76
ヘーゼルの部屋は、窓が開け放たれ、穏やかな風がカーテンをそっと揺らしている。
外では鈴を転がすような虫の声が静かに聞こえ、月の光が部屋に差し込んでいた。
ベッドで眠るヘーゼルは、まだ目を覚まさない。
シャナやラグーナは夕食を済ませるため、一旦部屋を離れている。
侍女たちは部屋の端に控え、静かに息を潜めている。
アクオスは、ベッドの横に椅子を置き、そこに腰を下ろしていた。
ヘーゼルの微かな呼吸、指先の小さな動きも逃さぬよう、ただじっと、眠る彼女の顔を見つめている。
「ぅ……」
小さな声が、眠りの縁から零れ落ちる。
アクオスは反射的に立ち上がり、薄く開いた瞳を覗き込む。
「ヘーゼル嬢!」
普段は落ち着いた声で話すアクオスが、思わず大きな声を出てしまった。
ヘーゼルの視線はまだぼんやりとしていて、意識が完全に戻っていない。
「ヘーゼル嬢、大丈夫ですか……?」
驚かさないように静かに問いかけると、やっと視線がアクオスを捉える。
「……レイ?今までどこに行っていたの?……お父様も私も……とても心配していたのよ……」
ヘーゼルは微笑み、ゆっくりとアクオスに手を伸ばす。
その手は柔らかく、温かい。
「ヘーゼル嬢……?」
アクオスの頬に添えられたヘーゼルの手から温度が伝わってくる。
「ねえ、レイ……どうして何も言わずに出て行ってしまったの?……私たちがどれだけ探していたか……あの時、何があったの?……」
淡い微笑みを浮かべるヘーゼル。
その表情は、いつもの凛とした強さを持つ少女ではなく、まるで夢の中で漂う存在のように儚く、現実感を曖昧にしていた。
アクオスはその姿を見た瞬間、頭を鈍く殴られたような衝撃に襲われた。
胸の奥まで響く痛みに、頭の中の殻がひび割れるような感覚。
忘れたくても甦る、あの忌まわしい魔物の粘液の感触。
体にまとわりつき、力を奪い、神経を締め付ける嫌悪の記憶が鮮明に蘇ってきた。
思わず耐えきれず、アクオスはベッドにぐらりと倒れ込む。
頭の中で、魔物の粘液に絡め取られる感覚が再びうねる。
理性では振り払おうとするが、意識は少しずつ朦朧としていく。
だがアクオスは、その朦朧の中でも、目の前にいるヘーゼルを見つめた。
部屋の風が、カーテンを揺らし、外の虫の声が静かに響く。
まるで時間がゆっくりと流れ、外の平穏と内側の緊張が交錯するような、一瞬の静寂だった。
『団長!!』
叫んだのはイーライの声だったのか、あるいは自分の耳が錯覚したのか……アクオスにはわからなかった。
魔物の粘液を浴びてすぐ、ゆっくりと、暗く冷たい水の中に沈んでいくように意識が遠のき、周囲の音も光もすべて消え失せる。
ただ、深い闇の中に一人、孤立している感覚だけが残る。
暗闇の中で、辺りを手探りで確かめようとするも、どこに立っているのか、座っているのかすらわからない。
時間の感覚も失われ、ただ漂っているだけの自分があった。
「ギャオッーーー!!」
その瞬間、普段声を上げないブラッドの鳴き声が、どこからともなく響いたように感じる。
暗闇の中、目に見えぬ相棒を探し、アクオスは無意識に呼ぶ。
「ブラッド?……そこにいるのか……?」
その声に応えるかのように、一面が急に真っ白に染まり、巨大なブラッドの姿が浮かび上がった。
「よかった!ブラッド、無事か!?」
手を伸ばすも、巨大化したブラッドには届かず、触れることができない。
赤く光る瞳が、じっとアクオスを見下ろしていた。
その視線の先に、アクオスは自分の手を見た。
いつもより小さく、柔らかで、まるで子供の手のようにぷくぷくとした感触。
(なんだ……これは……子供?)
恐る恐る手で顔に触れると、頬はふんわりと温かく、まるで焼き立ての白パンのような柔らかさだった。
心の中に驚きと困惑が渦巻き、頭の中に鋭い違和感が静かに響き渡った。
(俺の体が……小さくなったのか?……感覚が……まるで違う……)
恐る恐る腕や手足を動かしてみると、指先の感覚も、体全体の重さも、自分が知っているものとはまったく違っていた。
手のひらで触れる顔や頭は、柔らかく小さく温かく、胸に安堵のような感触を残す。
しかし同時に、頭の奥には戦いの記憶と、あの忌まわしい魔物の粘液の感覚が残っており、混乱を深める。
そのとき、頭に直接、ブラッドの声が届いた。
ブラッドが話すなんて初めてのことで、アクオスはとにかく驚いてブラッドを仰ぎ見た。
『アクオス、ワガコヨ。オマエヲ、シナセナイ、ドクガマワラヌヨウ、カラダヲチイサクシタ。シバラク、カラダガ、カツドウヲトメル。キオクモ、ウシナウダロウ。スベテ、トトノエバ、モトニモドル』
言葉は重く、しかしどこか温かさを帯びて響いた。
アクオスは息を呑む。
そうか……自分を守るために、ブラッドはこの小さな体にしてくれたのだ……。
「この体は……ブラッドが……俺は……相当危なかったんだな……」
感謝と恐怖、驚きと安堵が混ざり合い、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
一瞬、自分の命が風に飛ばされる砂のように脆かったことを、思い知らされる。
『オマエヲ、シバラク、カゴノアル、アンゼンナ、バショニアズケル』
「加護?……ああ……わかった……だが、この記憶も……消えてしまうんだったな……」
アクオスの声は震えた。恐怖もあるが、ブラッドを信じたいという気持ちの方が大きい。
「でも、ブラッドがそう言うなら……従おう」
『オマエガ、キオクモドルマデ、ダレニモ、ミツカラナイヨウニ、イロヲカエル、モドッタラ、ソコニイタキオク、イラナイ』
その言葉とともに、頭の奥のざわめきが急に静まり、意識が深い暗闇に再び沈んでいく。
冷たい水に包まれるような感覚とともに、体の重さや感覚は消え、世界から自分が切り離されていく。
胸の奥には、確かにブラッドがいて、守ってくれいるという確かな温もりが残った。




