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アクオスはモンドの背中を見送ると、静かにヘーゼルの方へ向き直る。
「……今夜はとても静かです。何もない騎士団の道にも、虫の声や鳥の鳴き声が満ちていて……心が落ち着きます。よろしければ、少しだけご一緒に散歩でも?」
そう言って、アクオスは優しく手を差し出した。
その微笑みは月明かりを受けて一層穏やかに見え、まるで人ならぬ美しさを纏っている。
流石のヘーゼルも、頬が熱くなるのを止められなかった。
「は、はい……よろしくお願いします……」
自分の顔が赤くなっているのを感じながら、ヘーゼルはそっとその手に自分の手を重ねた。
(……落ち着いて、私。中身はレイなのよ!)
自分を律するように心の中で言い聞かせる。
弟に赤面するなんて……まるで危ない姉みたいじゃない。
(アクオス様はアクオス様。でも、私にとってはあの可愛いレイなのよ……)
そう思えば、不思議と顔の熱もすっと引いていった。
……冷静になると、ヘーゼルの頭にまた違う考えが浮かぶ。
(え?これって、レイと夜のお散歩ってこと……!?)
そう考えた瞬間、胸の奥から嬉しさがこみ上げ、今度は顔がぱっと明るくなる。
(そういえば、昔はよくレイと一緒にお散歩したわね……)
思わず、ふふ、と笑みが漏れた。
「なにか、楽しいことでも思い出しましたか?」
アクオスが穏やかに尋ねる。
その優しい声に、ヘーゼルは微笑んで答えた。
「ええ、レイを思い出していました。このように手を引かれて、よくお気に入りの場所へ二人で出かけたんです」
「……私の気に入りの場所……?」
「はい。丘の上の水車です。アクオス様は覚えていらっしゃらないかもしれませんが……レイの一番のお気に入りの場所でした」
アクオスは困ったように眉を寄せた。
「……申し訳ありません。私はすべてを思い出したわけではなく……」
「ええ、ラグーナ様から伺っています。覚えていないこともあると。でも、それでいいんです。私の弟は、私の記憶の中に確かに生きています。私だけが覚えている二人の思い出があっても、素敵だと思うんです」
ヘーゼルのその微笑みがあまりに優しく、アクオスは言葉を失った。
胸の奥に、ざらりとした感情が生まれる。
(レイは、自分なのに。子供の姿をした自分に、妙に腹が立つ……)
ヘーゼルの中で、少年の姿をした自分が今も生き続けている。
その存在に、なぜか、嫉妬に似た痛みを覚えた。
「……ヘーゼル嬢。レイは、私の仮の姿です。確かにあなたとは子供の姿で数年過ごしましたが……実際の私は成人しています」
少し低い声。
どこか不機嫌さの滲む言い方だった。
やってしまった……と、ヘーゼルは即座に姿勢を正す。
「ええ、もちろん承知しております。もし、お気を悪くされたのなら……申し訳ございません。ただ、レイとの思い出を少し思い出しただけで……口にしたのは軽率でした。もう、この話はいたしません」
申し訳なさそうに告げるヘーゼル。
アクオスは唇を噛みしめ、息を吐いた。
「……そうではありません。ただ、私は……」
一歩近づき、ヘーゼルの両肩にそっと手を置いた。
顔を上げたヘーゼルが驚いて目を見開く。
二人の距離はあまりにも近く、吐息が触れるほど。
ヘーゼルはあまりの近さに、慌てて顔を逸らした。
アクオスはヘーゼルのその髪からふわりと香る薬草の匂いを吸い込む。
その瞬間、理性がふっと遠のいた。
考えるより先に、ヘーゼルを抱き寄せていた。
腕の中にすっぽりと包み込み、背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「……っ!?」
ヘーゼルは息を呑み、動けなくなった。
アクオスの鼓動と自分の鼓動が、夜の静寂の中で重なって響いた。
「!!????」
いったい何が起きたのか。
ヘーゼルには訳が分からなかった。
気がつくと、アクオスの腕の中にいた。
考えが追いつかない。
(……なに?どうなってるの?)
至近距離から伝わってくる、アクオスの静かな息づかい。
騎士服越しにもはっきりと分かる体温が、じわりとヘーゼルの感覚を侵食する。
「ヘーゼル嬢……私は、貴方の弟ではありません」
「は、はいっ……それは……もちろんです」
言葉ではそう返しながら、胸の奥が追いついていない。
「……確かに、記憶には抜け落ちている部分もあります。ですが、あの姿の時も、今も……」
一拍。
「貴方に惹かれていることに、変わりはありません」
「……え?」
思考が止まった。
「花祭りまでは、と思っていたのですが……」
その言葉を最後に、ふいに、アクオスの腕の温もりが離れる。
近さが失われたはずなのに、距離は、むしろ縮まった。
次の瞬間、ヘーゼルの目の前に現れたのは、
メレドーラの至宝と謳われる理由を、何の誇張もなく証明するその顔だった。
整いすぎた輪郭。
静かな眼差し。
夜の光を閉じ込めたような瞳。
ヘーゼルの視界は、一瞬で奪われる。
まるで、世界そのものが、彼一人に集約されたかのように。
「私は……貴方に好意を寄せています。あの『レイ』として、貴方と過ごした日々からずっと。貴方が私の傍で笑っていてくれるだけで、私は、それだけで嬉しいのです」
「……アクオス様……?」
静かに呼んだ声は、自分でも驚くほど震えていた。
「ヘーゼル嬢……」
わずかな間を置いて、彼は続ける。
「私と、共に歩んではくれませんか」
その言葉に、ヘーゼルは息をすることすら忘れた。
喉がひゅっと詰まり、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
なんとか絞り出せたのは、たった一言。
「……え…………」
呆然と立ち尽くすヘーゼルの前で、アクオスは静かに片膝をついた。
そっと彼女の手を取り、まるで騎士が忠誠を誓うかのように、手の甲へ額を触れさせる。
その仕草の意味は、鈍いヘーゼルにだって理解できた。
理解してしまったからこそ、頭の中に浮かんだ考えは、次々と弾けるように消えていく。
言葉も、理屈も、追いつかない。
ただ、胸の奥だけが、うるさく鳴っていた。




