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「記憶喪失としか言いようがないね……」


医者のエリオット先生が、器具をカバンにしまいながらそう呟くと、男の子のいる部屋を静かに出た。


ヘーゼルは先生と一緒に、玄関へと続く廊下を歩く。途中で、エリオット先生が今日の診察結果を話し出した。


「記憶喪失……?」


「そう。彼の怪我は、ほとんどが全身の打ち身なんだけどね、打ち方が、どうにも……高いところから落ちたような感じなんだ。多分そのときに頭も打ってしまったんだろう。木登りでもしてて落ちたのか、あるいはどこかの高所から転落したのか……」


エリオット先生は少し声を潜めて、続けた。


「もしかしたら、彼は何かから逃げてきた可能性もある……親御さんが近くにいなかったのも不自然だし」


「え……!?」


「まあ、あくまで憶測だよ。はっきりしたことはわからない。でも、見たところ一時的なものだと思う。焦らず様子を見ていれば、きっとそのうち記憶も戻るだろう」


先生がふと立ち止まり、辺りを見回すようにして尋ねた。


「そういえば、今日はダンカン様は?」


「父は明後日まで王都です。少し長めの用事で……」


「そうか……。じゃあ、いろいろとヘーゼル様も大変だろう。あとでナーフをこちらに寄越すよ」


ナーフとは、エリオット先生の診療助手をしている、町のパン屋のジョッシュさんの奥さん。おおらかで明るく、面倒見のいい『おばさま』だ。


「そんな……ナーフさんにご迷惑かけちゃいます」


「何を言う。私たちはガゼット子爵領の領民だよ。いつもお世話になってばかりじゃ、領民として立場がない。たまには頼ってくれたって、いいんだよ」


「……エリオット先生……」


ここは、私の家……ガゼット子爵家が代々治めている、小さな領地だ。

人口は300人ほど。土地自体は広いが、その半分は静かな湖に占められている。


湖は透明度が高く、美しい景観をたたえているが、王都からのアクセスも悪く、観光地になるには程遠い。

竜騎士たちが時折、竜に水を飲ませに立ち寄る以外、目立った利点もない。


それでもこの土地は、代々の領主たちが「変えないこと」を選び、昔ながらの田舎の姿を守ってきた場所だった。

現当主である父・ダンカンも「ここで愛する人たちと助け合って暮らせるなら、それが何よりの贅沢だ」と言う人だ。


だからこの地では、贅沢を求める者もおらず、領民たちも互いに支え合いながら、穏やかに暮らしている。


「ありがとうございます、エリオット先生。それじゃあ……ナーフさんに、ミルクと卵を買ってきてと伝えてもらえますか?」


ヘーゼルはポケットから小銭を取り出し、先生に手渡す。

エリオット先生はうなずき、軽く手を振って帰って行った。


ヘーゼルは、その背中が見えなくなるまで見送り、くるりと踵を返して、男の子の待つ部屋へと戻った。



「……それでね、あなたの記憶がないのは、きっと頭を打ったせいだって。お医者様が言うには、一時的なものらしいから、焦らなくてもそのうち思い出すって。だから大丈夫、安心して」


そう言って微笑むと、男の子は少し不安げな表情で顔を上げた。


「……ヘーゼルさん。僕、ここにいてもいいんですか?」


「ええ、もちろん。私は一人っ子だから……弟ができたみたいで、なんだか嬉しいわ!」


「……あ、ありがとう……ございます……」


男の子は照れたように顔を伏せた。


ヘーゼルはあらためて彼を見つめる。

ふわりとしたシルバーグレーの髪に、透き通るようなアクアブルーの瞳。

完璧な左右対称の整った顔立ちに、細く長い手足、今はまだ痩せて小さな体つきだけど、きっと将来はとんでもなくモテるだろう。という確信があった。


(怪我が治って、お風呂に入れたら……うん!もっと綺麗になると思う!)


「……でも、名前がないと不便よね。仮の名前でもつけておきましょうか。呼ばれたい名前とか、ある?」


「い、いえ……特には……なんでも、いいです……」


赤くなって俯くその姿に、思わず頬が緩む。


(……照れてる顔もかわいい!もう、私の弟……最高じゃない!)


「そう。じゃあ……湖の近くで見つけたから、『レイク』……ううん、『レイ』なんてどうかしら?響きがあなたみたいに上品で、優しそうで……私、好きだわ」


「……レイ……はい。レイで……構いません」


男の子はその名前を口にして、少し考えるように目を伏せたあと、ふわりと笑った。

その笑顔がとても自然で、名前が彼に馴染んだことを、ヘーゼルは感じ取った。


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