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「額縁の中で」

音がない。


風も、時計も、虫の羽音すら止まっている。

色だけが、古いインクの上で薄く滲んでいるような世界だ。


写真の中というのは、てっきり凍りついたままの景色だと思っていた。

けれど、中に足を踏み入れてみると、違う。

止まっているのは世界だけで、自分だけが動ける。


僕が息を吸い込むたびに、この世界はわずかに軋んで、

まるで「記録にない音」を嫌がるように身をよじる。


ここにいると、時間のほうが僕から逃げていくようだ。


こうして写真の中で目を開けていると、

ふとした瞬間に、こっちのほうが現実なんじゃないかという気がしてくる。



 足元の感触は、固いのに軽い。

 まるで石畳の表面を歩いているのに、重さだけが置き忘れられたみたいだ。


 通りの両側には、昭和の初め頃だろうか、木造二階建ての商店が並んでいる。

 看板の文字はかすれて読めない。

 シャッターの金属が、薄いセピア色に沈んでいる。


 人影もある。

 ただし、全員が止まっている。


 帽子をかぶった男性が新聞を広げたまま、

 買い物袋を抱えた主婦が一歩踏み出した姿勢で、

 子供がビー玉を拾おうと身をかがめたまま。

 ——全員が、呼吸もまばたきもせず、

 「これ以上は記録されていない」という線の向こうで固まっている。


 近づいて顔を覗き込んでみると、

 不思議なことに視線が合うことはなかった。

 瞳が描かれたガラス玉みたいに、どこかを見ているのに、

 こちらを意識していない。


 街路樹の葉も止まっている。

 風の代わりに、自分の足音だけが響く。


 ——この中で動いているのは、僕だけだ。

 それが、ひどく心細い。



静止した通りを歩いていると、角を曲がった先に、ベンチが一つだけあった。

 その上に、誰かが座っていた。


 ——動いていた。


 この世界で、初めて。


 肩がわずかに上下し、呼吸をしている。

 こちらの足音に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。


 男だった。

 年齢は僕と同じくらいか、少し若い。

 服装はこの時代にそぐわない白いシャツと黒いズボン。

 だが不思議なことに、この静止した世界の中でだけ、その格好が自然に見えた。


「……あなたも、動けるんですか」


 そう問いかけると、男は少し間を置いてからうなずいた。


「ええ。でも、あまり動かないようにしています。」


「どうして?」


 男は膝の上で手を組み、視線を遠くに投げた。


「動き続けると、ここが壊れてしまうから。

 僕は、止まっていたいんです。」


 この世界では、声すらも紙の上に置かれるみたいに乾いて聞こえる。

 僕はベンチの端に腰を下ろした。

 動いている存在に会えた安心感と、どうしても拭えない不安が、同時に押し寄せてきた。



「動いているのが嫌なんですか?」


 僕がそう尋ねると、男は少し笑った。

 笑ったというより、唇だけで形を作ったような無音の笑みだった。


「嫌いではありません。でも……動けば動くほど、

 この世界の中で、自分の形が薄くなるんです。」


「形が薄くなる?」


「動くというのは、未来を消費することです。

 写真は過去ですからね。

 過去の中で未来を消費し続けると、

 やがて自分の影すら残らなくなる。」


 僕は言葉に詰まった。

 そんなルールがあるなんて聞いたことがない。

 けれど、この空気の中では、その説明が妙に納得できる。


「あなたは……戻れるんですか?」


「戻れますよ。戻り方も知っている。

 でも僕は、戻らないことを選んでいるだけです。

 ここは何も変わらない。

 変わらないということは、傷つかないということです。」


 彼は立ち上がらないまま、両手でベンチの縁を掴んだ。

 静止した世界の中で、その仕草だけがかすかに揺れて見えた。


「外にいると、すべてが流れていくでしょう?

 言葉も、人も、自分自身ですら。

 ……ここにはそれがない。」


 僕は、自分の呼吸の音だけがやけに大きく響くのを感じながら、

 視線を通りの止まった人々に向けた。



「ここに来た人は、みんな最初は歩き回ります。」

 男は、目の前の止まった通りを見渡したまま言った。

「でもそのうち気づくんです。歩いた先には何もない、って。

 止まると、ようやくこの場所の形が見えてくる。」


 僕は黙って耳を傾けた。


「……あなたも、止まってみませんか?」


 視線が合った。

 その目は穏やかだったが、静止した世界の一部になっているように見えた。


「止まるとどうなる?」


「あなたの輪郭がこの世界に馴染みます。

 ここでは時間が流れません。

 だから、何も失われないし、何も増えない。」


「でも、現実には戻れなくなるんでしょう?」


 男はゆっくりとうなずく。


「戻れなくなるのは、現実が嫌いな人だけです。

 現実に未練があるなら、風のように戻っていけますよ。

 でも、一度止まってみるとわかります——

 戻る理由がだんだん見えなくなる。」


 彼の声は誘いというより、提案だった。

 けれどその穏やかさが、逆に背筋を冷たくした。


 ベンチの下では、動かないアリが一匹、砂の上で固定されている。

 動かないということが、こんなに静かで重いものだとは知らなかった。



「……僕は、戻るよ。」


 そう答えると、男はわずかに肩をすくめた。

 止まった世界の空気すら、その動きでわずかに揺れたように見えた。


「いい選択です。外の世界は、うるさいけれど——

 それは、生きている音ですから。」


 彼の声が、どこか遠くで溶けるように薄れていく。



 次の瞬間、視界が白くはじけた。


 気づくと僕は、古い写真を手にしたまま、骨董屋の片隅に立っていた。

 店内の時計は、入る前と変わらない時刻を指している。

 あの静止した町の空気は、もうどこにもない。


 深く息を吸う。

 風の音も、人の声も、現実の音が耳を満たしていた。



 けれど、ふと写真を見返した僕は、息を止めた。


 さっきまで誰もいなかったベンチに、二人の人影が増えていた。

 一人は確かに、あの男。

 もう一人は——こちらを真っすぐ見ている僕自身だった。




僕が戻った場所は、写真の外側だろうか。

それとも、別の額縁の中だったんだろうか。


世界を記録するというのは、外から眺めることだと思っていた。

でも今は、

その記録の中に“自分も含まれている”んじゃないかと思う。


止まった世界の方が、本当は動いているのかもしれない。


【終】

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