「灰色の給食」
給食には、記憶の中の色がある。
揚げパンのきつね色。
トマトスープの赤。
チョコ味の粉を混ぜて、ほんのり甘く変化した牛乳の色。
飲み干したあとの、透けたガラス瓶の青白さ。
けれど、取材に訪れたあの学校では、すべてが“灰色”だった。
パンも、スープも、果物も。
彩りは消え、味も香りも、どこか曖昧になっていた。
それでも子どもたちは、それを“ふつうの給食”として受け入れていた。
誰も異常を疑っていなかった。
……たった一人の教師を除いて。
◇
地方紙の連載で、「学校給食の変遷と地域性について」という妙にお堅いテーマを任されたのは、編集部が僕を厄介払いしたいからだったのかもしれない。
舞台となったのは、人口およそ八千人の山間の町にある木造校舎の小学校だった。
築七十年を超えるというその建物は、何度も補修を繰り返されながら、今なお子どもたちの声を吸い込み続けている。
「校長は今日不在ですけど、給食の様子は自由に見てくださって構いません。子どもたちも慣れてますので」
案内してくれた教頭がそう言って、職員室の扉を閉めた。
見学許可証を首にぶら下げ、僕は廊下を歩く。
教室の前を通り過ぎるたび、子どもたちの賑やかな声が耳に入る。
けれど、それがどこか妙にくぐもって聞こえることが気にかかった。
昼休みを挟み、給食の時間が始まる。
僕はカメラを持って、配膳の様子を撮影することにした。
そのときだった。
教室の扉が開かれ、ワゴンに載せられた給食が目に入った瞬間——
僕の足が、止まった。
色がなかった。
パンも、スープも、野菜も、果物も——すべて灰色だった。
◇
見間違いかと思い、僕はもう一度、給食ワゴンを見た。
ステンレスのトレーに盛られたパンは、灰色。
カレーのはずのスープも、具の形こそ見えるが、すべて淡い灰の濁り。
サラダも、果物も、どれも色を失っていた。
まるで、印刷物から色彩だけを抜いたような給食。
けれど、教室にいた子どもたちは、誰一人としてそれをおかしいとは思っていないようだった。
「いただきます」の声が響き、配られたトレーを前にして、嬉々として箸を動かしている。
「ここのカレー、スパイスが効いてて美味しいんだよ」
「このグレープフルーツ、当たりだ〜」
子どもたちの言葉には、確かに“味がある”前提の感想が混じっている。
なのに、その食べ物はすべて、灰色で、のっぺりとした無機質な印象を与えていた。
僕は、たまたま廊下を通りかかった女性教師に声をかけた。
「すみません、この給食……」
「あっ、見た目びっくりしますよね〜。うち、食育プログラムっていう取り組みで、ちょっと特殊なんです」
「特殊……」
「はい、“食材を先入観なく見て、味わう力を育てる”っていう実践授業なんです。色のついたフィルターかけてるんですよ、ビタミンライトとか……あれ、なんでしたっけ」
言い訳のようなその説明に、彼女自身もどこかあやふやな笑みを浮かべていた。
「じゃ、失礼しますね!」
教師は小走りで立ち去った。
その後ろ姿の早さに、少しだけ“逃げるような気配”を感じたのは、僕の気のせいだろうか。
◇
その日の取材を終え、僕は資料室を借りて、学校の沿革をざっと確認していた。
廃校寸前の時期があったこと。数年前から「特色ある教育」に注力していること。
だが、給食に関する記録は、なぜかごっそり抜けていた。
ページの空白を眺めていると、背後から声がした。
「……あなた、見えてるんですね」
振り返ると、白髪まじりの男性教員が立っていた。
胸元の名札には「猿渡」とある。学年主任だろうか。
「他の先生たちは、もう“見えなくなってる”んです」
「見えなく……?」
猿渡は、ため息まじりに椅子を引いて腰を下ろした。
「最初は、給食センターのミスかと思いました。食材の保存状態か、調味料の不備か……でも、違った。あれは**“色が消えている”んです**。本当に」
「やはり異常なんですね」
「ええ。でも、子どもたちは“これが普通”だと答える。先生たちも“そんなものだ”としか言わない。誰も変だと感じていないんです。まるで……灰色の世界に慣れすぎて、もとの色を忘れてしまったかのように」
僕は、先ほどの給食の風景を思い出す。
グレーのパンをかじり、嬉しそうに笑う子どもたち。
色のないカレーを「スパイシーだ」と評する言葉。
知覚と記憶が一致していない。
まるで、彼らの脳のほうが“改ざん”されているかのような。
猿渡が続けた。
「だから、あなたが驚いているのを見て、ほっとしたんです。
……まだ、外の世界は、ちゃんと“色”が残ってるんだなって」
◇
取材を終え、帰路についた僕は、事務所に戻るなりカメラのデータを確認した。
子どもたちの笑顔、配膳の様子、教室の風景、そして——給食のトレー。
画面をスクロールするうちに、ある“違和感”が胸をざわつかせた。
——色が、戻っている。
カレーは黄土色、野菜は緑と赤、パンはこんがりと焼けた小麦色。
スープの器には透明感のあるコンソメのきらめきが宿っていた。
写真の中の給食は、どこにでもある普通の食事だった。
「おかしい……あのときは確かに……」
モニタ越しに、もう一度写真を見つめる。
拡大しても加工された痕跡は見られない。
撮影データには異常はなかった。
——だとすれば、あの“灰色の給食”を見たのは、
僕の錯覚だったのか?
