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アクオスが小さくため息をつく。
「……なかなかこちらに来なかったので、探しに来ました。何かありましたか?」
「ええと……」
ヘーゼルは簡単に、ここで起こったことを説明する。
「そうでしたか。マキュベリー侯爵令嬢が……」
「でも、すぐにヨーデル……さんが駆けつけてくれて、私では対応ができなかったので、助かりました」
さすがに本人がいないのに呼び捨ては抵抗があり『さん』をつけてしまった。
「……ヘーゼル嬢に何もなくて良かった。私からもヨーデルさんにはお礼を伝えておきましょう」
「すみません。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げるヘーゼル。
そのとき、小声で「まあ、その前にカイロスと話しますが……」と呟くアクオスの声が聞こえたような気がした。
だが、ヘーゼルは気のせいだろうと首をかしげ、そのまま執務室へとついて行った。
執務室に入るなり、ヘーゼルは嬉しそうに報告する。
「アクオス様、お待たせいたしました。魔物避けが完成しました!」
「!!……さすがヘーゼル嬢。早かったですね」
アクオスは嬉しそうに目を輝かせ、身を乗り出す。
「偶然成功したようなものなのですが……」
「ほう。偶然とは?」
「はい、先日アクオス様たちが薬草採りにご同行くださったとき、偶然、ジル君やラグ君の涎がついた薬草を摘みまして……」
「涎?」
アクオスの目が瞬く。
「はい。まだはっきりとはわかりませんが、竜の……体液ですね。それが含まれた薬草で魔物避けを作りましたら、成功しました」
「そ、そうか……なるほど……」
複雑そうな顔で、なんとか理解しようとするアクオス。
涎のくだりで、引かれてしまったようだ。
「それで、どうしますか? 魔物避けのレシピを機関にお渡しして作っていただいてもいいですし……」
「そうだな……一度、王太子殿下と話してみますので、しばらくこの事は内緒にしてくれますか?」
「はい、それは構いませんが……研究の成果は……その……し、師匠から上に報告することになっていまして……」
ヘーゼルはとても言いづらそうに、もじもじしながら説明する。
「……そうですか……」
そんなヘーゼルをアクオスはじっと見つめる。
「あ、でも、私が資料をまとめてからになりますので、アクオス様から許可いただきましたら……提出します……」
「……ありがとうございます。では、そのように……」
「えっと……魔物避けもできたことですし……そろそろ帰ろうかと思うのですが……」
「……そうですか……そうですよね……では、サキレ……兄と相談いたしますね」
「サキレス様と?……あ、はい。よろしくお願いします……?」
(帰るだけなのに、なぜサキレス様と相談?)
思わず首をかしげるヘーゼル。
頭の上に『?』がいくつも浮かんでいるが、素直に頷くしかなかった。
「ところで、化粧品とハンドクリームだったかな……そちらはナーラスと進んでいますか?」
「はい!進んでおります」
途端に表情を明るくするヘーゼル。
「ナーラス様はとても優秀でして、翌日には香りを十種類も調香されていました! 今はその香りをどれくらい持続させるかの調整と香りの選定をされているはずです。今日は帰ったら、そのお手伝いをする予定です」
「それは良かった。……では、まだ完成まではいっていないのですね?」
「え?ええ……はい。あと少しで完成できると思います……」
「わかりました。では、今夜、私もそちらに伺いましょう」
「? アクオス様が、ですか……?お忙しいのでは……」
一瞬の戸惑いを隠しきれないまま、ヘーゼルはそう返す。
「いえ、大丈夫です。先ほども申し上げましたが、兄にも用事がありますから」
さらりとした口調だが、どこか含みを持たせた言い方だった。
「……そ、そうですか。では、今夜お待ちしておりますね……それでは、私はそろそろ失礼いたします」
話を切り上げるように、ヘーゼルは椅子から立ち上がった。
その動きを目で追いながら、アクオスもまた、腰を上げる。
「ヘーゼル嬢、出口まで送っていきましょう」
「い、いいえ!そんな、メレドーラ公爵邸はすぐそこですし……勝手に帰れますので大丈夫です!アクオス様はお忙しいでしょうから、お仕事にお戻りください!」
慌てて手を振り、半歩後ずさるヘーゼル。
まるで距離を保とうとするかのようなその必死さに、アクオスは思わず、ほんのわずかに口元を緩めた。
だが、それも一瞬。
すぐに表情を引き締め、これ以上踏み込むことは控える。
「……わかりました。では、ここで」
小さく息をつき、彼は穏やかな微笑みを浮かべた。
執務室の扉の前で立ち止まり、静かに言葉を添える。
「ヘーゼル嬢。魔除けの薬を仕上げていただき、本当にありがとうございました」
「……こちらこそ。お役に立てて光栄です」
軽く一礼し、ヘーゼルはその場を離れる。
「それでは、また」
その背を見送るアクオスの視線は、扉が閉まるまで、静かに留まり続けていた。
アクオスに深く礼をし、ヘーゼルは静かに騎士団を後にした。
石畳の道は夜露に濡れ、月明かりを受けて淡く輝いている。
(今日はいろいろあったわね……研究も成功したし、ヨーデルとも友達になれた……!)
胸に込み上げる喜びを抑えきれず、歩きながら口元が自然と綻ぶ。
(いけない……笑いながら歩く令嬢なんておかしい人だと思われてしますわ……ヘーゼル冷静になるのよ!)
どうしても笑顔になってしまうのを必死に抑え、俯き加減で歩くが、それでも、胸の内は温かな光で満ちていた。
やがて人通りの少ない小道に差し掛かり、そっと顔を上げたその瞬間、
「っ……!」
背後から襲われ、喉を圧迫されるような窒息感に、息が一瞬で止まる。
必死に手を振りほどこうとするが、冷たい手が肩に絡みつき、体を強引に押さえ込まれる。
「ぃやっ……離し……て……!」
声にならない叫びが闇に呑まれ、ヘーゼルは必死に足をばたつかせた。
しかし複数の腕が容赦なく押さえ込み、石畳の冷たさもすぐに遠ざかっていく。
頭から荒々しく布を被せられ、浮遊感が襲う。
ヘーゼルの視界は一瞬で漆黒に沈んだ。




