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マーガレットは、騎士と思われる者たちに守られながら歩くヘーゼルの姿を見つけた。
(ああ、見つけた……)
胸の奥が、じくじくと焼けるように痛む。
(どうして……どうして、あの女ばかり……?私には、一人だって……誰も、守ってくれる者などいなかったというのに)
マーガレットは、自分の傷だらけの体をそっと抱いた。
心の内側に黒い塊がゆっくりと膨れ上がり、熱を持って押し寄せてくるのが分かる。
それは、妬みや憎しみという単純な言葉では収まらない。
自分でも恐ろしくなるほど濃密な負の感情。
だが、その黒い感情は次の瞬間、ふっと消える。
代わりに、深い湖の底のように冷えた『無』だけが広がった。
(……どうせ。どうせ私が生きて帰ったところで、明日からまた、マーカスのあの恐ろしい『躾』が待っている)
あの地獄が続くくらいなら……。
(……いっそ。あの女と相打ちになってもいい)
一人ぐらい、同じ地獄に引きずり下ろしても罰は当たらないだろう。
マーガレットは、今日ここで死ぬ覚悟をしていた。
それほど追い詰められていた。
毎夜繰り返される地獄のような折檻は、息をするだけで生きる望みを削っていった。
……もう、死んでもいい。
けれど、一人で死ぬなんて、あまりに不公平だ。
父マーカスからは、怪しげな二十名の男を従えるよう命じられていた。
目的はただ一つ。「ヘーゼル・ガゼットを殺せ」。
後方では、下品な笑みを浮かべた男たちが、ナイフを弄びながら、その瞬間を待ちわびている。
マーガレットも、父から託された短剣を抜いた。この短剣には強力な毒が塗られているらしい。一太刀でも触れれば確実に命を奪う……そう念を押されていた。
短剣の刃先が、かすかに震えている。
それは風でも、敵への怯えでもない。
握るマーガレット自身の手が、怒りなのか、恐怖なのか、あるいはそのどちらでもない『壊れた感情』によって震えていた。
(これで終わる……終わらせる……)
胸の奥で、何かがぎしりと軋んだ。
それでも、マーガレットは前を見ることをやめなかった。
「……さあ、行きますわよ」
低く、乾いた声だった。
マーガレットは短剣を握りしめ、ヘーゼルに向かって歩き出した。
「ヘーゼル・ガゼット!」
憎悪を叩きつけるような声が飛ぶ。
ヘーゼルは反射的に足を止め、振り向いた。
「マーガレット様……!?」
「マーガレット!!」
ヨーデルとヘーゼルの声が同時に漏れる。
マーガレットは、頬の筋肉だけを引きつらせて歪んだ笑みを作ると、まるで待ち望んでいた舞台が始まるかのように口を開いた。
「ヘーゼル・ガゼット。……やっとお会いできましたわね。あなたのおかげで、私の人生はすべて狂ったの。ずっと……ずっとあなたに言ってやりたいことがあったのよ」
「マーガレット!あれはあなたが一方的に悪かったのよ!ヘーゼルは何もしていないわ!」
ヨーデルが一歩前へ進み出て声を張る。
マーガレットは、その声を聞いて初めてその存在に気づいかのように、ゆっくりとヨーデルへ視線を向けた。
「……あら、ヨーデルさん。そうね、あなたも嫌いだわ。でも……今、私に必要なのはヘーゼルだけ」
薄く笑う。
「あなたは強いから……だからこそ、この方たちに遊んでもらって?」
背後で、男たちが下品な笑い声とともに武器を掲げる。
「……いよいよ狂ったのね。マーガレット・マキュベリー」
ヨーデルの視線が鋭く男たちを射抜く。
しかし男たちは薄汚れた笑みを浮かべ、あざけるようにヨーデルを眺め返した。
「狂った?……ええ、そうかもしれませんわね。
今、まさにヘーゼル・ガゼットを殺そうとしているのですもの」
声が震える。
「ああ……本当に……邪魔なのよ。
本来なら、私がアクオス様の隣に立つはずだったのに……!」
その表情は、未来を失った人間の絶望そのものだった。
ただひとつ違うのは――その絶望の奥で、狂気が嗤っていること。
「皆!戦闘態勢をっ!!」
ヨーデルの号令と同時に、護衛騎士たちが一斉にヘーゼルの前へ躍り出る。
「あらあら。たった五人で?……まあいいわ」
マーガレットは手を振り下ろした。
「あなたたち!騎士を蹴散らしなさい!」
男たちが罵声を上げ、雪崩れ込む。
(こちらは二十……騎士は五名。ふふ……いくらヨーデルさんが強くても、ヘーゼルを庇いながらでは……)
戦闘が始まった瞬間、マーガレットは騎士の背後にいるヘーゼルだけを見据えたまま、ゆっくりと歩み寄る。
ヘーゼルは恐怖に顔を強張らせ、目の前で戦うヨーデルたちを震えながら見た。
その視線の先に、ヨーデルへ背後から襲う男の動きが見えた。
「!!ヨーデルっ!危ない!!」
背後から振り下ろされた刃。
紙一重で避けたが、右腕が裂け、鮮血が飛び散った。
「くっ!!」
腕の痛みに構う暇もなく、次々とヨーデルへと刃が迫る。
右側では、騎士のひとりが倒れ込んだのが見えた。
倒れた騎士を見て、ヘーゼルの震えが止まらなくなる。
胸が潰れる音が聞こえそうだった。
「ヘーゼル!走って逃げて!!」
ヨーデルは三人を同時に相手取りながら、後方のヘーゼルへ叫ぶ。
「ヨ、ヨーデル……でもっ……!」
「早くっ!!あなたが無事でないと、私たちの戦いは無駄になる!!逃げるのよ!!」
ヨーデルの声は切羽詰まり、血のにじむ必死の叫びだった。
「ヨーデル……騎士の皆さま……ごめんなさい!!」
喉が裂けるような声だった。
ヘーゼルは涙を振り払うように体をひるがえし、そのまま駆け出した。
背後から、マーガレットの声が追ってくる。
「あら……逃げるの?自分を守ってくれた騎士を見捨てて……案外、酷い女なのねぇ?」
笑っているのか、怒っているのか。
感情の読めない声が背筋を冷たく撫でる。
ヘーゼルの逃走を見た瞬間、マーガレットはわざとらしく肩をすくめた。
「……仕方ないわね。逃げるのなら、追いかけるだけだわ」
次の瞬間、マーガレットの足が地を蹴る。
毒が塗られた短剣を握りしめ、獲物を仕留めに向かう獣のような眼光で。
ヘーゼルの背中を一直線に追い始めた。




