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「灰色の給食」

給食には、記憶の中の色がある。


揚げパンのきつね色。

トマトスープの赤。

チョコ味の粉を混ぜて、ほんのり甘く変化した牛乳の色。

飲み干したあとの、透けたガラス瓶の青白さ。


けれど、取材に訪れたあの学校では、すべてが“灰色”だった。


パンも、スープも、果物も。

彩りは消え、味も香りも、どこか曖昧になっていた。


それでも子どもたちは、それを“ふつうの給食”として受け入れていた。

誰も異常を疑っていなかった。


……たった一人の教師を除いて。



 地方紙の連載で、「学校給食の変遷と地域性について」という妙にお堅いテーマを任されたのは、編集部が僕を厄介払いしたいからだったのかもしれない。


 舞台となったのは、人口およそ八千人の山間の町にある木造校舎の小学校だった。

 築七十年を超えるというその建物は、何度も補修を繰り返されながら、今なお子どもたちの声を吸い込み続けている。


「校長は今日不在ですけど、給食の様子は自由に見てくださって構いません。子どもたちも慣れてますので」


 案内してくれた教頭がそう言って、職員室の扉を閉めた。


 見学許可証を首にぶら下げ、僕は廊下を歩く。

 教室の前を通り過ぎるたび、子どもたちの賑やかな声が耳に入る。

 けれど、それがどこか妙にくぐもって聞こえることが気にかかった。


 昼休みを挟み、給食の時間が始まる。

 僕はカメラを持って、配膳の様子を撮影することにした。


 そのときだった。


 教室の扉が開かれ、ワゴンに載せられた給食が目に入った瞬間——


 僕の足が、止まった。


 色がなかった。


 パンも、スープも、野菜も、果物も——すべて灰色だった。



見間違いかと思い、僕はもう一度、給食ワゴンを見た。


 ステンレスのトレーに盛られたパンは、灰色。

 カレーのはずのスープも、具の形こそ見えるが、すべて淡い灰の濁り。

 サラダも、果物も、どれも色を失っていた。


 まるで、印刷物から色彩だけを抜いたような給食。


 けれど、教室にいた子どもたちは、誰一人としてそれをおかしいとは思っていないようだった。

 「いただきます」の声が響き、配られたトレーを前にして、嬉々として箸を動かしている。


「ここのカレー、スパイスが効いてて美味しいんだよ」

「このグレープフルーツ、当たりだ〜」


 子どもたちの言葉には、確かに“味がある”前提の感想が混じっている。

 なのに、その食べ物はすべて、灰色で、のっぺりとした無機質な印象を与えていた。


 僕は、たまたま廊下を通りかかった女性教師に声をかけた。


「すみません、この給食……」


「あっ、見た目びっくりしますよね〜。うち、食育プログラムっていう取り組みで、ちょっと特殊なんです」


「特殊……」


「はい、“食材を先入観なく見て、味わう力を育てる”っていう実践授業なんです。色のついたフィルターかけてるんですよ、ビタミンライトとか……あれ、なんでしたっけ」


 言い訳のようなその説明に、彼女自身もどこかあやふやな笑みを浮かべていた。


「じゃ、失礼しますね!」


 教師は小走りで立ち去った。

 その後ろ姿の早さに、少しだけ“逃げるような気配”を感じたのは、僕の気のせいだろうか。



その日の取材を終え、僕は資料室を借りて、学校の沿革をざっと確認していた。

 廃校寸前の時期があったこと。数年前から「特色ある教育」に注力していること。

 だが、給食に関する記録は、なぜかごっそり抜けていた。


 ページの空白を眺めていると、背後から声がした。


「……あなた、見えてるんですね」


 振り返ると、白髪まじりの男性教員が立っていた。

 胸元の名札には「猿渡さるわたり」とある。学年主任だろうか。


「他の先生たちは、もう“見えなくなってる”んです」


「見えなく……?」


 猿渡は、ため息まじりに椅子を引いて腰を下ろした。


「最初は、給食センターのミスかと思いました。食材の保存状態か、調味料の不備か……でも、違った。あれは**“色が消えている”んです**。本当に」


「やはり異常なんですね」


「ええ。でも、子どもたちは“これが普通”だと答える。先生たちも“そんなものだ”としか言わない。誰も変だと感じていないんです。まるで……灰色の世界に慣れすぎて、もとの色を忘れてしまったかのように」


 僕は、先ほどの給食の風景を思い出す。

 グレーのパンをかじり、嬉しそうに笑う子どもたち。

 色のないカレーを「スパイシーだ」と評する言葉。


 知覚と記憶が一致していない。


 まるで、彼らの脳のほうが“改ざん”されているかのような。


 猿渡が続けた。


「だから、あなたが驚いているのを見て、ほっとしたんです。

 ……まだ、外の世界は、ちゃんと“色”が残ってるんだなって」



 取材を終え、帰路についた僕は、事務所に戻るなりカメラのデータを確認した。

 子どもたちの笑顔、配膳の様子、教室の風景、そして——給食のトレー。


 画面をスクロールするうちに、ある“違和感”が胸をざわつかせた。


 ——色が、戻っている。


 カレーは黄土色、野菜は緑と赤、パンはこんがりと焼けた小麦色。

 スープの器には透明感のあるコンソメのきらめきが宿っていた。

 写真の中の給食は、どこにでもある普通の食事だった。


「おかしい……あのときは確かに……」


 モニタ越しに、もう一度写真を見つめる。

 拡大しても加工された痕跡は見られない。

 撮影データには異常はなかった。


 ——だとすれば、あの“灰色の給食”を見たのは、

 僕の錯覚だったのか?

