第四十二話 「『難しいことは分かんないから、身体に刻んで?』ミリムの野生」
その朝の食卓は、相も変わらず地獄のような静けさだった。
カチャリ、と食器の音だけが響く。
だが、その裏で交わされているマウント合戦を、俺は痛いほど肌で感じていた。
「……ふふ。師匠、今日の魔力循環も完璧ですね。私の体内の冷却水が喜んでいます」
アリアが俺の左隣に座り、わざとらしく俺の腕に身を寄せてくる。
その左手の薬指には、俺の魔力で作られた不可視の回路が嵌められている。俺と彼女の「物理的・論理的結合」の証だ。
「ヴィクトル。古代魔法の第4章について、私の考察を聞いてくださる? 昨夜、貴方の記憶を読んでいて気づいたのですが……」
右隣のシャルロットが、優雅に紅茶を啜りながら知的アピールをしてくる。
彼女の胸元には、俺が渡した銀の鍵。俺の精神領域へアクセスできる「精神的・信頼的結合」の証だ。
二人は、それぞれ俺との「特別な繋がり」を誇示し合っている。
だが、俺の正面に座るミリムだけは違った。
ガツガツ、ムシャムシャ。
あいつは一人、黙々と巨大な肉塊にかぶりついていた。
いつもなら「師匠! これ美味い!」と騒ぐはずが、今日は視線すら合わせようとしない。
(……やれやれ。今度はこいつか)
俺はコーヒーを飲み込みながら、内心でため息をついた。
ミリムの様子がおかしいのは明白だ。
アリアの言っている「回路」の話も、シャルロットの言う「古代魔法」の話も、ミリムには理解できない。
彼女だけが、俺と同じ「言語」を持てていないのだ。
「……ごちそうさま」
ミリムが骨付き肉を半分残して席を立った。
あの食いしん坊が、肉を残す? これは異常事態だ。
「あら、ミリム。もう終わりですの? 珍しい」
「体調不良でしょうか。……野生のカンが鈍っているのでは?」
二人が声をかけるが、ミリムは答えずに部屋を出て行った。
その背中は、いつもの豪快さが消え失せ、捨てられた子犬のように小さく見えた。
◇
昼過ぎ。
書斎での仕事を終えてリビングに戻った俺は、テーブルの上に置かれた一枚の紙を見つけた。
画用紙に、クレヨンで殴り書きされたような拙い文字。
『ししょうへ。
ミリムはバカだから、ししょうの役に立たない。
アリアはずるい。シャルロットもずるい。
ミリムには、なにもない。
だから、お山に帰ります。
元気でね。
ミリム』
紙の端がふやけている。涙の跡だ。
「……あのバカ」
俺は紙をくしゃりと握りつぶした。
バカはどっちだ。
俺が一番、彼女の単純で真っ直ぐな心を理解していなかった。
アリアには「理屈」を、シャルロットには「信頼」を与えた。
だがミリムには、何も与えていなかった。彼女が一番求めているものを、俺は放置していたのだ。
「オメガ。ミリムの位置は?」
『はい、マスター! 北の山脈、「竜の巣」にて生体反応を確認! ……でも、なんかヤバいですよ? エネルギー値が計測不能! 「野生解放モード」になってます!』
「……迎えに行くぞ」
俺は窓を開け、風を掴んだ。
空へと飛び立つ。物理法則など知ったことか。今の俺に必要なのは、あの家出娘を捕まえる速度だけだ。
◇
北の山脈。
かつてミリムが支配していた竜たちの聖域だ。
荒涼とした岩山の上に、ミリムはいた。
だが、いつもの人間の姿ではない。
背中から巨大な真紅の翼を生やし、肌の一部が硬質な鱗に覆われた「半竜化」の状態だった。
周囲には、数頭の巨大なドラゴンが傅いている。
『……帰ってきたか、我が王よ』
『人間など、脆弱で複雑な生き物だ。我ら竜種こそが至高。ここでお前らしく生きればいい』
ドラゴンたちの念話が聞こえる。
ミリムは膝を抱えて頷いていた。
「……うん。ここなら、難しいこと考えなくていいもんね」
彼女の声は震えていた。
寂しさを、強さで塗りつぶそうとしている声だ。
「――誰が脆弱だって?」
俺は上空から、そのまま岩山へと着地した。
ドォォォォン!!
衝撃で岩盤が砕け、周囲のドラゴンたちが一斉に飛び退く。
「師匠……!?」
砂煙の中から、俺はミリムを見据えた。
「下がっていろ、トカゲ共。……俺は、うちの家出娘を迎えに来ただけだ」
俺の威圧に、ドラゴンたちが「ヒィッ!?」と情けない声を上げて後ずさる。
俺は怯える彼らを無視し、ミリムへと歩み寄った。
「帰るぞ、ミリム。夕飯の時間だ」
「……ヤダ」
ミリムは顔を背けた。
その赤い瞳には涙が溜まっている。
「だって……ミリム、バカだもん。魔法も使えないし、勉強もできない。師匠の言ってること、半分も分かんない」
彼女は自分の胸をドンと叩いた。
「アリアみたいに便利じゃない。シャルロットみたいに賢くない。……ただ暴れるだけの怪獣だもん。師匠の隣にいても、邪魔なだけだもん!」
「……そうだな」
俺は否定しなかった。
「お前はバカで、大食いで、すぐに物を壊す。繊細な魔法回路も組めないし、歴史の知識もない。俺の研究の役には全く立たん」
「うぅ……っ! ほら、やっぱり……!」
ミリムが泣き出しそうになる。
俺は構わず距離を詰め、彼女の目の前でしゃがみ込んだ。
そして、その鱗に覆われた熱い頬を、両手で包み込んだ。
「だがな。……俺の『理詰め』で息が詰まる世界を、力技でぶち壊してくれるのはお前だけだ」
「え……?」
「アリアもシャルロットも、俺のルールに従おうとする。だがお前は違う。お前は本能で動く。……その『熱』が、俺には心地いいんだよ」
俺のような、全てを数値と論理で片付ける男にとって、ミリムの野生は唯一の「予測不能なエラー」であり、救いだった。
「難しいことなんて分からなくていい。お前はお前らしく、俺に噛みついてくればいいんだ」
「……ほんとに? ミリム、師匠のそばにいていいの?」
「ああ。……むしろ、いないと困る。屋敷が静かすぎてな」
ミリムの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
次の瞬間、彼女は勢いよく俺に飛びついてきた。
「師匠ぉぉぉぉ!! 大好きぃぃぃ!!」
ドガンッ!
