「額縁の中で」
音がない。
風も、時計も、虫の羽音すら止まっている。
色だけが、古いインクの上で薄く滲んでいるような世界だ。
写真の中というのは、てっきり凍りついたままの景色だと思っていた。
けれど、中に足を踏み入れてみると、違う。
止まっているのは世界だけで、自分だけが動ける。
僕が息を吸い込むたびに、この世界はわずかに軋んで、
まるで「記録にない音」を嫌がるように身をよじる。
ここにいると、時間のほうが僕から逃げていくようだ。
こうして写真の中で目を開けていると、
ふとした瞬間に、こっちのほうが現実なんじゃないかという気がしてくる。
◇
足元の感触は、固いのに軽い。
まるで石畳の表面を歩いているのに、重さだけが置き忘れられたみたいだ。
通りの両側には、昭和の初め頃だろうか、木造二階建ての商店が並んでいる。
看板の文字はかすれて読めない。
シャッターの金属が、薄いセピア色に沈んでいる。
人影もある。
ただし、全員が止まっている。
帽子をかぶった男性が新聞を広げたまま、
買い物袋を抱えた主婦が一歩踏み出した姿勢で、
子供がビー玉を拾おうと身をかがめたまま。
——全員が、呼吸もまばたきもせず、
「これ以上は記録されていない」という線の向こうで固まっている。
近づいて顔を覗き込んでみると、
不思議なことに視線が合うことはなかった。
瞳が描かれたガラス玉みたいに、どこかを見ているのに、
こちらを意識していない。
街路樹の葉も止まっている。
風の代わりに、自分の足音だけが響く。
——この中で動いているのは、僕だけだ。
それが、ひどく心細い。
◇
静止した通りを歩いていると、角を曲がった先に、ベンチが一つだけあった。
その上に、誰かが座っていた。
——動いていた。
この世界で、初めて。
肩がわずかに上下し、呼吸をしている。
こちらの足音に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
男だった。
年齢は僕と同じくらいか、少し若い。
服装はこの時代にそぐわない白いシャツと黒いズボン。
だが不思議なことに、この静止した世界の中でだけ、その格好が自然に見えた。
「……あなたも、動けるんですか」
そう問いかけると、男は少し間を置いてからうなずいた。
「ええ。でも、あまり動かないようにしています。」
「どうして?」
男は膝の上で手を組み、視線を遠くに投げた。
「動き続けると、ここが壊れてしまうから。
僕は、止まっていたいんです。」
この世界では、声すらも紙の上に置かれるみたいに乾いて聞こえる。
僕はベンチの端に腰を下ろした。
動いている存在に会えた安心感と、どうしても拭えない不安が、同時に押し寄せてきた。
◇
「動いているのが嫌なんですか?」
僕がそう尋ねると、男は少し笑った。
笑ったというより、唇だけで形を作ったような無音の笑みだった。
「嫌いではありません。でも……動けば動くほど、
この世界の中で、自分の形が薄くなるんです。」
「形が薄くなる?」
「動くというのは、未来を消費することです。
写真は過去ですからね。
過去の中で未来を消費し続けると、
やがて自分の影すら残らなくなる。」
僕は言葉に詰まった。
そんなルールがあるなんて聞いたことがない。
けれど、この空気の中では、その説明が妙に納得できる。
「あなたは……戻れるんですか?」
「戻れますよ。戻り方も知っている。
でも僕は、戻らないことを選んでいるだけです。
ここは何も変わらない。
変わらないということは、傷つかないということです。」
彼は立ち上がらないまま、両手でベンチの縁を掴んだ。
静止した世界の中で、その仕草だけがかすかに揺れて見えた。
「外にいると、すべてが流れていくでしょう?
言葉も、人も、自分自身ですら。
……ここにはそれがない。」
僕は、自分の呼吸の音だけがやけに大きく響くのを感じながら、
視線を通りの止まった人々に向けた。
◇
「ここに来た人は、みんな最初は歩き回ります。」
男は、目の前の止まった通りを見渡したまま言った。
「でもそのうち気づくんです。歩いた先には何もない、って。
止まると、ようやくこの場所の形が見えてくる。」
僕は黙って耳を傾けた。
「……あなたも、止まってみませんか?」
視線が合った。
その目は穏やかだったが、静止した世界の一部になっているように見えた。
「止まるとどうなる?」
「あなたの輪郭がこの世界に馴染みます。
ここでは時間が流れません。
だから、何も失われないし、何も増えない。」
「でも、現実には戻れなくなるんでしょう?」
男はゆっくりとうなずく。
「戻れなくなるのは、現実が嫌いな人だけです。
現実に未練があるなら、風のように戻っていけますよ。
でも、一度止まってみるとわかります——
戻る理由がだんだん見えなくなる。」
彼の声は誘いというより、提案だった。
けれどその穏やかさが、逆に背筋を冷たくした。
ベンチの下では、動かないアリが一匹、砂の上で固定されている。
動かないということが、こんなに静かで重いものだとは知らなかった。
◇
「……僕は、戻るよ。」
そう答えると、男はわずかに肩をすくめた。
止まった世界の空気すら、その動きでわずかに揺れたように見えた。
「いい選択です。外の世界は、うるさいけれど——
それは、生きている音ですから。」
彼の声が、どこか遠くで溶けるように薄れていく。
⸻
次の瞬間、視界が白くはじけた。
気づくと僕は、古い写真を手にしたまま、骨董屋の片隅に立っていた。
店内の時計は、入る前と変わらない時刻を指している。
あの静止した町の空気は、もうどこにもない。
深く息を吸う。
風の音も、人の声も、現実の音が耳を満たしていた。
⸻
けれど、ふと写真を見返した僕は、息を止めた。
さっきまで誰もいなかったベンチに、二人の人影が増えていた。
一人は確かに、あの男。
もう一人は——こちらを真っすぐ見ている僕自身だった。
◇
僕が戻った場所は、写真の外側だろうか。
それとも、別の額縁の中だったんだろうか。
世界を記録するというのは、外から眺めることだと思っていた。
でも今は、
その記録の中に“自分も含まれている”んじゃないかと思う。
止まった世界の方が、本当は動いているのかもしれない。
【終】




