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「五月の蝿」

蝿というのは、どこか“季節感”を間違えている。


 まだ夏にもなっていないというのに、奴らはもう群れて、騒ぎ、うるさい音を撒き散らす。

 気温も湿度も足りていないのに、なぜか“湧いている”のだ。

 しかもあいつら、どこからやって来るのか誰にもわからない。

 気がつくとそこにいて、気がつくといなくなっている。

 死骸も見ない。卵も見ない。ただ“いた”という事実だけが空間に残る。


 中でも、五月の蝿がいちばんタチが悪い。

 暑さの前触れのように現れては、空気の隙間に潜り込み、湿った羽音で耳の奥を撫でてくる。

 しかもこいつら、やけにしつこい。


 ——そんな五月の蝿に、僕は一度、話しかけられたことがある。



その部屋に入った瞬間、まず最初に感じたのは「音」だった。

 蝿の羽音。

 だが、僕が知っているどの羽音よりも重く、粘ついていた。


 ブゥゥゥン……

 ……ブゥウウウ……


 数ではなく、密度の問題だ。

 音が空間を埋めている。耳で聞くというより、肌に触れてくるような感触だった。


 場所は、杉並区の端にある古いアパートの一室。

 依頼してきたのは、この建物の管理会社だった。


「もう1ヶ月も誰も住んでないんですよ。

 それなのに、蝿が……なんか、ずっと、減らないんです」


 住人の女性は行方不明扱いで、室内には生活感がそのまま残されていた。

 家具、衣類、調味料。腐敗臭はない。ゴミもない。


 にもかかわらず、蝿だけがいた。


 壁にも天井にも、棚の上にも、蝿。

 窓際に日光が射し込むと、それが波のようにざわつく。


 浴室の排水口に一匹、コバエサイズのものが入り込んでいる。

 指でつまみ出すと、まるで自分から潰れたように、ぐしゃりと崩れた。


 僕はスマホを取り出し、部屋全体の羽音を録音する。

 取材とは呼べないような、手探りの作業だった。


 空気は冷たいのに、じっとりと汗をかいた。

 湿度じゃない。これは、気配だ。

 この部屋には、“何かが残っている”。


 そしてそれは、蝿という形を借りて、まだ生きていた。



その夜、僕は宿に戻ってから録音データを確認した。

 あの部屋の羽音——不快ではあったが、あれだけの数が飛んでいれば当然の環境音のはずだった。


 スマホのスピーカーから流れるのは、あの濁った羽ばたきの重奏。

 しかし再生から五分ほど経ったとき、不意にノイズのようなざらつきが混じり、

 その中に、明らかに“声”のような音が重なっていることに気づいた。


……さむい……さむいよ……

……だれか、……ここに……いる……?


 息を呑む。

 繰り返し再生しても、そこだけが明瞭に、人の声に聞こえる。


 しかし、語尾は濁っていて、母音は曖昧で、まるで言葉になりきる寸前で崩れていくようだった。


 僕は音声解析ソフトを立ち上げ、波形を見た。

 その“声”が入っていた箇所だけ、異様に整ったパターンをしていた。

 まるで人工的に生成された信号のような、直線的な音の塊。


 録音には続きがあった。

 十秒ほど沈黙したあと、今度はもっと奇妙な音が、ノイズの底から浮かび上がった。


……ぶぅん……ぶん……

……おまえも……こっちに、くる……?


 それは羽音とも、声とも、どちらにも分類できない“呼び声”だった。

 言葉のかたちを模した、何かの擬態のように聞こえた。


 再生を止めたあともしばらく、僕の耳の奥では羽音が鳴り続けていた。

 まるで、あの部屋の蝿たちが、耳の中に“住みついた”かのように。



蝿は、どこから来たのか。

 あの部屋にいた無数の虫たちの発生源を、僕は調べ始めた。


 まず、その部屋に住んでいた女性——結城ひとみ(26)の行方は、警察に“所在不明”として登録されていた。

 異常な行動や家出の兆候はなし。

 彼女のSNSは現在非公開だが、知人の協力でいくつか過去の投稿を取得できた。


 そのうちの一文が、妙に引っかかった。


「蝿が私の名前を呼ぶようになった。

ベランダで死んだ鳩に近づいたのがよくなかったかも。

……声がする。耳じゃなくて、骨で聞こえる感じ」


 ——名前を呼ぶ蝿。


 意味不明だった。

 だが、別の角度から調べていくうちに、この部屋に関する不審な共通点が浮かび上がってきた。


 過去5年間で、この部屋には3人の入居者がいた。

 うち2人が、いずれも5月中旬に退去している。

 どちらも理由は「音が気持ち悪い」「眠れない」「気配がついてくる」。


 特に一人、男性の記録には「虫の声が言葉に聞こえる」とまで書かれていた。


 管理会社に記録が残っていた通報メモには、こうある。


「壁の中から、“ぶんぶんぶん、なんとかなんとか”って声がする。

テレビじゃないです。隣でもないです。

でも、確実に誰かが喋ってる。語尾が震えてるんです」


 僕は、次第にある仮説に行きつきはじめていた。


 あの蝿たちは、ただの害虫ではない。

 「何か」を運ぶための形をしているだけなのだ。


 それは声か、記憶か、それとも——意識そのものか。



僕は、三度あの部屋を訪れた。

 取材というより、確認だった。

 自分が聞いたものが、現実にあったかどうかを確かめたかった。


 鍵はそのままだった。

 ドアを開けると、羽音が一気に押し寄せてくる。


 ——いや、違う。

 羽音が鳴っているのではない。鳴っているのは“部屋”のほうだ。


 音が物理ではない。

 耳ではなく、皮膚や骨を震わせる振動のようなものだった。


 僕は録音はやめ、目を閉じてじっと音に集中する。

 羽音はただの騒音ではなかった。

 その中には、明確な“繰り返し”があった。


 低く、濁ったノイズの中に、はっきりとした言語の構造を持ったパターン。


 ——囁くような声が、混ざっている。


いない いない いない

ほしい ほしい ほしい

……かえして

……ここ に いる……


 それは、言葉になり損ねた言葉だった。

 人間の声というより、“音の中から人間の形を模倣しようとしているもの”のようだった。


 その声は、誰かを探している。

 あるいは、誰かが失くした“思念のかけら”を集めようとしている。


 ——彼女は消えたのではない。


 きっと、“ここにいる”。


 蝿という形で。


 羽音という記号のなかで。


 この部屋にこびりついた、残響のような意思のなかで。



僕は録音データをすべて削除した。

 ファイルも、バックアップも、紙のメモすら破って燃やした。


 それでも——耳の奥には、まだあの羽音が残っていた。

 あれは空気の震えではなく、“脳が覚えた音”だったのかもしれない。


 帰路、駅のホームで一匹の蝿が僕の肩にとまった。

 払いのけようとした指が止まる。


 その蝿は、じっと、動かなかった。

 飛び立つことも、逃げることもせず、ただそこにいた。


 まるで、“何かを伝えようとしている”かのように。


蝿が生まれるのは、腐った肉の中とは限らない。

壊れかけた言葉、誰にも届かなかった声。

そういった“行き場を失ったもの”が、

小さな羽と黒い目を持って、この世界に戻ってくることがある。

それが、五月の蝿だ。


 ホームに風が吹き抜け、蝿がひとつ、音もなく飛び立った。


 それを見送る僕の耳に、誰のものでもない声が、うっすらと残った。


「——まだ、ここにいるよ。」



【終】

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