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鏡で自分を確認する。
(よし……たぶん、大丈夫……)
深く息を吸い、静かに吐き出してから、ヘーゼルは返事を返す。
「……はい。どうぞ」
護衛の騎士が扉を開けると、アクオスが顔を出す。
きしり、と小さな音を立てて扉の向こうからアクオスが部屋に入ってくる。
「遅くなってすみません、ヘーゼル嬢……」
どこか疲れを滲ませたその表情に、ヘーゼルの胸の奥に張りつめていたものが、わずかにほどける。
(……ご無事で、よかった……)
そう思ったことを悟られないよう、ヘーゼルは小さく微笑み、静かに頷いた。
アクオスが部屋へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
彼は、ヘーゼルの姿を視界に捉えたまま、ぴたりと動きを止めた。
「……」
言葉もなく、ただ真っ直ぐに見つめてくる。
「……アクオス様?」
名を呼んでも返事はない。
視線だけがこちらに向けられたまま、微動だにしないその様子に、ヘーゼルの胸が小さく跳ねた。
(……え?な、なに……?動かないって……まさか、私の格好が変……?)
反射的に、ドレスの裾や胸元を意識してしまう。
(い、いえ……このドレスも帽子も、ラグーナ様とシャナ様が選んでくださったものだもの……おかしいはずは……)
それでも、不安は止まらない。
(で、でも……どうして何もおっしゃらないの……?ま、まさか……お化粧が濃すぎたとか……?)
そわそわと落ち着かず、ヘーゼルは小さな鞄を両手で握りしめる。
無意識のうちに力が入り、革がきゅっと鳴った。
「あの……?」
ヘーゼルが不安をにじませて呼びかけると、アクオスはハッと我に返るように瞬きをし、慌ててヘーゼルの手を取った。
「……すみません……少し時間をください……」
「え?ええ……もちろん。あの……では、お茶でも、いかがですか?」
「いえ、お茶は大丈夫です。ですが……あなたの、その可愛らしい姿を……もう少し見させてください」
「ええっ!!い、いえ、そんな……お恥ずかしい……」
アクオスがあまりにさらりと恥ずかしいことを言うものだから、ヘーゼルは、ただただ慌てるばかりだった。頬はこれ以上ないほど熱くなり、肩も背中もこわばって、視線は床へと落ちてしまう。
そんな彼女に、アクオスが静かに近づいた。
「……顔を見せてください……」
低く、落ち着いた声。
次の瞬間、そっと温かな指先が頬に触れた。
「!!?……」
触れられた場所から、ぶわりと熱が走る。
アクオスはそのまま、優しく、驚くほど丁寧な仕草でヘーゼルの顎を持ち上げた。
逃げるように伏せていた視線は、ゆっくりと上へ…………
そしてヘーゼルの視線は強制的に、アクオスの瞳に絡め取られる。
今日のアクオスは、白い貴族用シャツに黒のズボンという飾り気のない装いなのに、どうしようもなく美しい。
光の加減で、彼の横顔すら宝石のようにきらめいて見える。
その美貌からこぼれた言葉は、さらに反則だった。
「ああ……とても可愛い。ずっとここで見ていられたらいいのに……」
「!!」
言われた瞬間、思考が真っ白になる。
しかしアクオスの呟きは止まらなかった。
まるでヘーゼルには聞こえないと思っているかのような、低い声で。
「……一日もお待たせしてしまった……こんなに可愛いヘーゼル嬢を他の男に見せるなんて、本当は嫌だ……いや、だが……それは仕方がないのか?……」
その声はヘーゼルに完全に聞こえていた。
アクオスが自分のことで悩んでいる。
その事実だけで、胸の奥が急に震え出す。
(な……なにを言っているの、アクオス様は……!??)
ヘーゼルの心臓は暴れ馬のように騒ぎ、身体の内側で何かが弾けそうだった。
しばらくのあいだ、アクオスは本当にヘーゼルをじっと見つめ続けた。
触れられたままの頬が熱くて、もう破裂しそうだ。
アクオスはふいに息をつき、名残惜しそうに手を離した。
「……あなたを、わざわざ他の男に見せる必要はないと判断しましたが…………」
「えっ……?」
「ですが、それでは祭りを楽しみにしていたヘーゼル嬢に申し訳ないので……仕方ありません」
ほんのわずか眉が下がる。
本当に『仕方なく』解放したという表情だった。
アクオスは一歩近づき、ヘーゼルに少しだけ顔を寄せる。
「……祭りの間、私の手を絶対に離さないと……約束してください」
低く甘い声が、耳の側に落ちる。
ヘーゼルはもう、返事すらまともにできなかった。
「……あ、ああ、あの……は、はぃ……」
自分の返事が自分のものとは思えないほど震えている。
けれどアクオスは、ゆっくりと、まるで何かを大切に扱うように微笑んだ。
その笑みに触れただけで、体温が一気に上がる。
(ああ、さすがメレドーラの至宝……微笑みすらこんなに尊いなんて……)
長くしなやかな指が、そっとヘーゼルの手を包み込む。
(……っ!)
心臓が、花火のように一斉に弾ける。
「今日は、たくさんお待たせしてしまいましたので、露店ではすべて私に奢らせてくださいね。それでは……行きましょうか?」
アクオスは涼しい顔をしている。
対照的にヘーゼルの顔は火がついたように真っ赤なまま。
それでも容赦なく、優しい力で手を引き、扉の方へと導く。
歩き出す瞬間、アクオスはちらりと横目でヘーゼルを見る。
その視線はひどく甘く、そして……少しだけ独占欲の色を帯びていた。
「……そんなに赤くなさらないでください。可愛いですが……落ち着かなくなりますから」
そう言って、クスっと笑う。
「えっ、あ……あの……!」
さらに赤くなってしまい、歩幅が乱れる。
アクオスは一瞬でそれを察して、そっと手を握る手に力を込めた。
「大丈夫です。簡単には離しませんから……」
ヘーゼルを射抜くように見る視線と、その一言で、また心臓が暴れそうになる。
扉を開け、祭りの喧騒がふわりと流れ込んだ瞬間、ヘーゼルの心だけが大きく揺さぶられ続けていた。




