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シャナは、毎月の定例行事として、メレドーラ家が後援している孤児院を訪れていた。
今回はゼルダも同行している。
その孤児院は王都から少し外れた小高い丘にあり、ラグーナから引き継いだ場所だ。
孤児は三十人、世話をするシスターは十人。
規模としては「まあまあ大きい」と言えるだろう。
孤児院の横には、白い壁と尖塔が陽光を受けて輝く教会も寄り添うように建っており、孤児院と言うには立派な建物だった。
シャナは、馬車をおりてすぐ、護衛の騎士たちに孤児院の門で待つように指示し、ゼルダを伴って二人で入り口へと歩いて行く。
以前から、護衛がいると子供たちが落ち着かなくなるので、最近はそのようにしている。
まあ、門さえ守ってくれれば、中に不審者が入ってくることはない。
二人を出迎えたシスターは、柔らかな笑顔で院長室へと案内した。
室内からは、大きな窓越しに子供たちが遊ぶ庭が見える。
午後の陽射しが窓から差し込み、木製のテーブルを優しく照らしていた。
テーブルの上には、子供たちの手作りの焼き菓子が並べられている。
「シャナ様、ゼルダ様。お忙しい中、本日もありがとうございます」
シスターは湯気の立つカップを二人の前に置き、自らも腰を下ろす。
「こちらこそ、いつも温かく迎えてくださってありがとう、シスター」
シャナはカップを手に取り、立ちのぼる香りをそっと確かめて微笑む。
このお茶は、孤児院の庭で子どもたちが育てたハーブを乾燥させ、皆で丁寧に仕上げた特製のハーブティーだ。
柔らかな香りが、まるでここの空気そのもののように心をほぐしてくれる。
「皆、元気のようね」
「ええ、子どもたちも元気いっぱいで、毎日が賑やかです」
シスターはくすりと笑い、外で聞こえる子どもたちの笑い声に耳を傾ける。
「そういえば……アンとフリックが旅立つのは、もう間もなくだったかしら?」
シャナがカップを置き、問いかけた。
「はい。二人とも無事に仕事が決まりましたので」
「嬉しいことだけど……あの賑やかな二人がいなくなると、少し寂しくなるわね」
「そうですね。二人は年長者で、下の子たちの面倒もよく見てくれましたから」
シスターの表情には、二人の旅立ちを誇らしく思う気持ちと、ほんの少しの寂しさが入り混じっていた。
そんな空気を感じ取ったのか、ゼルダが柔らかい声で問いかける。
「お母様、アンとフリックのところに行ってきてもいいかしら?」
「ええ、いいわよ。ゼルダ、小さい子どもたちとも遊んであげてね」
「もちろんよ。……それでは、シスター、失礼いたします」
ゼルダが軽やかに部屋を後にし、その背中をシャナと院長シスターはしばし目で追っていた。
「今日、アンとフリックもゼルダ様が来られるのを、とても楽しみに待っておりました。あの二人とゼルダ様は、本当に仲がよろしいですから……」
「そうね……アンのおかげで、ゼルダも品というものを学んだと思っているわ。あの子があのまま育っていたら、お猿さんと大して変わらなかったかもしれないわね」
「サシャ様、それはあまりにも……」
「ふふ、冗談よ。でもね、アンとフリックには本当に感謝しているの。ゼルダが小さい頃からずっと仲良くしてくれて……気づけば、あの子たちはもう十七歳だものね」
サシャは感慨深げに紅茶のカップを口に運び、ふっと目を細めた。
「自分たちで仕事を見つけてきたと聞いたけれど……二人はどんな職に就くのかしら?」
「はい。アンは裁縫の腕が確かですので、テーラーシャインでお針子として働きます。フリックは侯爵家の下働きです。どちらも住み込みでの職です」
「侯爵家?」
「はい、マキュベリー侯爵のお屋敷です」
