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マキュベリー侯爵のカールは、村へ魔物が流れ込んでいく様を、遠くの建物の上から眺めていた。
魔物を誘導する作業は想像以上に骨が折れたが、予定通りだと満足げに街を見下ろした。
すでに役目を終えた研究者たちを魔の森へ連れていき
「助かりたいのなら魔物から逃げればいい。花祭りの会場には騎士がいるから、そこまで辿り着けば生き延びられるだろう」
と告げるだけでよかった。
異形種と化した魔物は、人の数倍の速度で獲物を追い立てる。
研究者たちなど、即、喰い散らかされるのが目に見えている。
証拠隠滅と、魔物の誘導。
この一手で全てが整う。我ながらいい手だったと口角を上げる。
「マーガレット」
「はい、お父様」
マーガレットは、街へなだれ込む魔物の波を無表情のまま、カールの横で見下ろしていた。
視線は動かさない。だが声だけは、呼ばれた方向へ正確に返す。
「ヘーゼル・ガゼットは北側へ逃げているようだ。お前もそちらへ向かうか?」
「ええ、もちろんです。行ってまいります」
真紅のドレスの裾がひらりと翻る。
マーガレットは階段へと歩き出し、その背をカールが一瞥した。
ザイルには魔物と刺客を複数差し向けてある。
お忍びとはいえ、護衛がいることなど織り込み済みだが、魔物と刺客が同時に襲えばひとたまりもないだろう……。
そろそろ刺客も動き出す頃だ。
表情豊かだったマーガレットが『変わった』のは、マーカスのもとへ花嫁修業という名目で送られた時からだった。
「逆らうな」
「声を上げるな」
「お前は奴隷だ」
それらは躾とは到底呼べないものだった。
殴打、蹴り、引き裂かれた痕。
火を押し当てられた腕。
背中を鞭で打たれた痛みは、今も呼吸のたびにズキズキと脈打つ。
顔だけは傷つけられなかった。
それは当然『価値が落ちる』からだ。
ドレスに隠れる胸や腹、太腿には、紫黒く染みた痣が幾重にも重なる。
皮膚の下を針金のような痛みが這う夜は、眠ることすらできなかった。
初めは泣き叫んだ。
次に怒った。
やがて恐怖に押し潰され……最後には、何も感じなくなった。
感情を捨てなければ、毎日を生きていけなかった。
(生きている意味なんて、もうない)
そう思ったのは、一度や二度ではない。
だが、ただ一つだけ、彼女をこの地獄で生かし続けた感情があった。
ヘーゼル・ガゼットへの憎悪だ。
あの日。
マーガレットは、ヘーゼルが自分の『居場所』を壊し、アクオスを奪い、マーガレットの価値を地に落とし『地獄のようなマーカスの家に送られる理由』を作ったと信じ込んでしまった。
「残念だなマーガレット、あの女さえいなければ……こんなことにはならなかったのにな」
マーカスが、毎夜そう言った。
繰り返し、繰り返し、耳元で囁きながら、楽しむように痛めつけられた。
いつの間にか、マーガレットもそれを事実だと疑わなくなった。
憎しみだけが、彼女を生かす唯一の糧となった。
この花祭りの惨状も、マーガレットにはどうでもよかった。
マーカスに「面白い見世物がある」と連れ出され、ただ従って来ただけ。
だが、久しぶりに会った父の口からヘーゼルがこの会場にいると聞いた瞬間、マーガレットの瞳に、初めて微かな光が宿った。
「ぜひ、私に殺させてください」
そう名乗り出た。
その声に震えはない。
迷いも怯えもない。
あるのはただ、濁った決意だけだ。
もう昔の侯爵令嬢マーガレットではない。
優しく育てられ、舞踏会で笑っていた少女はどこにもいない。
マーカスからの日々の恐怖と暴力に心を砕かれ、
何もかも失い、ただ一つの復讐のためだけに生きる怪物へと堕ちていった。
真紅のドレスの裾を揺らしながら、
マーガレットは静かに、ただ『獲物』の方へと歩いていった。