それとも、あれが“真実”で、写真が“偽物”なのか?
混乱する頭を抱えながら、ふと、ポケットの中のスマートフォンに触れた。
僕には、一つだけ確かめる方法がある。
——写真に入る、という方法が。
◇
部屋の照明を落とし、モニターに給食の写真を一枚だけ表示させる。
そこには、色鮮やかな食事が映っていた。
赤、緑、黄色、オレンジ——思い出の中の給食に似ていた。
けれど、僕の記憶とは食い違っている。
僕は深く息を吸い、椅子に腰掛けた。
モニターを見つめ、意識を集中させる。
視界が、滲む。
光が、形を変える。
空間が、ねじれる。
——そして、僕は写真の中にいた。
教室の中。
昼の時間。
あの日と同じように、子どもたちは席に着き、給食を食べている。
けれど、そこにあったのは、やはり——
灰色の給食だった。
現実では色づいていたはずのパンはくすんだグレーに沈み、
サラダの中のトマトは灰の塊にしか見えなかった。
“真実”は、こっちだ。
「ねえ、お兄さん。給食、食べないの?」
不意に声をかけられた。振り返ると、小学三年生くらいの男の子が立っていた。
「うちの給食、美味しいんだよ? ぼく、大好きなんだ」
彼の手に握られたスプーンには、色のないゼリーが乗っていた。
それを見つめる僕の目に、ふと違和感が走る。
ゼリーの奥、スプーンの金属に、何かが映り込んでいた。
黒い影のような、歪な“何か”が。
僕はすぐにカメラを構え、そのゼリーにレンズを向けた。
カメラ越しに見る世界にだけ、“異物”が映っていた。
◇
写真の中から戻った僕は、すぐに猿渡教師に連絡を取った。
校外の喫茶店で落ち合うと、彼はどこか安堵した表情を浮かべた。
「……やはり、あなたも見たんですね。写真の“ズレ”を」
「ええ。現実では灰色だった給食が、写真の中では色を取り戻していた。でも、僕が実際に“入って”確かめた世界は、やはり無彩色のままだった」
「つまり、写真のほうが嘘をついている。加工されているわけでもないのに、写ったものが“異常を隠す”」
僕はスマートフォンの画面を見せた。
スプーンに映り込んだ、黒い影のような異物。
子どもたちの笑顔の奥に、微かに覗く“何か”。
「これが、あの学校に巣くってる“何か”じゃないかと思うんです。人の知覚に作用して、現実そのものを書き換えるような」
「……“色”を食べているのかもしれませんね」
「色?」
「給食の色だけじゃない。たぶん、“感覚”そのものを——たとえば、違和感とか、疑問とか、“これはおかしい”という感情さえも」
猿渡の目が陰る。
「私も最初は、違和感を覚えていました。けれど、日を追うごとに慣れていってしまった。
でも……一度だけ、見たんです。あの影が、子どもたちの“目の奥”に潜むのを」
僕の背筋に冷たいものが走る。
「それってつまり……」
「“それ”はもう、あの学校の一部なんですよ。
まるで、教育の過程に組み込まれた“寄生虫”のように」
◇
僕は再び、あの給食の写真に意識を集中させた。
視界が滲み、教室の空気が肌に貼りつく感触が戻ってくる。
今度はカメラを構えたまま写真の中に入った。
昼の教室。静かな食器の音。無邪気な笑い声。
そして、子どもたちの背後に、微かに滲む“黒”。
その存在は、はっきりとは見えない。
輪郭は曖昧で、形もなく、煙のようで、液体のようで、ただ——
空気に紛れ、彼らの「思考」に寄り添っていた。
僕はシャッターを切る。
何度も、何度も。
その“黒”が、ほんのわずかに振り返った気がした。
——音が、消えた。
教室中の声が、食器の音が、すべて止まる。
子どもたちが一斉にこちらを見た。
灰色の瞳。灰色の表情。
そして、口々に囁いた。
「きれいな色なんて、いらないよ」
「ぜんぶ同じなら、安心だもん」
「まちがえないで、すむから」
——それは“彼らの声”ではなかった。
彼らの中にいる“何か”の声だった。
僕は咄嗟にポケットの中のフィルムカメラを取り出し、残された一枚に光を焼きつけた。
パシャ。
世界が、ざらつくように崩れ、僕は写真の外へと引き戻された。
◇
フィルムカメラで撮った最後の一枚を、現像所に持ち込んだ。
デジタルではどうしても写らなかった“あれ”を、銀塩の粒子に焼きつけるために。
数日後、現像を受け取った僕は、駅前のベンチに腰を下ろして封を開いた。
写真には、教室の風景があった。
長机に並ぶ灰色のトレーと、給食を口に運ぶ子どもたち。
そして、その中央に。
あきらかに“異質な何か”が、写っていた。
黒い墨を垂らしたような、粘つく影。
誰かの背中にぴたりと貼りつき、首の後ろに細い線のようなものを差し込んでいた。
まるで、脳に触れて何かを操作しているように——
だが、驚いたのはそこではなかった。
写真の隅。窓際の一人の子どものトレーに、
ほんのわずかだが“赤いミニトマト”が映っていた。
色を持つ者が、たった一人だけ。
それが希望なのか、あるいは次に喰われる順番なのかは、わからない。
僕はそっと封筒を閉じた。
この町ではまだ、給食が無事に提供され続けている。
誰も異常には気づかないまま。
色のない世界に、違和感を覚えた者だけが、影に気づくのだ。
【終】