 それとも、あれが“真実”で、写真が“偽物”なのか?


 混乱する頭を抱えながら、ふと、ポケットの中のスマートフォンに触れた。


 僕には、一つだけ確かめる方法がある。


 ——写真に入る、という方法が。



 部屋の照明を落とし、モニターに給食の写真を一枚だけ表示させる。


 そこには、色鮮やかな食事が映っていた。

 赤、緑、黄色、オレンジ——思い出の中の給食に似ていた。

 けれど、僕の記憶とは食い違っている。


 僕は深く息を吸い、椅子に腰掛けた。

 モニターを見つめ、意識を集中させる。


 視界が、滲む。

 光が、形を変える。

 空間が、ねじれる。


 ——そして、僕は写真の中にいた。


 教室の中。

 昼の時間。

 あの日と同じように、子どもたちは席に着き、給食を食べている。


 けれど、そこにあったのは、やはり——


 灰色の給食だった。


 現実では色づいていたはずのパンはくすんだグレーに沈み、

 サラダの中のトマトは灰の塊にしか見えなかった。


 “真実”は、こっちだ。


「ねえ、お兄さん。給食、食べないの?」


 不意に声をかけられた。振り返ると、小学三年生くらいの男の子が立っていた。


「うちの給食、美味しいんだよ? ぼく、大好きなんだ」


 彼の手に握られたスプーンには、色のないゼリーが乗っていた。

 それを見つめる僕の目に、ふと違和感が走る。


 ゼリーの奥、スプーンの金属に、何かが映り込んでいた。

 黒い影のような、歪な“何か”が。


 僕はすぐにカメラを構え、そのゼリーにレンズを向けた。


 カメラ越しに見る世界にだけ、“異物”が映っていた。



 写真の中から戻った僕は、すぐに猿渡教師に連絡を取った。

 校外の喫茶店で落ち合うと、彼はどこか安堵した表情を浮かべた。


「……やはり、あなたも見たんですね。写真の“ズレ”を」


「ええ。現実では灰色だった給食が、写真の中では色を取り戻していた。でも、僕が実際に“入って”確かめた世界は、やはり無彩色のままだった」


「つまり、写真のほうが嘘をついている。加工されているわけでもないのに、写ったものが“異常を隠す”」


 僕はスマートフォンの画面を見せた。

 スプーンに映り込んだ、黒い影のような異物。

 子どもたちの笑顔の奥に、微かに覗く“何か”。


「これが、あの学校に巣くってる“何か”じゃないかと思うんです。人の知覚に作用して、現実そのものを書き換えるような」


「……“色”を食べているのかもしれませんね」


「色?」


「給食の色だけじゃない。たぶん、“感覚”そのものを——たとえば、違和感とか、疑問とか、“これはおかしい”という感情さえも」


 猿渡の目が陰る。


「私も最初は、違和感を覚えていました。けれど、日を追うごとに慣れていってしまった。

 でも……一度だけ、見たんです。あの影が、子どもたちの“目の奥”に潜むのを」


 僕の背筋に冷たいものが走る。


「それってつまり……」


「“それ”はもう、あの学校の一部なんですよ。

 まるで、教育の過程に組み込まれた“寄生虫”のように」



 僕は再び、あの給食の写真に意識を集中させた。

 視界が滲み、教室の空気が肌に貼りつく感触が戻ってくる。

 今度はカメラを構えたまま写真の中に入った。


 昼の教室。静かな食器の音。無邪気な笑い声。

 そして、子どもたちの背後に、微かに滲む“黒”。


 その存在は、はっきりとは見えない。

 輪郭は曖昧で、形もなく、煙のようで、液体のようで、ただ——


 空気に紛れ、彼らの「思考」に寄り添っていた。


 僕はシャッターを切る。

 何度も、何度も。

 その“黒”が、ほんのわずかに振り返った気がした。


 ——音が、消えた。


 教室中の声が、食器の音が、すべて止まる。

 子どもたちが一斉にこちらを見た。


 灰色の瞳。灰色の表情。

 そして、口々に囁いた。


「きれいな色なんて、いらないよ」

「ぜんぶ同じなら、安心だもん」

「まちがえないで、すむから」


 ——それは“彼らの声”ではなかった。

 彼らの中にいる“何か”の声だった。


 僕は咄嗟にポケットの中のフィルムカメラを取り出し、残された一枚に光を焼きつけた。


 パシャ。


 世界が、ざらつくように崩れ、僕は写真の外へと引き戻された。



フィルムカメラで撮った最後の一枚を、現像所に持ち込んだ。

 デジタルではどうしても写らなかった“あれ”を、銀塩の粒子に焼きつけるために。


 数日後、現像を受け取った僕は、駅前のベンチに腰を下ろして封を開いた。


 写真には、教室の風景があった。

 長机に並ぶ灰色のトレーと、給食を口に運ぶ子どもたち。

 そして、その中央に。


 あきらかに“異質な何か”が、写っていた。


 黒い墨を垂らしたような、粘つく影。

 誰かの背中にぴたりと貼りつき、首の後ろに細い線のようなものを差し込んでいた。

 まるで、脳に触れて何かを操作しているように——


 だが、驚いたのはそこではなかった。


 写真の隅。窓際の一人の子どものトレーに、

 ほんのわずかだが“赤いミニトマト”が映っていた。


 色を持つ者が、たった一人だけ。


 それが希望なのか、あるいは次に喰われる順番なのかは、わからない。


 僕はそっと封筒を閉じた。


 この町ではまだ、給食が無事に提供され続けている。

 誰も異常には気づかないまま。


 色のない世界に、違和感を覚えた者だけが、影に気づくのだ。


【終】

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