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ヘーゼルは走った。

これまでの人生で一度も出したことのない速度で必死に、ただ前へ。


だが、それはあくまでヘーゼルの全力でしかなかった。

鍛えられた者から見れば、すぐに追い付かれる程度の速さだ。


肺が焼けるように痛い。

呼吸がうまくできず、視界の端が白くちらつく。


(息が……苦しい……もう、無理……)


胸が押しつぶされそうになり、ヘーゼルはたまらず近くの壁に手をつくと、その場に立ち止まってしまった。


「ハァ……ッ、ハァ……ッ……」


背後から、乾いた、どこか楽しげな声が響く。


「ふふ……もう逃亡はおしまいかしら?」


振り向かずとも分かる。

侯爵令嬢であるはずのマーガレットが、驚くほど余裕の足取りで近づいてきていた。


乱れた髪も、汚れたドレスも意に介さず、

ただ獲物を追い詰める肉食獣のような目で。


「あなた、本当に体力ないのねぇ……ただ、守られるばかりの弱者。本当に腹が立つ……」


壁に追い詰められたヘーゼルは、苦しそうに顔を上げる。

マーガレットの手には、毒が塗られた短剣、その刃が、光を受けて妖しくきらめいていた。


ゆっくり、ゆっくりと。

逃げ場のない距離を、マーガレットは確実に詰めてくる。


「あなたのせいで……アクオス様とのご縁も叶わず、さらには牢に入れられる始末。私が望んでもいない婚約を押しつけられて……日々、どれほどの苦痛を味わったか、あなたにわかって?」


怨嗟を滲ませた声が、湿った空気の中に落ちる。


次の瞬間、視界いっぱいにマーガレットが迫った。

ためらいはない。

手にした短剣を高く振り上げ、そのまま……


「っ!!」


鋭い痛みが、ヘーゼルの肩口を裂いた。


刃が肉を切り、熱を伴った衝撃が走る。

血を纏ったナイフが、不気味に光を反射していた。


「ふふ……あははははっ!!!」


甲高い笑い声が、狭い路地に響き渡る。


「さようなら、ヘーゼル・ガゼット。このナイフにはね……毒が塗ってあるの。元より、あなたを深く刺すつもりなんてなかったのよ?……傷さえつけられれば、それで十分」


(毒っ!?)


胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。

どくん、と不自然な鼓動が耳の奥にまで響く。


視界が揺れ、足元の感覚が抜けていく。

ヘーゼルは耐えきれず、その場に崩れ落ちた。


(息が……できない……)


胸が締めつけられ、空気を吸っているはずなのに、肺に届かない。


ヘーゼルは地面に座り込んだまま、苦悶に顔を歪め、無意識に身体を丸めた。

その姿を見下ろしながら、マーガレットは愉悦に満ちた笑みを浮かべ、高笑いを続けている。


ヘーゼルは必死に意識を繋ぎ止めながら、マーガレットに悟られぬよう、震える手でドレスのポケットに指を滑り込ませた。


そこにあったのは……

ベールから託された、解毒薬。


マーガレットは、ヘーゼルがもがき苦しむ姿を眺めることに夢中で、細かな動きには気づいていない。

ヘーゼルは体を丸めたまま、影に隠れるように小瓶を口元へ運び、息を殺して中身を飲み下した。


冷たい液体が、喉を伝って落ちていく。


(……お願い……間に合って……)


胸の奥で祈るように、苦痛に小さく唇を噛みしめる。

ヘーゼルは自分の身体が地面に倒れて視界が暗くなっていくのを感じた。

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