「不完全模倣」
完全な模倣には、気持ち悪さがない。
精巧な偽物と、ただの真似事のあいだには、深い谷がある。
——“不気味の谷”と呼ばれる感覚だ。
人間は、人間によく似たものに対して、ある閾値を超えると嫌悪を示す。
似ているからこそ違いが際立ち、ズレが許せなくなる。
でもそれは、「似すぎているもの」だけに起こるとは限らない。
——“なりきれていないもの”に、人は最も強い拒否を覚える。
完璧に真似られていればまだましだ。
中途半端に人間を模倣した存在ほど、得体の知れない不快感を呼び起こす。
この話は、そんな“どこかが足りない”模倣者に出会ったときの話だ。
◇
その話を最初に聞いたのは、古物商を営む知人からだった。
「変なのが持ち込まれたんだよ。……っていうか、捨てられてたって言った方が正しいか。廃棄場に」
彼はそう言って、一枚の写真を見せてくれた。
うっすらぼやけた画像の中央に、古びた作業用ジャンパーを着た人影が写っていた。
だがその“人影”には、顔がなかった。
正確には、顔があるはずの部分だけがノイズのようにぼやけていた。
「マネキンとか人形の類じゃないの?」
「いや、それがさ。関節がすごいリアルで。肘も膝も、ちゃんと曲がる。骨の入り方が人間っぽくて、でも、皮膚の感触が……なんか、こう……“ぬめっと”してるんだよな。ビニールじゃないし、ラバーでもない。なんていうか、“中途半端”」
「動いたって言ってた?」
「通報者の証言じゃ、そうらしい。最初は『人がうずくまってるのかと思った』んだと。近づいたら、音もなく立ち上がって、すーっと裏手に消えた。まるで……“演技を知らない役者”の動きだったって」
僕は、その言葉にひっかかりを覚えた。
演技を知らない役者。
つまり、“人間っぽく動こうとしているのに、人間らしく見えない”。
そういうものが、もし本当に存在するなら——
それは“模倣”が未完成な存在、すなわち不完全な模倣者だ。
後日、その廃棄場を訪ねてみたが、例の人形はすでに回収済みで所在不明。
現場の管理人は、あっさりこう言った。
「ああ、それな。最近、たまに来るやつと似てたよ。あんたに似た感じの。背格好とか、服とか。
でも……目線だけが違ってたな。人を見るとき、ちゃんと見てない。
“このへんが目なんだろう”って感じで、顔の中心あたりをぼんやり見てたよ」
模倣に失敗した存在——
僕はその正体を探るべく、廃棄場近辺で「それっぽいやつ」の目撃情報を集めることにした。
◇
その男と出会ったのは、三日目の午後だった。
町外れのコンビニのイートインスペース。
気づいたときには、僕の向かいの席に、彼はもう座っていた。
細身のジャケット、無地のシャツ、少し色褪せたデニム。
服装に奇抜さはなく、年齢も30前後に見える。
髪は短く整っており、肌の色も自然。
一見すれば、どこにでもいそうな“普通の男”。
ただ——目の焦点が、どこにも合っていなかった。
視線はこちらに向いているはずなのに、僕の肩の“後ろの空間”を見ている。
まるで、“人間の目の使い方”を曖昧にしか理解していないような目つきだった。
「おひる、たべるといい。……この時間、だいたいそうなってる」
彼は言った。
イントネーションは正しいのに、文の構造だけが微妙に崩れている。
たとえば、翻訳ソフトが“使い慣れた言葉の順番”に引きずられたような不自然さ。
僕が相槌を打つと、彼はすぐに、こちらの文脈に“合わせ直した”。
「昼食。取るタイミング、皆だいたいこのへんに集まる。学習済み」
学習済み?
