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アクオスは、メレドーラ家の門をくぐった。
夜気はどこか張り詰めていて、庭の闇がいつもより濃く感じられる。
時刻はすでに夕餉も終わっている時間。館は静寂に包まれているだろう。
そう思いながら玄関を踏み入れた。
「お嬢様は!?」
「まだ見つからないのか!」
鋭い声が飛び交い、普段は規律正しい広間が混乱に飲まれていた。
使用人たちは蒼白な顔で駆け回り、慌てて落とされた銀食器が床を転がり、不吉な音を立てている。
アクオスの背筋を冷たいものが走った。
(ジゼルに何かあったのか?だがジゼルは確か……)
ジゼルは遠征中だったはずだと考えた瞬間、他に『お嬢様』と呼ばれる人物が頭に浮かび、胸騒ぎに脈が早鐘を打つ。
(まさか、ヘーゼル嬢か?)
「アクオス!!」
通路から飛び出してきたのは兄のサキレスだった。
「これはいったい……」
問いかけるアクオスに、サキレスは血相を変えて答える。
「お前のところに行くと言って出て行ったヘーゼル嬢が帰ってきていない!近辺を探させたが……これが見つかった」
差し出されたのは、先ほど執務室に来たとき、ヘーゼルが抱えていた鞄だった。
「聞き込みによると、二人の男が女性を抱えて走っていくのを見た者がいた。……今日、ヘーゼル嬢はグリーンのドレスではなかったか?」
「……ああ、そうだ……」
「くそっ!やはりグリーンのドレスだったか!……捜索隊はすでに出しているが……」
サキレスの表情には絶望の色が浮かんでいた。
その光景を前に、アクオスの心臓は冷え切っていく。
ズンッッッ!!!
突如、地響きが館を揺らした。
直後、侍従の叫び声が響く。
「白き竜様が庭に降り立ちました!」
「ブラッドが…………」
(くそっ……!なぜ今なんだ!!)
アクオスの心は引き裂かれていた。
ヘーゼルの安否もわからない。
胸を潰すような不安が押し寄せる。
だが同時に、竜が来たということは魔物の出没を意味する。
竜騎士団団長として向かわねばならない責務がある。
「なぜ、こんな時に……!」
ギリッと、奥歯を噛みしめる音が自らの耳に響く。
心はただ『ヘーゼルを探したい』と叫ぶのに、理性は『魔物を討て』と命じる。
義務と思いが真逆に引き裂かれ、胸の奥に鋭い痛みを生んでいた。
アクオスは迷いを振り切るように踵を返し、真っ直ぐブラッドのもとへ向かいその背へと飛び乗る。
アクオスの握る拳に力が籠もる。
強く、強く、血が滲むほどに。
「……行くぞブラッド……」
低く唸るように命じる声と同時に、ブラッドが地を蹴る。
「アクオスっ!」
サキレスの声が下から響く。
「サキレス!すぐに片をつけて戻る!その間、ヘーゼル嬢を頼む!!!」
アクオスは振り返らずに叫ぶと、ブラッドの羽ばたきで一気に空へと舞い上がった。
ヘーゼルは縄で縛られた手を必死に後ろへ伸ばし、壁際に立てかけられた木の棒を掴んだ。
だが、魔物の赤く光る瞳を前に、一歩も動けなかった。
いや、動けば最後だと直感していた。
魔物除けの香りがまだ漂ってはいるものの、それもいつ消えてしまうかわからない。
もし効力が切れたら、瞬き一つする間もなく喰われてしまうだろう。
それでもヘーゼルは歯を食いしばり、せめて一矢報いるのだと、残された勇気をかき集めて棒を握りしめた。
(竜騎士団は来てくれる……きっと……。たとえ間に合わなくても、アクオス様は必ず!)
頭の中で竜騎士団の姿を必死に描く。
その中央に立つ白竜の騎士アクオスを思い浮かべると、ほんの少しだけ膝の震えが和らいだ。
だが時は容赦なく過ぎ、魔物の唸り声は遠くから響いては近づき、ヘーゼルの心を削り取っていく。
やがて胸の奥から弱気な思いが溢れ出した。
(……もうだめかもしれない。せめて最後に……お父様と……アクオス様に会いたかった……)
その瞬間だった。
「ヘーゼル嬢っっ!!!」
頭上から轟音とともに屋根が崩れ落ち、月光を背にした白竜が舞い降りた。
その背に乗るアクオスの鋭い眼差しが、獲物を狙う獣のごとく魔物を射抜く。
「いま助けます!そのままでっ!!」
その声を聞いた途端、張り詰めていた緊張が一気に崩れ、ヘーゼルの瞳に涙がにじんだ。
「アクオス様……」
魔物が咆哮し突進してくる。
だが、アクオスの剣が閃光のように走り、その動きを断ち切る。
魔物除けの香の効果とアクセスの斬撃が重なり、魔物は苦悶の声をあげて後退した。
「大丈夫ですか!怪我は!?」
ブラッドから飛び降りたアクオスは、ヘーゼルに駆け寄り、縄に縛られた彼女を支える。
ヘーゼルのその瞳には焦燥と安堵が入り混じり、思わずヘーゼルを強く守るように肩を支えた。
「ごめんなさい……私……マーガレット様に……」
「話はあとです!今は無事でいてくれれば、それでいい!」
アクオスは剣を握ったまま片腕でヘーゼルを庇い、後退する。
しかし、魔物はなおも咆哮をあげ、執念深く再び迫ってきた。
「団長!伏せて!!」
その時、頭上から聞き慣れた声が響いた。
アクオスは咄嗟にヘーゼルを抱き寄せ、魔物とは反対側へ飛び退く。
直後、轟音と熱風が走った。
炎が炸裂し、魔物を一瞬にして包み込む。
「ギャァァァァァァ!!!!!!!!!」
断末魔の叫びが夜を震わせ、建物全体に木霊した。
ヘーゼルはアクオスの腕の中で、魔物の声が遠ざかり、やがて小さく消えていくのを聞いた。
アクオスは腕の中で、ぽろぽろと涙をこぼすヘーゼルを見つめていた。
その小さな震えを感じ取るたび、胸が締め付けられ、今にも怒りで爆発しそうになる。
彼女を泣かせた者を許すわけにはいかない……