ものすごい衝撃。半竜化した彼女のタックルは、もはや交通事故だ。
俺は背中を岩に強打したが、その痛みさえも、今は悪くなかった。
「……でも、師匠。ミリムも欲しい」
ミリムは俺の上に乗ったまま(押し倒したまま)、潤んだ瞳で見下ろしてきた。
その瞳孔は縦に裂け、完全に肉食獣のそれだった。
「アリアの指輪、シャルロットのペンダント。……ミリムには?」
「……お前には、物がいいか? 最高級の肉でも用意するか?」
「ううん。いらない」
ミリムは首を横に振った。
そして、自分の胸元の服を、鋭い爪で強引に引き裂いた。
ビリィッ!
露わになる豊かな胸の谷間。白く、弾力のある肌が、興奮で微かに赤らんでいる。
「ミリム、難しいの分かんない。……だから、身体に刻んで?」
「……なに?」
「師匠の『印』が欲しい。消えないやつ。……魂ごと、師匠のものだって分かるやつ」
彼女は俺の手を取り、自分の心臓の上に押し当てた。
ドクン、ドクンと激しい鼓動が伝わってくる。
「竜の『契約』だよ。……魂を繋ぐの。これなら、ミリムにも分かるから」
それは、アリアの時よりも、シャルロットの時よりも、遥かに原始的で、濃密な要求だった。
理屈ではない。生命力の共有。所有の宣言。
「……一生、消えんぞ。俺が死んでも残る呪いのようなもんだ」
「うん。……奥まで、刻み込んで。ミリムの中、師匠でいっぱいにして」
その言葉に、俺の中の何かが弾けた気がした。
俺は覚悟を決め、魔力を練り上げた。
繊細な術式ではない。もっと荒々しく、根源的な力の塊を。
――【魂魄刻印:対象ミリム】
――【接続深度:本能領域】
ジュウウウッ……。
俺の手のひらから、真紅の魔力が彼女の肌へと染み込んでいく。
「んあああああっ!! 熱いッ! 師匠の……熱いのが入ってくるぅぅッ!!」
ミリムが絶叫し、背中を反らす。
痛みと快楽が混ざり合った、獣のような咆哮。
彼女の全身の竜鱗が逆立ち、そして光となって弾け飛んだ。
俺の魔力が、彼女の野生の血と混ざり合う。
支配するのではない。二つの炎が一つに溶け合う感覚。
俺自身も、彼女の強烈な生命力に当てられ、意識が飛びそうになる。
「はぁ……っ、はぁ……っ! 師匠……! もっと! もっと深く!」
ミリムが俺の首筋に噛みつき、爪を立てる。
加減などない。本気の求愛行動だ。
「注文の多い奴だ……!」
俺は彼女を抱きしめ返し、その魂の奥底まで俺の名を刻み込んだ。
岩山の上、咆哮と魔力の嵐の中で、俺たちは一つになった。
◇
翌朝。
屋敷の朝食は、いつになく騒がしかった。
「見て見てー! これ! 師匠につけてもらったの!」
ミリムが胸元を大きくはだけさせ、自慢げに見せびらかしていた。
その左胸、心臓の上には、深紅に輝くトライバルタトゥーのような「竜の紋章」が刻まれていた。
それは魔力を帯びて脈打ち、まるで生きているかのように輝いている。
「なっ……!? な、何ですのその……下品な刻印は!?」
シャルロットが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ふふん。これはね、『所有印』だよ。ミリムの魂も身体も、全部師匠のペットって証拠!」
ミリムは誇らしげだ。
「……魂への直接干渉……。しかも、かなり深い階層への書き込みですね。消去不可能なレベルです」
アリアが氷の視線でその紋章を分析する。
だが、その手元のフォークはひん曲がっていた。嫉妬の圧がすごい。
「いいでしょー! アリアのより熱いし、シャルロットのより重いもんね!」
ミリムは俺の背中に飛びつき、首筋にスリスリと頬を擦り付けた。
「師匠、お腹空いた! 魔力ちょーだい! 昨日のアレ、もっとやって!」
「……朝からやめろ。重い」
俺は苦笑しながらコーヒーを啜った。腰が痛い。
アリアの「知性」。シャルロットの「精神」。そしてミリムの「野生」。
三者三様の「繋がり」を手に入れた彼女たちは、もはや無敵だ。
……ちなみに、昨晩の「刻印」の儀式の後、野生が暴走したミリムに一晩中襲われ続けて、俺の体力が限界だということは、誰にも言えない秘密である。
「ミリム可愛い!」「師匠の腰が心配」
と思っていただけたら、
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