてきたのは正解だった。彼女たちの顔を見ると、どうしても『昨夜の熱』を思い出して動悸が激しくなるからだ。
「はぁ……外の空気は美味いな」
隣街の活気ある大通りを歩きながら、俺は深く深呼吸をした。
晴れ渡る青空。立ち並ぶ露店。行き交う人々の喧騒。
物理法則と平和だけが存在する、最高のスローライフ空間だ。
「ヴィクトル、あそこのお店に行きますわよ! 王都でも流行っていた、最新のドレスが……きゃあっ!?」
シャルロットが浮かれて駆け出そうとした、その瞬間だった。
路地裏から飛び出してきた小汚い男が、彼女の肩に激突し、その拍子に彼女が手に持っていた豪奢な財布(中身は俺の白金貨)をひったくったのだ。
「へへっ、トロいお姫様だぜ! ごちそうさん!」
男の足元に、緑色の魔法陣が浮かび上がる。
【風の瞬動】。風属性の初級魔法だが、逃走にはうってつけの加速魔法だ。男は目にも留まらぬ速さで、大通りを駆け抜けていく。
「わ、わたくしの財布がぁぁぁ!! 全財産(ヴィクトルのお金)が奪われましたわーッ!!」
シャルロットが半泣きで俺の服の裾を引っ張る。
「……お前、隙だらけすぎるだろ。王族の護身術はどうした」
「ししょー! ミリムが追いかける!」
ミリムが獣のように四つん這いになり、猛ダッシュの構えをとる。
「いや、待てミリム。街中で竜の脚力を出したら、石畳が粉々になる。俺がやる」
俺は走って逃げるひったくり犯の背中を、冷静に観察した。
風魔法で加速した直線運動。時速にして約60キロ。このまま一直線に逃げられれば厄介だが、男の進行方向には『直角の曲がり角』が迫っていた。
「人間が走って角を曲がる時、靴の裏と地面の間に『摩擦力』がないと曲がれない。文系のお前らにも分かる、ただの『慣性の法則』だ」
「かんせい……?」
シャルロットが首を傾げる。
「走っている物は、そのまま真っ直ぐ走り続けようとする性質のことだ。……だから、曲がる瞬間に『ブレーキ』を壊してやればいい」
俺は指先を軽く鳴らし、男が曲がろうとしている角の石畳に、極小の氷魔法を放った。
魔法陣すら見えない、ほんの数センチの薄い氷の膜だ。
「そらよっ、と! ここで曲がって路地裏に……うおっ!?」
男が直角に曲がろうと、思い切り石畳を蹴り込んだ瞬間。
彼の靴底は、摩擦係数ゼロの氷の上をツルンと滑った。
「な、なんだこれぇぇぇぇ!?」
曲がるための力を完全に失った男は、『慣性の法則』に従い、直角に曲がることはできず――そのまま一直線に、猛スピードで宙を舞った。
そして、角の正面に山積みになっていた『生ゴミの集積所』へと、美しい放物線を描いてダイブしたのだ。
――ズッチャァァァァァン!!
「……ぐべぇっ……」
腐ったトマトと謎の汚汁にまみれ、男はピクピクと痙攣して気絶した。
見事なストライクである。
「おぉぉぉー! おじさん、飛んでったー!」
ミリムがパチパチと拍手をする。
「おっほほほほ! わたくしたちに手を出そうなど、100年早いですわ! ……ヴィクトル、早くわたくしの財布をあの汚い山から拾ってきなさい!」
シャルロットが扇子でゴミ山を指差してふんぞり返る。
「……お前の財布だろうが。自分で拾え」
俺はため息をつきながら、魔法で財布だけを空中に浮遊させて回収した。
「まぁ、これで少しはストレス発散になったか」
やっぱり、物理法則は裏切らない。
女心やメイドの感情回路のバグに比べれば、ニュートン力学のなんと美しく、シンプルで、制御しやすいことか。
俺は深い感動を覚えながら、生ゴミの臭いが漂う裏路地を後にした。
「慣性ドリフト失敗!」「生ゴミダイブざまぁw」
と思っていただけたら、
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