「貴族のお屋敷ね……マキュベリー侯爵家で働くなら、うちで働いてくれても良かったのに……」
「シャナ様、以前そう言ってあの二人に声をかけてくれたそうで……ありがとうございました。でも、二人ともシャナ様にこれ以上甘えてご迷惑をかけたくないと申しておりました」
「ご迷惑なんてこれっぽっちも思わないけれど……あの子たちがそう言うなら仕方がないわね……」
そのときだった。
「キャアアアーーーーーーーーーッッ!!!!」
甲高い悲鳴が空気を裂き、床板を通してズシンと鈍い衝撃が足元に伝わった。
テーブルの上のティーカップが小さく跳ね、ハーブティーの表面に波紋が幾重にも広がる。
次の瞬間、窓の外からは子供たちの悲鳴と、何かが重く崩れ落ちる音。
胸の奥がヒヤリとし、シャナとシスターは椅子を蹴るように同時に立ち上がった。
「行きましょう!」
二人はほとんど反射的に、音のする方へ駆け出した。
シャナが外へ飛び出すと、そこには信じがたい光景が広がっていた。
青空の下、本来なら子どもたちの笑い声が響く庭に、重く圧し掛かるような異様な気配が満ちている。
「……魔物?!」
その声は、驚愕と怒りの入り混じった叫びとなって漏れた。
視線を上げた先、孤児院の庭の柵を踏み砕き、ずるりと侵入しようとしている巨体。
その魔物は、シャナがこれまで見たどの魔物とも違っていた。
鉄のような硬質な皮膚に、血を思わせる赤い筋が脈動し、呼吸のたびに不快な熱気を吐き出す。
獣とも爬虫類ともつかない歪んだ顔。眼窩の奥では、紅玉のような双眸がぎらぎらと光を放っている。
その魔物は、まるで地獄から引きずり出されたかのような赤黒い巨躯だった。
「ま、魔物がなぜ……っ」
シスターのそのかすれた声に、シャナは後ろを振り返った。
シスターは顔色を失い、一歩後ずさると、肩を小さく震わせている。
その様子を目にした瞬間、シャナの胸に強い覚悟が湧き上がった。
『自分がどうにかしなくては!』シャナは迷わず声を張り上げる。
「みんな!!建物の中に入りなさいっ!!」
鋭い叱咤が空気を裂く。
一瞬呆然としていた子供たちは、その声に弾かれるように駆け出した。
シャナも彼らを追うように走り出す。
「お母様っ!」
横合いから聞こえた声に、シャナはそちらを振り向いた。
ゼルダが駆けてくる。その隣にはアンとフリックの姿もある。
「アン、フリック!至急、子供たちを孤児院の奥の部屋へ!シスターは緊急用の赤い煙を!騎士団へ知らせるのです!!」
「「「はいっ、シャナ様!」」」
フリックもアンも返事を終えるや否や、小さな子の手を引き、奥へと駆けていった。
アンもその背を追い、シスターはきびすを返して緊急用の煙弾を取りに走る。
ただ、ゼルダはこの場を離れようとしない。
「ゼルダ!何をしているの!?早く奥へ行きなさい!!」
「嫌よ。お母様を置いて行けるわけないでしょう!」
ゼルダはそう言い放つと、足に装着していた小型のナイフを抜き、シャナの前に躍り出た。
銀の刃が陽光を反射し、彼女の瞳に戦意が宿る。
「ダメよゼルダ!そんなものでは魔物に太刀打ちできないわ!いいから早く中へ!!」
シャナは魔物を見上げる。すでに孤児院の敷地内に入り込んできている。
(早いっ!こんなに近くに!!……今ならゼルダを逃がせば……ゼルダだけなら建物の中までたどり着ける……)
シャナの心は決まった。
「ゼルダ!あなたも建物の中に走りなさい!!これは命令です!」
「お母様!?」
「あなたは公爵家の者として、中にいる子供たちを守るのです!いいですねっっ!!!」
シャナはゼルダを後方へ突き飛ばす。
「早く行きなさい!使命を全うするのです!」
ゼルダは母の勇ましい姿に涙ぐむが、言われた通り建物へ向かって走り出した。
「グゥゥゥゥゥッ!!」
魔物は低いうなり声をあげ、シャナに向かって進んできた。




