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コンコン、と控えめに扉が叩かれた。
「サキレス様、ガゼット子爵令嬢様がお見えになりました」
「ああ、入ってくれ」
返事をするや否や、アクオスがすっと席を立ち、迷いなく扉へ向かう。
その背中を見送りながら、サキレスは思わず、穏やかな笑みを浮かべた。
「アクオス様、お待たせいたしました」
扉の前に立つアクオスを見上げ、ヘーゼルはぱっと表情を明るくする。
その笑顔は、朝の光のように柔らかく、迷いがない。
(……ああ)
サキレスは、胸の奥でそっと息を吐いた。
(この二人は、きっと幸せになる)
そう確信できたことに、サキレスは胸の奥でそっと息を吐いた。
役目を終えたかのような安堵が、静かに身体を満たしていく。
そして、ふと現実へと意識を戻すように、サキレスは軽く咳払いをした。
「……さて」
そう前置いてから、二人へと視線を向ける。
「アクオス、ヘーゼル嬢、これを……」
サキレスは、カインが差し出した包みを二人に手渡した。
「風除けのローブだ。ブラッドに騎乗して行くのだろう?ゆっくり進むとはいえ、竜の速さは別格だからな。着て行った方がいい」
広げられたそれは、紺色の生地に白金の刺繍が施された、対のローブだった。
上質な布地は光を柔らかく反射し、品のある美しさを放っている。
「シャナが選んだ。私とシャナからの婚約祝いだ。……アクオスは騎士団の制服があるだろうが、二人の私用で使ってくれたら嬉しい」
「……ありがとう」
「あ、ありがとうございます」
アクオスはローブを受け取ると、自然な仕草で小さな方を広げ、ヘーゼルの肩にそっと掛ける。
自分も同じように羽織り、軽く襟元を整えた。
「サキレス様!このローブはとても暖かいです!」
ヘーゼルは嬉しそうに生地を撫で、質の良さに目を輝かせる。
「素敵なお祝いを、本当にありがとうございます」
そのヘーゼルの喜んでいる様子を見つめるアクオスも、終始、機嫌の良さを隠そうとしない。自然と頬が緩み、柔らかな笑みを浮かべている。
「気をつけて……」
「はい、サキレス様。今まで、大変お世話になりました」
ヘーゼルは一歩下がり、丁寧に、深く頭を下げた。
「いや、こちらこそ。色々とありがとう。次に会うのは……アクオスとの婚約式だな」
そう言ってから、サキレスは表情を正す。
「ヘーゼル嬢。……アクオスを、よろしく頼む」
メレドーラ家の当主として。
そして、兄として。
サキレスもまた、深く頭を下げた。
「サキレス様!!どうか、お顔をお上げください!」
ヘーゼルは慌てて顔を上げ、思わず両手を伸ばす。
「私の方こそ……アクオス様には、たくさん支えていただいて……」
言葉を探すように一瞬視線を彷徨わせ、それから、はっきりと微笑んだ。
「必ず、二人で幸せになります!」
その真っ直ぐな声に、アクオスも少し照れながら頷いた。
サキレスは静かに目を細める。
「……ああ。安心したよ」
こうして、見送る側と旅立つ者の間に、温かな約束が交わされた。
ブラッドの背に乗り、アクオスとヘーゼルは一つの山を越えようとしていた。
澄んだ風が頬を撫で、眼下には幾重にも連なる森と谷が広がっている。
「この山の山頂に、良い場所があります。少し寄っていきませんか?」
地上の景色に魅入っていたヘーゼルは、はっとしてアクオスを見上げた。
「山頂ですか?アクオス様が良い場所と仰るのなら……ぜひ、見てみたいです」
その言葉に、アクオスは小さく頷き、ブラッドに合図を送る。
巨体の竜は大きく旋回し、ゆるやかに高度を上げて山頂へと向かった。
やがて、山頂の開けた場所にブラッドが静かに降り立つ。
二人が背から降りると、ブラッドは一度だけ振り返り、低く喉を鳴らしてから再び空へと舞い上がっていった。
しばらく並んで歩くと……
ふいに、視界がぱっと開けた。
そこには、小さな白い花が一面に咲き誇り、まるで大地に敷き詰められた絨毯のように広がっていた。風が吹くたび、花々はさざ波のように揺れ、かすかな香りが辺りを満たす。
