「五月の蝿」
蝿というのは、どこか“季節感”を間違えている。
まだ夏にもなっていないというのに、奴らはもう群れて、騒ぎ、うるさい音を撒き散らす。
気温も湿度も足りていないのに、なぜか“湧いている”のだ。
しかもあいつら、どこからやって来るのか誰にもわからない。
気がつくとそこにいて、気がつくといなくなっている。
死骸も見ない。卵も見ない。ただ“いた”という事実だけが空間に残る。
中でも、五月の蝿がいちばんタチが悪い。
暑さの前触れのように現れては、空気の隙間に潜り込み、湿った羽音で耳の奥を撫でてくる。
しかもこいつら、やけにしつこい。
——そんな五月の蝿に、僕は一度、話しかけられたことがある。
◇
その部屋に入った瞬間、まず最初に感じたのは「音」だった。
蝿の羽音。
だが、僕が知っているどの羽音よりも重く、粘ついていた。
ブゥゥゥン……
……ブゥウウウ……
数ではなく、密度の問題だ。
音が空間を埋めている。耳で聞くというより、肌に触れてくるような感触だった。
場所は、杉並区の端にある古いアパートの一室。
依頼してきたのは、この建物の管理会社だった。
「もう1ヶ月も誰も住んでないんですよ。
それなのに、蝿が……なんか、ずっと、減らないんです」
住人の女性は行方不明扱いで、室内には生活感がそのまま残されていた。
家具、衣類、調味料。腐敗臭はない。ゴミもない。
にもかかわらず、蝿だけがいた。
壁にも天井にも、棚の上にも、蝿。
窓際に日光が射し込むと、それが波のようにざわつく。
浴室の排水口に一匹、コバエサイズのものが入り込んでいる。
指でつまみ出すと、まるで自分から潰れたように、ぐしゃりと崩れた。
僕はスマホを取り出し、部屋全体の羽音を録音する。
取材とは呼べないような、手探りの作業だった。
空気は冷たいのに、じっとりと汗をかいた。
湿度じゃない。これは、気配だ。
この部屋には、“何かが残っている”。
そしてそれは、蝿という形を借りて、まだ生きていた。
◇
その夜、僕は宿に戻ってから録音データを確認した。
あの部屋の羽音——不快ではあったが、あれだけの数が飛んでいれば当然の環境音のはずだった。
スマホのスピーカーから流れるのは、あの濁った羽ばたきの重奏。
しかし再生から五分ほど経ったとき、不意にノイズのようなざらつきが混じり、
その中に、明らかに“声”のような音が重なっていることに気づいた。
……さむい……さむいよ……
……だれか、……ここに……いる……?
息を呑む。
繰り返し再生しても、そこだけが明瞭に、人の声に聞こえる。
しかし、語尾は濁っていて、母音は曖昧で、まるで言葉になりきる寸前で崩れていくようだった。
僕は音声解析ソフトを立ち上げ、波形を見た。
その“声”が入っていた箇所だけ、異様に整ったパターンをしていた。
まるで人工的に生成された信号のような、直線的な音の塊。
録音には続きがあった。
十秒ほど沈黙したあと、今度はもっと奇妙な音が、ノイズの底から浮かび上がった。
……ぶぅん……ぶん……
……おまえも……こっちに、くる……?
それは羽音とも、声とも、どちらにも分類できない“呼び声”だった。
言葉のかたちを模した、何かの擬態のように聞こえた。
再生を止めたあともしばらく、僕の耳の奥では羽音が鳴り続けていた。
まるで、あの部屋の蝿たちが、耳の中に“住みついた”かのように。
◇
蝿は、どこから来たのか。
あの部屋にいた無数の虫たちの発生源を、僕は調べ始めた。
まず、その部屋に住んでいた女性——結城ひとみ(26)の行方は、警察に“所在不明”として登録されていた。
異常な行動や家出の兆候はなし。
彼女のSNSは現在非公開だが、知人の協力でいくつか過去の投稿を取得できた。
そのうちの一文が、妙に引っかかった。
「蝿が私の名前を呼ぶようになった。
ベランダで死んだ鳩に近づいたのがよくなかったかも。
……声がする。耳じゃなくて、骨で聞こえる感じ」
——名前を呼ぶ蝿。
意味不明だった。
だが、別の角度から調べていくうちに、この部屋に関する不審な共通点が浮かび上がってきた。
過去5年間で、この部屋には3人の入居者がいた。
うち2人が、いずれも5月中旬に退去している。
どちらも理由は「音が気持ち悪い」「眠れない」「気配がついてくる」。
特に一人、男性の記録には「虫の声が言葉に聞こえる」とまで書かれていた。
管理会社に記録が残っていた通報メモには、こうある。
「壁の中から、“ぶんぶんぶん、なんとかなんとか”って声がする。
テレビじゃないです。隣でもないです。
でも、確実に誰かが喋ってる。語尾が震えてるんです」
僕は、次第にある仮説に行きつきはじめていた。
あの蝿たちは、ただの害虫ではない。
「何か」を運ぶための形をしているだけなのだ。
それは声か、記憶か、それとも——意識そのものか。
◇
僕は、三度あの部屋を訪れた。
取材というより、確認だった。
自分が聞いたものが、現実にあったかどうかを確かめたかった。
鍵はそのままだった。
ドアを開けると、羽音が一気に押し寄せてくる。
——いや、違う。
羽音が鳴っているのではない。鳴っているのは“部屋”のほうだ。
音が物理ではない。
耳ではなく、皮膚や骨を震わせる振動のようなものだった。
僕は録音はやめ、目を閉じてじっと音に集中する。
羽音はただの騒音ではなかった。
その中には、明確な“繰り返し”があった。
低く、濁ったノイズの中に、はっきりとした言語の構造を持ったパターン。
——囁くような声が、混ざっている。
いない いない いない
ほしい ほしい ほしい
……かえして
……ここ に いる……
それは、言葉になり損ねた言葉だった。
人間の声というより、“音の中から人間の形を模倣しようとしているもの”のようだった。
その声は、誰かを探している。
あるいは、誰かが失くした“思念のかけら”を集めようとしている。
——彼女は消えたのではない。
きっと、“ここにいる”。
蝿という形で。
羽音という記号のなかで。
この部屋にこびりついた、残響のような意思のなかで。
◇
僕は録音データをすべて削除した。
ファイルも、バックアップも、紙のメモすら破って燃やした。
それでも——耳の奥には、まだあの羽音が残っていた。
あれは空気の震えではなく、“脳が覚えた音”だったのかもしれない。
帰路、駅のホームで一匹の蝿が僕の肩にとまった。
払いのけようとした指が止まる。
その蝿は、じっと、動かなかった。
飛び立つことも、逃げることもせず、ただそこにいた。
まるで、“何かを伝えようとしている”かのように。
蝿が生まれるのは、腐った肉の中とは限らない。
壊れかけた言葉、誰にも届かなかった声。
そういった“行き場を失ったもの”が、
小さな羽と黒い目を持って、この世界に戻ってくることがある。
それが、五月の蝿だ。
ホームに風が吹き抜け、蝿がひとつ、音もなく飛び立った。
それを見送る僕の耳に、誰のものでもない声が、うっすらと残った。
「——まだ、ここにいるよ。」
【終】




