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「あなたほど可憐で、愛らしく、慈しむべき乙女が……あのような目に遭うなど、あってはならない。あの牢の中で、どれほど心細かったでしょう。こんなに可憐なあなたを閉じ込めたのは……子爵家のヘーゼル・ガゼットとかいう令嬢と、メレドーラ家の者たちだと聞きました……さぞ悔しかったでしょうね?」
「……わ、わたくしは……」
「いいのですよ。震えなくていい。もう、あなたを閉じ込める者は誰もいない」
マーカスはマーガレットの手をそっと取った。
王族らしい優雅で洗練された動作……だが触れた指先はひどく冷たく、鉄のように固い。
「マーガレット嬢。私はあなたを守りたい。あなたの美しさを、誰にも傷つけさせたくない……ええ、誰にも」
最後の一言に妙な重さが宿り、マーガレットは思わず息を呑む。
焦燥と高揚と恐怖が複雑に入り混じり、声が上ずる。
「ま、マーカス殿下……」
その瞬間、マーカスの瞳がぞくりとするほど愉悦に細められた。
「カール、お前の話の通り……マーガレット嬢は、なんて健気で愛しい娘なのだろう。これは、彼女の屈辱を晴らしてやらねばならないな……」
甘やかな声色なのに、どこか凍りつく。
その瞳の奥には、獲物を逃すまいとする捕食者の光が宿っていた。
マーガレットの父カールは、二人を無表情のまま見つめながら静かに答える。
「……マーカス様、ありがたきお言葉……マーガレットも喜んでいることでしょう……」
父の横で座る母アイーダは、喜びを抑えきれない様子でにこやかな笑みを貼り付けていた。
娘に向けられた王兄からの賛辞に、満足げに目を細めている。
だが、その話がどこへ向かおうとしているのか。
マーガレットは嫌な予感に、顔が青ざめ、背中を汗がつう、と流れる。
マーカスはゆっくりとマーガレットの手を自分の頬へ寄せる。
恋人のように甘い仕草。
しかし、どこか歯車が狂っている。
「マーガレット嬢、私はあなたを大変好ましく思う。年齢は離れてはいるが……あなたの望むことはすべて叶えてあげよう。『私のもの』になってはくれないだろうか」
その一言に、マーガレットは息を止めた。
アイーダはマーカスの求婚の言葉に驚いたものの、すぐに満面の笑みに変わり、早く『はい』と言いなさい!と目で催促してくる。
普通なら、王兄からの求婚に歓喜して当然なのに……
マーガレットの胸の奥では、小さな悲鳴が上がっていた。
(嫌っ……! 嫌よ! 私にはアクオス様がいる!ヘーゼルさえ消えれば、アクオス様は私のものなのに……ああ……マーカス様は……気味が悪い……結婚なんて……!)
マーガレットの心の中に吹きすさぶ思いが今にも口から漏れ出そうになる。
だが……なんとかその声を押し殺した。
(お父様……!どうかお断りして!)
母はすでに満面の喜びを浮かべ、使いものにならない。
頼れるのは父だけだと判断し、縋るような視線を送る。
カールは難しい顔のまま沈黙している。
(嫌よ……お願い、お父様……殿下に『無理』だと言って……!)
口には出せないその懇願を、父に届けとばかりにマーガレットは必死に見つめ続けた。
その表情から何かを読み取ったのか、ようやくカールが口を開く。
だが次に響いた言葉は、マーガレットにとって……深い絶望だった。
「マーカス様。我が不詳の娘への求婚、ありがたく存じます。マーガレットは牢に入れられていたため『傷物』のようなもの……。少し落ち着いたら適当な男性に嫁がせようと考えておりましたが……それでも、よろしいのでしょうか?」
「ああ、もちろん構わない。」
間髪入れず返ったその言葉に、マーカスがゆっくりと歪んだ笑みを向けてくる。
「マーガレット嬢。あなたのように素敵な女性と縁を結べるとは……私は幸運だ。」
決定事項のように告げられ、部屋の空気が勝手に固まっていく。
マーガレットは、返事をする間もなく話が進んでいくことに、まるで『自分ではない誰かの人生』を遠くから眺めているような錯覚すら覚えた。
思考はまとまらず、耳鳴りもする。
ただ、目の前で自分に歩み寄るマーカスの瞳だけが、不気味に鮮明だった。
その後、急に倒れたマーガレットは侍従とアイーダによって部屋に運ばれていった。
部屋に残っているのは、カールとマーカスの二人だけだった。
静寂が重く垂れ込める。
「……マーカス様。本当に、娘を娶るおつもりで?」
カールが慎重に問いかける。
「しつこいぞ、カール。」
マーカスが薄笑いを浮かべる。
「お前の娘を正妻として、不自由なく置いてやると言っただろう」
「しかし……マーカス様……」
何か言い募ろうとするカールを、マーカスは楽しげに遮った。
「お前の娘の目……あれは実に良い。」
マーカスは舌で味わうように言葉を続ける。
「復讐心に燃えていたぞ。あれは楽しめそうだ……なに、心配するな。お前の娘だからな。殺しはしないと約束しよう」
ぞっとするほど軽い口調だった。
カールは黙り込む。
正直なところ、これは自分にとって、娘を人質を取られたのだと思っている。だからマーガレットをマーカスに差し出すことには反対だった。
だが、マーカスにここで下手に反対し、機嫌を損ねることこそ最悪の事態だ。
(……娘ひとりで済むなら、それでいい)
カールは、何の感情もなくそう思っていた。
「そうだな……実際に娶るのは、私が王座を奪ってからだが……お前の娘は気に入った。面白そうだからな。数日後には『婚約者』として、私の城に迎えよう。準備をしておけ」
「…………わかりました。」
カールは小さく答えた。
マーカスはゆっくりと席を立つ。
その動作の途中で、ふと何かを思い出したように振り返った。
「ああ、そうだカール『花を植えに行った者たち』はどうなった?」
唐突な問いかけだが、カールは即座に答える。
「はい、皆、戻ってきてはおりません」
「そうか。」
マーカスの口元に薄い笑みが浮かぶ。
「なら、うまくいっているようだ」
「ええ。魔の森に入ったら、竜騎士でもいなければ無事には戻れません。すでに……生存していないかと」
「ふむ。では、すべて手筈は整ったのだな?」
「ええ、予定数を『植える』ことは完了しております」
二人の間に流れる静けさは、不吉そのものだった。
「よし、まもなくだ。最後まで気を抜くなよ」
「はい、お任せください……」
マーカスは、その後は一度も振り返らずにカールの邸を後にした。