「すごい……なんて、綺麗な場所なのでしょう……」
ヘーゼルは胸元に手を当て、息を呑んだまま感嘆の声を漏らす。
その横顔は、花の海に溶け込むように柔らかく、どこか儚げだった。
アクオスは、そんなヘーゼルの驚きと喜びに満ちた表情を確かめると、満足そうに微笑み、そっと彼女の手を取った。
「……っ」
突然手を取られ、ヘーゼルは驚いてアクオスを見上げる。
「ヘーゼル嬢。花祭りでは色々あって、きちんと話す時間が取れませんでしたから」
穏やかな声に、どこか決意が滲んでいる。
白い花々に囲まれた静かな山頂で、二人だけの時間が流れて行く。
「花祭りは、ただの祭ではなく……恋人たちが共に歩き、未来を誓い合う、特別な祭りだと聞きました」
低く穏やかな声が、花に満ちた空気に溶けていく。
「……はい」
ヘーゼルは小さく頷く。
胸の奥が、理由もなくざわめいていた。
「今回の祭りは、残念ながら……最後まで開催されることなく、終わってしまいましたが……」
アクオスはそう言って、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。
そして、ゆっくりとローブの内側へ手を差し入れた。
次の瞬間、彼の指先に収まっていたのは、小さな箱だった。
「……っ」
アクオスはヘーゼルの手を取ったまま、その場に膝をつく。
あまりに自然で、あまりに迷いのない所作に、ヘーゼルは息を呑んだ。
ヘーゼルは小さな箱を見つめて心臓が強く跳ねる。
(うそ……)
驚きに体が強張る。
声を上げることも、動くこともできない。
ただ、目の前で、慎重に箱を開こうとするアクオスの指先から、目が離せなかった。
その一つ一つの動作が、あまりにも真剣で。
あまりにも大切なものを扱うようで。
白い花の絨毯の中、風がそっと二人の間を吹き抜ける。
ヘーゼルは、言葉を失ったまま、ただその光景を胸に焼き付けていた。
「カイロスとヨーデル嬢の結婚式が終わるまでは、私たちは婚約者のままですが……」
アクオスは、膝をついたまま、まっすぐにヘーゼルを見つめて続けた。
「私の心は、すでにヘーゼル嬢のそばにあります。これから先もそれが変わることはありません」
小さな箱が、ゆっくりと開かれる。
「ヘーゼル嬢。愛しています。あなたを、一生守ると誓わせてください」
「……アクオス様…………はい………は……い」
返事は、ほとんど嗚咽に近かった。
ヘーゼルの瞳から大粒の涙が、堰を切ったように頬を伝い落ちる。
拭おうとしても、次から次へと溢れて止まらない。
視界が涙で滲む中、ヘーゼルにはレイの面影と、いま、目の前にいるアクオスの姿が重なって見えた。
アクオスが、箱の中から指輪を取り出す。
深く澄んだ青。
夜空を閉じ込めたような、大きな石。
それは、アクオスの瞳と同じ色を湛えていた。
そして、その周囲を取り囲むように、柔らかく不思議な色合いの石が嵌め込まれている。
淡く、優しい、ヘーゼル色の輝き。
アクオスは、そっとヘーゼルの左手を取り、迷いのない手つきで指輪をゆっくりとはめる。
指先に伝わる、確かな重み。
それは、守られる約束であり、共に歩く未来の重さだった。
「……思った通り……よく似合います」
アクオスが、そう言って微笑む。
ヘーゼルは、涙に濡れたまま、何度も頷いた。
「……はい……ありがとう……ございます……」
二人は並んで立ち、肩を寄せ合い、山頂からの景色を見下ろす。
白い花の絨毯の向こうに、果てしなく広がる世界。
風が吹き抜け、ローブの裾が静かに揺れた。
寄り添う背中に光が優しく差し込み、その中で二人の未来は、ゆっくり始まっていた。
完
ヘーゼルとアクオスの物語に長々とお付き合いいただきありがとうございました。
今後、この物語の登場人物たちをシリーズ化して書きたいと考えております。
次はヘーゼルの師匠でもある「ベール」の物語を投稿いたします。
そちらにもぜへお立ち寄りください。




