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それから。
花祭りで起きた出来事は、瞬く間に王都を賑わせた。
日が経っても、その熱は一向に冷める気配を見せない。
マーカスの反旗。
マキュベリー侯爵の犯行。
陛下の退位。
そして、ザイル殿下の即位と戴冠式。
国全体が揺れ動き、混乱は収まるどころか、むしろ広がっているようだった。
国政に深く関わるサキレス様をはじめ、各騎士団長カイロス様やアクオス様とも、結局顔を合わせる機会はなかった。
そうこうしているうちに、ヘーゼルがガゼット領へ帰る日が訪れた。
今日は、久しぶりに合うアクオスが、ガゼット領までブラッドとともに送ってくれることになっている。
忙しいさなかだからいいと断ったのだが、なかなか折れないアクオスに、仕方なくヘーゼルが折れた形だった。
「……もう、帰ってしまうのですか?」
朝食のパンを片手に、ナーラスが少し潤んだ瞳で見上げてくる。
「はい。魔物の件は傷跡こそ深いですが、すでに解決していますし、こちらでの研究も終えました。いつまでもメレドーラ公爵家にご厄介にはなれませんから」
そう言うと、ナーラスは分かりやすく肩を落とし、悲しそうな表情を浮かべた。
「ふふ……ナーラス、まるで今生の別れみたいな顔をしているけれど。ヘーゼルさんとアクオスの婚約が決まった今は、ヘーゼルさんもすぐに婚約式でこちらに来られるでしょう?だから、すぐにまた会えるわよ」
シャナが微笑みながらそう言うと、
「そうでした!」
と、ナーラスはぱっと顔を上げた。
「では、アクオス叔父さんにお願いして、早めにこちらで婚約式をしていただきましょう!」
「やれやれだわね……それに、あなたがヘーゼルさんの領地にお邪魔するお約束も、すでにしているのではなくて?」
大袈裟に別れを惜しむ息子に向けた、いかにも母親らしい一言だった。
「そうでした!それもありました!」
そのやり取りを微笑ましく眺めていたラグーナが、ふとヘーゼルへと顔を向ける。
「ヘーゼルさん。私もガゼット子爵にお礼の件がありますから……領地にお戻りになられたら、いつ頃伺ってよいか子爵様に確認して、ご連絡くださいね」
「……はい、かしこまりました」
ヘーゼルは自然と背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
わざわざ足を運んでいただく必要などないと、何度も遠慮したのだが、ラグーナは首を横に振った。
「親として、息子がお世話になった方へ、直接お礼を申し上げたいのです」
その言葉には、揺るぎない想いがこもっていた。
ヘーゼルはそれ以上言葉を重ねることができず、最終的に来訪を受け入れることになったのだった。
「ふふ……ヘーゼルさん、私にそんなに畏まらなくていいのよ。まもなく、あなたもこのメレドーラ家の一員……私の娘になるのですもの」
「ラグーナ様……」
ヘーゼルは照れたように視線を逸らし、少し困った顔で微笑んだ。
アクオスがメレドーラ家で、ワイアットとラグーナに結婚の意思を告げた時、誰一人として反対する者はいなかった。
むしろ皆が、温かくヘーゼルを迎えてくれたのだ。
結婚はカイロスの結婚が先となり、アクオスとヘーゼルの式は来年以降の予定だが、まずは婚約者であることを公に示すため、婚約式を行うことになっている。
その話が持ち上がった際、不安そうにしていたヘーゼルにラグーナとシャナが声をかけてくれた。
「ヘーゼルさんが嫌でなければ、私たちが取り仕切りましょうか?」
その申し出は、ヘーゼルにとって何よりも心強く、嬉しいものだった。
胸の奥に溜まっていた緊張が、すっと解けていくのを感じながら、ヘーゼルは安心して一つ返事でお願いしたのだった。
「失礼いたします」
賑やかな朝食の席に、颯爽と現れたのは、今朝も眩いばかりの微笑みをたたえたアクオスだった。
「あら、アクオス、いらっしゃい……でも、早くない?まだ朝食の最中よ。あなたも食事するなら準備させるわ……」
シャナが声をかけるが、アクオスは軽く首を振る。
「いえ、食事は済ませてきましたので結構です。それより、ヘーゼル嬢……まだお食事中でしたか。私はサキレスの部屋で待っていますので、どうぞ、ごゆっくり」
朝の清らかな光が、アクオスの整った笑顔をいっそう際立たせている。
ヘーゼルは思わず眩しそうにアクオスを見つめた。
ヘーゼルは、思わず息を詰め、呑気にもアクオスの姿に見とれていた。
その空気を切り裂くように、
「……いや、アクオス、待て」
低く、抑えた声が割って入る。
「ご覧の通り、私もまだ食事中なんだが?」
サキレスはスープ皿の前に座ったまま、呆れを隠しもしない視線で弟を見上げていた。
「……少し、話がある」
短く告げるアクオスの声は、いつもの軽やかさを抑え、どこか真剣さを帯びている。
ヘーゼルの位置からは見えないが、サキレスはその表情を一目見るなり、観念したようにナプキンを静かにテーブルへ置き、椅子を引いて立ち上がった。
「……わかった」
そう答え、軽く息をつくと、
「カイト。私の執務室に、茶の用意を」
と、落ち着いた声で指示を出す。
「畏まりました」
カイトは一礼すると、音もなく扉の向こうへ姿を消した。
その後ろ姿を見送りながら、シャナがふっと微笑み、ヘーゼルへと顔を向ける。
「ヘーゼルさん、あの二人……どうやら時間がかかりそうね。ですから、慌てなくていいわ。ゆっくり食事をして、身支度を整えましょう」
柔らかな声音に、朝の張りつめていた空気が少しだけほどける。
「……はい、ありがとうございます」
ヘーゼルは小さく頷きながら、胸の奥に穏やかな安心が広がっていくのを感じていた。




