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アクオスが目を覚ましたのは、見知らぬ天井の下だった。

柔らかな布団の温もりと、窓から差し込む光に包まれている。ぼんやりと視線を巡らせると、そこには一人の女性がいた。


「よかった……気がついたのね」


澄んだ声が耳に届く。


光を反射して揺れるヘーゼル色の髪、大きな瞳が楽しそうに弧を描いている。頬に浮かぶ微笑みは、あまりにも優しく、見知らぬはずなのに懐かしいと錯覚させるほどだった。


「……それでね、あなたの記憶がないのは、きっと頭を打ったせいだって。お医者様が言うには、一時的なものらしいから、焦らなくてもそのうち思い出すって。だから大丈夫、安心して」


彼女はそう言って、布団の端を直しながら、まるで小さな弟をあやすように声をかけてくれる。


「……ヘーゼルさん。僕……ここにいてもいいんですか?」


掠れた声で問うと、彼女は瞳をさらに柔らかく細めてうなずいた。


「ええ、もちろん。私は一人っ子だから……弟ができたみたいで、なんだか嬉しいわ!」


「……あ、ありがとう……ございます……」


その瞬間、小さな胸の奥に残っていた暗闇と恐怖の残像が、少しずつ薄れていく。

温かな現実と信じられる人の存在が、冷たい闇を押し流していくようだった。


やがて日々は穏やかに過ぎ、『レイ』と呼ばれるようになった少年は、自分がどこから来たのか、何者なのかを考えることさえやめていた。


ガゼット子爵とヘーゼル、そして領の人々はいつも温かく、毎日が笑いと安心に満ちていたからだ。


一年が経ったころ、ヘーゼルは申し訳なさそうに告げた。


「……レイ、ごめんね。あなたの親御さんが、どうしても見つからないの」


ヘーゼルの声は心配そうに震えていたが、レイは首を傾げただけだった。


「そうなんですね」


心の奥に痛みは走らなかった。

むしろ、どこか安堵している自分さえいた。

親という存在を知らないまま育っても、いまの暮らしに何ひとつ不満はない。


大好きなヘーゼルと子爵、そして優しい町の人たちと共にいられることこそが、レイにとっての「居場所」だったのだ。


「レイの親御さんを見つけられなくてごめんね。でも、安心して。あなたは私たちの家族よ」


その言葉は、レイの胸に深く刻まれた。

ヘーゼルはいつも、レイのことをまるで本物の弟のように大事に思ってくれた。

彼女が喜べば自分も嬉しく、彼女が悲しめば胸が痛む。それほどまでに、彼女を大好きだと感じていた。


だが、その穏やかな生活は、突然終わりを告げる。

二年が経とうとする、ある日の朝、食卓に緊張が走った。


「レイ!薬草が足りないわ!急いで採ってきて!止血剤を作らなきゃ!」


慌ただしいヘーゼルの声に、レイは驚きつつも立ち上がる。


「わ、わかった!すぐ行ってくるね!」


「ええ、お願いねレイ!」


小さな足で必死に駆けだし、薬草園へ向かう。

雑貨屋の女将さんは、いつもレイに飴をくれる優しい人だ。大人たちのあの慌てようでは、女将さんは、たくさん血がでているのだろう。


(早く……早くヘーゼルに薬草を届けないと!)


小さな手足を懸命に動かし、息を切らして走る。

だが、その途中で視界に異様な光景が飛び込んできた。


湖畔に巨大な影が降り立つ。

白く巨大な竜だ。

その姿を目にした瞬間、レイは思わず足を止めた。


そこには、真珠のごとく白く輝く竜がいた。

湖面に映る光と影が揺らめき、あまりの荘厳さに息をすることすら忘れる。


「……竜……」


心臓が早鐘を打ち、血が逆流するかのように熱くなる。

レイは呆然とその竜を見上げていた。


竜の血のように燃える赤い瞳と、レイの視線が絡んだ瞬間。

レイの頭に、見知らぬ光景が洪水のように押し寄せてきた。


己が竜に跨り、魔物を薙ぎ払う姿。

誰かを守るために血を流し、剣を振るう姿。

未来なのか、過去なのかもわからぬ膨大な記憶が次々に流れ込み、足元が崩れ落ちるように、膝をついた。


『オマエノ、セカイニ、カエルトキガキタ』


遠く、白い竜の声が聞こえた気がした。


(ああ……今の今までお前の存在を忘れていたよ……)


「ブラッド……」


竜の名を呼び、赤い瞳を見上げる。


「……わかった……ブラッド……ただ、少し待ってくれ……今……この記憶が消える前に……薬草を届けなければならないんだ。それが済んだら……すぐに戻る……」


懇願に似た言葉。

アクオスの声は、少年の体に似つかわしくない重みを帯びていた。

ブラッドはただ静かに、沈黙で応じる。

赤い瞳が揺らめきもせず、アクオスを映すだけだった。


「……ありがとう。すぐ戻る……」


その言葉を最後に、アクオスは素早く薬草を摘み取り、邸へと駆け出した。


レイという少年の姿を纏ったアクオスの目尻に、熱い涙がにじむ。


(ヘーゼル……理由を語れないのがもどかしい……なぜだ……なぜ俺は、この記憶が消えるのがこんなにも嫌で、恐ろしい……)


記憶は消える。

この体になる前にブラッドが言っていた。

それでもアクオスは、一瞬一瞬を瞼に焼き付けようと涙を拭い、前を見据えた。


ガゼット邸の扉を開けると、額の汗をぬぐい、必死に薬草をすりつぶしているヘーゼルがいた。


「お帰りなさい、レイ。時間かかったわね? 見つけるの大変だったでしょう? 一人で行かせてごめんなさい」


振り返ったヘーゼルの笑顔に、アクオスの胸は激しく揺さぶられた。

彼は言葉を返せず、ただ手の中の薬草を見つめた。


「レイ? ……どうしたの? なにかあったの?」


いつもと違うその態度に、ヘーゼルは薬をすり潰す手を止め、駆け寄って膝を折り、少年の目を覗き込む。


「まさか怪我でも……? 大丈夫?」


「……いや……大丈夫だ。何でもない……」


ぽつりと落ちた声は、低くかすれていた。

その弱々しさに胸を痛め、ヘーゼルは彼の肩にそっと手を伸ばす。


だが、レイはその手を避けた。

触れられれば、もう二度とこの家族の一員にはなれないのだと悟ってしまうから。


「……すまない……」


「……え?」


困惑の声が耳を打つ。

アクオスは振り切るように背を向け、暖かな記憶から逃げ出すようにブラッドのもとへ走った。


(ああ、俺は……このままヘーゼルの傍にいたいと、願ってしまっていたんだ……)


ブラッドのもとに戻った瞬間、アクオスに淡い光が降り注いだ。

その光は優しいようでいて、冷酷な縄のようにアクオスを絡め取り、抗うことを許さなかった。


光に包まれた少年の体は、みるみるうちに伸び、形を変えていく。

小さな手がスラリとした大人の骨ばった手に戻っていく、あの穏やかな日々が遠ざかっていくようで、胸が痛い。


「……ヘーゼル……」


頬を伝ったひとすじの涙は、地に落ちるより早く、光に飲み込まれていく。


(次に目を覚ました時、俺はここにいた時間をすべて忘れるんだな……きっとあの二人は幼いレイを思い、悲しむだろう……)


「……すまない……」


最後の言葉は風に消え、アクオスの意識は暗闇へと沈み込んでいった。

残されたのは、帰りたくなかったという痛みと、帰らねばならないという逃れられぬ宿命だけだった。

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