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第三十一話 「鏡の魔女の涙と、百年越しの『退職願』」



 新居での生活が始まって数日が経ったある夜のこと。

 深夜、ふと喉の渇きを覚えた俺は、キッチンへと向かった。


 静まり返った廊下。

 かつては悪霊の巣窟だったこの屋敷も、今はサダコ(元・鏡の魔女)の徹底的な清掃により、塵一つない清潔な空間になっている。


「……ん?」


 リビングの前を通った時、微かな音が聞こえた。

 すすり泣くような、あるいは雨垂れのような音。

 俺は音を殺してドアを開けた。


 そこには、巨大な姿見の前に座り込む、サダコの背中があった。

 彼女は何かを胸に抱きしめ、震えていた。


『……うぅ……ごめんなさい……ごめんなさい……』


 普段の怯えた様子とは違う。もっと深い、魂の底から漏れ出るような悲痛な響き。

 俺の気配に気づき、サダコがビクッと振り返る。


『あ……ご、ご主人様……!? も、申し訳ありません! サボっていたわけでは……! ただ、掃除をしていたら、これが……』


 彼女の手には、錆びついた古びた「オルゴール」があった。

 蓋は壊れ、もう音は鳴らない。


「それは?」


『……私の、宝物です。生きていた頃の』


 サダコの瞳から、黒い雫がポタポタと落ちて床を染める。


『ご主人様……私、思い出してしまいました。自分がなぜ、あんな化け物になったのかを。……私、もうここにいてはいけない存在なんです』


 彼女の輪郭がブレ始めた。

 再び、あの禍々しい『鏡の魔女』の姿に戻りかけている。

 自己否定と絶望が、彼女の存在定義データを崩壊させようとしているのだ。


「……話してみろ」


 俺はソファに腰を下ろした。


『……はい』


     ◇


 彼女の話は、ありふれた、けれど救いのない悲劇だった。


 百年前。彼女の名はエリスといった。

 この屋敷に仕える、ただのメイドだった。

 屋敷の主人は優しく、彼女は家族のように愛されていた。あの日、流行り病がこの地を襲うまでは。


『旦那様と奥様は、病から逃れるために屋敷を離れることになりました。でも、誰かが屋敷を守らなければなりません』


 エリスは志願した。

 「私が留守を守ります。旦那様たちが戻ってくるまで、絶対に」と。


 主人は涙ながらに感謝し、そのオルゴールを彼女に預けた。

 「必ず戻る。それまで頼んだよ」という約束と共に。


『……でも、誰も戻りませんでした』


 一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎ、十年が過ぎた。

 誰も来なかった。

 それでも彼女は待ち続けた。

 屋敷に泥棒が入れば追い払い、窓を拭き、床を磨き続けた。

 やがて彼女自身も病に倒れ、孤独の中で息絶えた。


 だが、死んでもなお、彼女の魂は縛られていた。

 「守らなければ」という執念と、「捨てられたのかもしれない」という絶望。

 その二つが混ざり合い、彼女を『鏡の魔女』へと変貌させたのだ。


『百年……待ちました。来るはずのない主人を。鏡の中で、自分の顔が崩れていくのも気づかずに……』


 サダコの体から、黒い瘴気が噴き出す。


『私は……ただの道具でした。忘れ去られた、哀れな道具……! ご主人様、お願いです。私を「消去」してください。もう……待ちくたびれました……』


 彼女が泣き崩れる。

 その悲しみが周囲に伝播し、屋敷全体がガタガタと震え出した。


「……師匠」


 いつの間にか、アリアたちが起きてきていた。

 アリアは杖を下げ、痛ましそうな顔をしている。

 ミリムも、いつもなら騒ぐところだが、今は黙って唇を噛んでいる。

 ポチでさえ、「クゥン」と鼻を鳴らしてサダコの足元に寄り添っていた。


「消去か」


 俺は立ち上がり、サダコの前に立った。


「あいにくだが、俺のシステムに『従業員の解雇』という機能はない」


『でも……! 私は呪いの塊です! いつかまた暴走して、皆様を……!』


「なら、書き換えればいい」


 俺はサダコの頭に手を置いた。

 冷たい。氷のように冷たい魂だ。


 俺は指先で空中にコマンドを走らせた。

 だが、今回使うのは「破壊」でも「物理演算」でもない。


 ――【システムアクセス:対象『サダコ(エリス)』】

 ――【ログ参照:過去100年間の行動記録】


 膨大なログが流れる。

 『掃除』『掃除』『侵入者撃退』『掃除』『待機』『待機』『待機』……。

 百年間、一日も休まず、彼女はこの屋敷を守り続けていた。狂うほどの孤独の中で。


「……よくやったな」


 俺はそのログを見て、静かに言った。


「お前の主人は戻らなかったかもしれない。だが、お前が守った屋敷は、今ここにある」


 俺は周囲を見渡した。

 古いが、手入れの行き届いた柱。磨かれた床。

 彼女が守り抜いたからこそ、俺たちは今、ここに住むことができている。


「お前の仕事は『無駄』じゃなかった。俺が証明する」


 ――【ステータス変更:『地縛霊』→『守護精霊ハウス・キーパー』】

 ――【タスク完了:『主人の帰宅を待つ』→『コンプリート』】


 カチッ。


 システム音が鳴り響いた。

 サダコの体が、淡い光に包まれる。


「百年前の契約は、今この瞬間をもって満了した。お前はもう、誰も待たなくていい」


『あ……あぁ……』


 サダコの手の中で、壊れていたはずのオルゴールが、カチリと音を立てた。

 そして、ゆっくりと優しい旋律を奏で始めた。

 俺が少しだけ、時間を巻き戻して修理したのだ。


「これからは新しい契約だ。……俺たちの家族メイドとして、ここでのんびり暮らせ。残業は禁止だ」


 光が弾ける。

 黒い瘴気が浄化され、彼女の姿が変わっていく。

 白装束ではなく、清潔なメイド服を纏った、透き通るように美しい女性へと。

 目も鼻も口もある。生前の、エリスとしての姿だ。


『……はい……! はいっ……!!』


 サダコ――いや、エリスは、顔をくしゃくしゃにして泣いた。

 それは絶望の涙ではなく、百年分の孤独が溶けていく、救済の涙だった。


「よかったわね、サダコ!」

 ミリムが抱きつく。

「名前はエリスだと言ってるだろ」

「いいえ! 私はサダコで構いません! ご主人様がくれた名前ですから!」


 エリスが涙を拭いて、満面の笑みを浮かべた。

 その笑顔は、幽霊とは思えないほど温かかった。


「……師匠。彼女、成仏してしまうのでは?」

 アリアが心配そうに聞く。


「いや、雇用契約を結び直したからな。あと百年はこき使うつもりだ」


 俺は軽口を叩いて、自分の部屋へと戻ろうとした。

 背中から、エリスの元気な声が聞こえた。


『ご主人様! 明日の朝食は、最高に美味しいパンケーキを焼きますね! 隠し味は「感謝」です!』


 ……やれやれ。

 どうやら、我が家のメイドはさらに張り切ってしまったようだ。

 でもまあ、悪くない気分だ。

 錆びついたオルゴールの音色が、優しい子守唄のように屋敷に響いていた。

サダコ改めエリスの過去回でした。

物理で解決できない問題も、ヴィクトル師匠なら「粋な計らい」で解決します。

これで彼女も正式な(?)家族の一員です。


「泣いた……」「ヴィクトル様イケメンすぎる」

と思っていただけたら、

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