僕は名刺を渡し、「フリーのライターだ」と伝えた。
彼は名刺を見て、一言こう言った。
「観察側……ですね。なるほど」
“観察側”。
その言い回しに、背中がうっすらと冷たくなった。
「あなたの顔、たしかに見覚えがあります。
でも、名前の方はまだ定着していません」
彼はにこりともせず、そう言った。
その後、彼と何を話したのか、詳細な記憶が曖昧だった。
だが、ノートにだけはこう記されていた。
「会話に違和感なし。ただし、表情のタイミングがすべて半テンポ遅れている」
◇
翌日、彼の方から僕に連絡を寄越した。
連絡先など渡していないはずだが、「明日の午後、この場所に来ることになってますよね?」と、
当然のように言われた。
訪れたのは、町の外れにある築40年の団地。
3階、端の角部屋。郵便受けに名前はなかった。
ドアを開けると、彼がいた。
部屋は異様に整頓されていた。
だが、どこか“整えられすぎて”いた。
生活の痕跡がなかった。使用感のない調味料、未使用の寝具。
机の上には、人間観察ノートのようなものが開かれていた。
中にはこう書かれていた。
「人間は、意味のある無駄を好む。
無意味な雑談。予定のない散歩。意味がないのに、意味があると感じる行為。
それを“人間らしさ”と呼ぶらしい。模倣困難。」
僕は小さなボイスレコーダーを胸ポケットに差し込んでいた。
スイッチを入れたまま、会話を始める。
「あなたは、自分のことを“模倣者”だと?」
「いえ。私は“観測的適応体”です。
ただ、この種族の形態と行動パターンに最も近い外殻を選んでいるだけ」
「種族……って、“人間”のことですか?」
彼はゆっくり首を傾けた。
「人間という定義に、あなたが含まれるなら、そうです。
でも、あなたもまだ“不完全”ですよね。
口元の動きと、目の感情が一致してない」
彼は、言葉を発しながら笑っていた。
表面的には完璧だった。
だが、目が動かなかった。
笑うとき、人間の目は自然に細くなる。だが彼の目だけが、“笑っていない”。
それを見て、僕は思った。
——模倣とは、「似ている」ではなく、「信じさせる」ことなんだ。
帰宿後、録音を再生した。
……僕の声だけが再生された。
彼の声の部分は、まるで最初から存在しなかったように、無音だった。
◇
翌日も、僕は彼の部屋を訪ねた。
彼は変わらず、そこにいた。昨日と同じ服装、同じ髪型。机の上のノートだけが、新しいページをめくられていた。
「模倣の難しさは、“曖昧さ”にある。
感情の半端な変化、言葉にならない気配、目の揺れ——
それらを真似ようとすると、必ず“違うもの”になる。」
彼はノートから顔を上げると、こちらをじっと見た。
今度は、焦点が正しく“目”に合っている。
昨日の彼とは、明らかに違っていた。
「だんだん、慣れてきたんです。
“どこを見れば、それっぽくなるか”。
“どういう抑揚なら、不審に思われないか”。
……でもそれは、“本当の意味での理解”じゃないんですよね」
僕は尋ねた。
「なぜ、そんなにまでして“人間っぽく”なろうとするんです?」
彼は、少しだけ笑った。
「——人間は、自分たちに似たものしか信用しないからです」
その一言に、僕は返す言葉を失った。
「あなたは、僕のことを“気持ち悪い”と思ってますよね。
でもそれは、“僕が人間に似すぎているから”じゃない。
“なりきれていないこと”を、あなたが知っているからです。
あなたの中に、“本物”という基準があるから。
それが一番、模倣を難しくする」
彼は立ち上がり、窓の外を見た。
「たとえば、あなた自身が“誰かを模倣している”という可能性を考えたこと、ありますか?
あなたの語り口、表情、思考のフレーズ——それはあなた自身のものですか?
それとも、どこかで見た誰かの模倣ですか?」
問いは静かだった。
けれど、その言葉が胸の奥に染み込んで、しばらく取れなかった。
◇
取材を終えた僕は、町を離れた。
録音も、写真も、証拠らしいものは何一つ残っていない。
あるのは曖昧なメモと、ぼんやりとした記憶だけ。
けれど、不思議だったのは——
僕の手帳に、自分の筆跡で書かれた文章のいくつかが、どこか“よそよそしく”感じられたことだった。
「観察者は、観測される側に影響を与える」
「模倣は、信じたいという欲望から始まる」
確かに自分で書いたはずの文だ。
けれどそのフレーズが、“自分のものではない”ように思える。
宿の鏡で顔を見たとき、ふと、こう思った。
——この顔、本当に“僕”だっただろうか?
記憶の中の自分は、もっと違う表情をしていた気がする。
声も、少しだけ高かった。
仕草も、言葉のリズムも……何か、少しずつズレている。
僕は僕を、正確に思い出せない。
鏡の中の自分が、ゆっくりまばたきをした。
まるで、“人間のまばたきを真似ている誰か”のような、滑らかすぎる動きだった。
◇
僕は“模倣する者”に会った。
彼は人間に似ようとしていた。だが、その目的は、
**「なりきる」ことではなく、「見破られないこと」**だったのかもしれない。
似ているかどうかより、「似ていると思われる」こと。
それは、僕らが毎日無意識にやっていることと、どれだけ違うんだろう。
今日も、僕は“僕らしい言葉”を選び、“僕っぽい態度”で誰かに会う。
だから今、僕は少しだけ不安だ。
——この一ノ瀬一二三という存在もまた、
どこかの“模倣”から始まっていたのだとしたら。
【終】




