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「ダミアン、そういえば、昨日の盗伐でお前の竜が怪我をしたと聞いたが……大丈夫そうか?」
ダミアンは竜騎士団で一番の新人だ。普段から団の空気を明るくしてくれる存在だが、今はいつになく神妙な顔つきをしている。
「団長……。それが、竜が怪我をしたのが足なのですが……昨日からあまりよくはなっていないみたいで……」
ダミアンの声は沈んでいて、その手は竜の鼻先をそっと撫でている。
深い黄色味がかった鱗を持つその竜は、痛みに耐えるように目を細めていた。
アクオスは無言のまま、竜の足元へと歩み寄った。
屈み込んで傷を確認すると、肉が抉れており、まだ、うっすらと血が滲んでいる。
「少し抉れているな……」
「……お、俺の不注意で、怪我をさせてしまって……竜に申し訳なくて……」
声を震わせながら、ダミアンは竜の鼻先にそっと触れた。
普段の元気な様子は影をひそめ、うつむいたまま肩を落としている。
アクオスは、その姿を静かに見つめた。
竜騎士団に入ったばかりの頃は、誰もがこうして壁にぶつかる。
竜との関係が深くなればなるほど、その痛みも責任も重く感じるものだ。
すると、背後からその会話を聞いていたデルダが声をかけてきた。
「ガゼット領の竜の湖には行ったか?」
「竜の……湖?……いえ、行っていません……」
「そこの湖のほとりに、竜が食べられる草が生えているんだよ。その草を食べさせると、それくらいの怪我ならすぐに治る。あの草は、あそこにしか生えてないからな……」
デルダはいつもの朗らかな口調で言いながら、ちらりと竜の足元に目を向ける。
「本当は摘んで持ってきてやりたいが、人間が手で摘むとすぐに萎れて駄目になってしまうんだ。竜が自分でその場で食べるしかないらしい。……怪我をしている竜に乗るのは可哀そうだが、後で一緒に行こうか?」
言いながら、デルダは優しく微笑んだ。その言葉に、ダミアンの表情がぱっと明るくなる。
「デルダさん……そんな場所があるんですか!? ぜひお願いします!……他の竜騎士の皆さんも、そこで治療を?」
ダミアンが目を輝かせて訊ねると、デルダは軽く頷いた。
「ああ、あの雑草みたいな草を食べさせれば、竜医でも治せない竜の怪我が治るんだから、不思議なもんだよ。竜たちが体調を崩したり、傷を負った時は、うちの連中はよくあの湖に連れて行ってるよ。竜は勝手に……あの草をむしゃむしゃ食べ始めるんだ」
彼は肩をすくめて笑った。
「誰に教わったわけでもないのに、自分で治しに行くんだから、やっぱり竜ってやつは賢いよな」
「すごいですね……!俺、そんな話、全然知りませんでした……!」
少年のような目を輝かせてダミアンが言うと、デルダは笑って肩をすくめた。
「あ、でも団長は、唯一、そこには行ったことないんじゃないかな」
「ああ、ないな。ガゼット領の竜の湖の話は聞いているが……。でも……あそこの草は雑草ではなく……」
アクオスがふと何か言いかけたときだった。
「そもそも、団長の竜は特別な竜だから、怪我なんてしないんだよ!」
デルダが、自分のことのように自慢げに言い放つ。
「団長は、竜王のブラッドですもんね!あの真っ白なしなやかな巨体と、深紅の瞳……本当に、いつ見ても竜王はかっこいいですよね!」
その言葉に、アクオスは視線をそらして小さく息をついた。
「あれ?団長、いま何か言いかけました?すいません、つい興奮して話の間に入っちゃいました」
「……いや、なんでもない……」
(……?なんだ……今、何を言おうとした……?)
アクオスは、頭の奥で、何かがふっと浮かんだ気がした。
だが、それが何だったのか……どうしても思い出せない。
アクオスには、こうした瞬間が時折あった。
話そうとして言葉を失ったり、理由もなく懐かしさを覚えたり。
まるで記憶の一部が、霞のように指の隙間からすり抜けていく感覚だ。
そう……あれは三年前。
討伐任務の最中、見たこともない異形の魔物と遭遇した。
それは、これまで相対したどんな魔物よりも手強く、動きは予測不能、力も桁外れだった。
騎士団総出で挑み、ようやく仕留めたその瞬間、
魔物は最後の足掻きに、口からねばつく粘液を勢いよく吐き出した。
咄嗟に仲間をかばって前へ出たアクオスの皮膚に、それが触れた瞬間、
意識は何の前触れもなく、すとんと闇に沈んだ。
そこから二年間、アクオスは行方不明となる。
話によれば、彼が倒れた直後、竜王ブラッドが彼を背に乗せ、迷いなく飛び去ったという。
その行動に誰もが驚いたが、誰ひとりとして追いかけはしなかった。
竜王が自らの意志で動いたのなら、それに逆らうべきではないと、全員が理解していたからだ。
そもそも、もしブラッドが彼を竜の谷へ連れて行ったのだとしたら……
人間がそこからアクオスを連れ戻すことは不可能だった。
竜騎士団も、家族も、そう判断して追跡を諦めた。
だからこそ、アクオスは二年間、誰の前からも姿を消していたが、決して探されることがなかった。
しかも、当の本人にはその空白の二年間の記憶が、一切ない。
何をしていたのか。
どこにいたのか。
なぜ生きて戻ってこられたのか。
竜であるブラッドとは、言葉を交わすことはできない。
意思のやり取りはできても、出来事を正確に聞き出すことは不可能だ。
ゆえに、あの二年間、自分が本当に竜の谷でブラッドと共に過ごしていたのかさえ、アクオスにはわからない。
アクオスの記憶の片隅にあるのは、寂しさ……そして、誰かに会いたいという衝動。
その「誰か」が誰なのか、自分でもわからない。
けれど、ときに胸がしめつけられるほど、会いたくてたまらなくなる瞬間があった。
思い出せそうで、思い出せない記憶。
アクオスはそれを、胸の奥深くに封じ込めたまま、日々を過ごしている。
(いつか記憶を取り戻して、この妙な感情の正体がわかる日は来るのだろうか……)
ふとそんなことを思いながら、アクオスは視線を前に戻した。
目の前では、ダミアンとデルダが楽しげに話している。ダミアンはすっかり明るい顔になり、先ほどまでの不安はどこかへ消えてしまったようだった。
その様子を見て、アクオスはわずかに微笑み、最後に竜舎全体をひと通り見回すと、『大丈夫そうだな……』と、執務室へと戻っていった。




