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発作のような急な体調の変化に、ヘーゼルは即座に席を立ちアクオスの体を支える。
「アクオス様!大丈夫ですか!?頭が痛いのですか!?」
「う……だ、だい……じょう……ぶで……す」
今にも横に倒れそうなアクオスは、とても、苦しそうだ。
ヘーゼルは、慌てる。
「大丈夫ではありません!汗が……」
慌ててポケットから取り出したハンカチで、彼の額の汗を拭う。
焦りで手が震えながらも、彼を少しでも楽にしようと、椅子を動かして簡易的に横になれる場所を整える。
「こちらで横になってください、楽になりますから……」
自分はその隣に膝をつき、にじみ続ける汗をハンカチで丁寧に拭う。
額、こめかみ。
彼の肌が先ほどより青白くなっている気がする。
その苦しそうな症状にヘーゼルの胸がぎゅっと締め付けられる。
(これは……やっぱり普通じゃない……!お医者様を呼ばなければ……)
そう判断した彼女は、すっと立ち上がった。
だが、
「……っ」
スカートの裾が、そっと引かれた。
ふいに動きを止めたヘーゼルが振り返ると、アクオスの手が、かすかに震えながら布を掴んでいた。
「……待ってください……人は、呼ばないで……」
その声は掠れていたが、アクオスは懸命に話している。
「たまにあるのです……こうしていれば治ります……人を呼ばないで大丈夫……」
「ですが……」
そう言いかけたヘーゼルだったが、その表情に迷いが生まれる。
アクオスは、そっと目を閉じたまま、やがてゆっくりと呼吸を整えていく。
汗は少しずつ引き、青ざめていた頬にも、わずかに血の気が戻ってきた。
しばらくして、扉がノックされ、料理が運ばれてくる。
アクオスは、まるで何事もなかったかのように静かに体を起こし、席へと戻った。
「アクオス様……本日は、もう帰りませんか?」
ヘーゼルは心配そうに、声を潜めて尋ねる。
「どうして?もう大丈夫ですよ。まだ料理も残っていますし……食べ終わるまでは帰りませんよ」
「ですが、先ほどの症状は、お医者様に見ていただいた方が良いかと思います……」
「……ご心配をおかけしました。でも……この頭痛は、たまにあるんです」
アクオスは、少し俯いた。
そして、しばしの沈黙の後、ぽつりと口を開く。
「実は……私は、ここ最近の二年間の記憶がないのです。思い出そうとすると、ひどく頭が痛むことがあって……」
「記憶が……?」
「ええ。魔物の討伐で意識を失い、倒れていたところをブラッドに助けられたのですが……そこから二年分の記憶が、ぽっかりと抜けているのです。その間、どこにいて、何をしていたのかも……まったく……」
まるで掴みどころのない言葉に、ヘーゼルは言葉を失った。
「そんな……」
ヘーゼルは思わず息を呑む。
「今の生活に不都合はありません。ただ、たまに何かを思い出そうとすると、頭が締めつけられるように痛くなるのです」
「なんてこと……アクオス様がそんな大変な目にあっていたとは、知りもしませんでした……」
「まあ、こんなこと、大々的に発表できるわけもありませんからね。家族や竜騎士団の者たちしか知りません……ヘーゼル嬢もどうか内緒に……」
苦笑いを浮かべながら、アクオスはそう告げる。
「ええ、それはもちろんです……でも、あんな状況になるなら、お医者様に見てもらった方が……」
「……医者には何度か診てもらいました。でも原因はわからずじまいです。もしかすると、思い出してはいけないと頭がブレーキをかけているのか……あるいは、早く思い出したくて焦って混乱しているのか……」
「……そうなのですね……それはお辛いことでしょう……」
「いえ、今起きた痛みは本当に久しぶりで……普段は痛さももう少し軽いものです……ほら、もう全然痛がっていないでしょう?」
そう言ってアクオスは穏やかに微笑んだ。
「アクオス様、私の薬学の師匠は著名な方ですから、領地に戻りましたら、そういった症状に効く薬がないか聞いてみますね」
ヘーゼルはやさしく微笑みながら、何かを思案している様子だった。
そんなヘーゼルを見て、アクオスも微笑みを深めた。
「……ありがとうございます……それはありがたいことですが……。暗い話をしてしまって申し訳ありません。さあ、食事が完全に冷める前に、いただきましょう」
二人の間に、やわらかな空気が戻った。
食事も終わり、そろそろ帰ろうかと思っていたところ、アクオスから「少し散歩でも」と誘いがあった。
昼間の街は、カレンに案内してもらって歩いたが、夜の街並みはまだ見たことがない。
心配な頭痛の痛みも、いまはすっかりなくなっているようだったのでヘーゼルは迷うことなく「ぜひ」と微笑んで答えた。
夜の空気はほんのりと涼しく、日中の喧騒が嘘のように落ち着いている。
静かな通りには、街灯のオレンジ色の光がふんわりと差し、石畳に長い影を落としていた。
賑やかなのは、開いている酒場の周辺だけ。
笑い声や歌声が漏れ聞こえ、昼とはまた違った活気があった。
「ヘーゼル嬢は、いつお帰りになるのですか?」
アクオスの声が、夜の静けさの中にやさしく響いた。
「ええ、あと二日こちらに滞在したら、帰ろうと思っております」
「二日後か……よろしければ、竜で送っていきましょうか?」
「っ……!い、いえ! そんな、恐れ多いです……竜騎士団の皆様は、いつ出動命令が出るともわからない、魔物相手に戦っておられるのです。そんな、大切なお役目の妨げになるような約束は……できません」
ヘーゼルはぶんぶんと首を振って、言葉を詰まらせながらも必死に断る。
「はは……確かにその通りだ。ヘーゼルさんは、竜騎士団のことをとてもよく考えてくださるのですね」
「いいえ、そんな……」
アクオスに褒められたように感じて、照れたように目を伏せるヘーゼル。
その仕草にアクオスがふっと微笑んだのを、彼女は気づかない。
「そういえば……あの赤い花は、どうなりましたか?」
ヘーゼルがふと思い出したように問いかけると、アクオスは真剣な面持ちで答えた。
「ええ、あの後すぐに調査部へ渡しました。報告書に記されていた花と、極めて類似している可能性が高いと……。結果はまだ出ていませんが、実物が手に入ったことで研究は大きく進むはずです……ヘーゼル嬢が持ってきてくれたあの花には、感謝してもしきれません」
「そうですか……お役に立てたのなら、嬉しいです」
そう言って、ヘーゼルは少しだけ胸を張った。
ふたりはそのまま、ゆっくりと街の通りを歩きながら、話を続けた。
時折すれ違う人々の笑い声や、窓からこぼれる灯り。
それらすべてが、今この時間を穏やかに演出しているかのようだった。
小一時間ほどの散歩のあと、アクオスはヘーゼルを宿まで送ってくれた。
「ヘーゼル嬢、本日はありがとうございました。……とても楽しかったです」
「こちらこそ。……明日も、いい一日になりますように」
玄関先で軽く会釈を交わす二人。
アクオスはそれ以上何も言わず、背を向けて夜の街へと歩き出した。




