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「笑わないピエロ」

芸人は笑われてなんぼ、などと言う。

 では、観客に嘲笑され続けた芸人は、どこに着地すればよかったのだろう。


 ある地方都市の劇場に、“笑わないピエロ”の絵が飾られている。

 口角の落ちた、顔に似合わぬ厚化粧のピエロが、真っ直ぐにこちらを見ているのだという。

 その絵の前に立った者は、なぜか「笑いが止まらなくなる」らしい。


 奇妙なのはその後だ。

 笑った人間が、後に自ら命を絶つことがあるという。

 しかも、その全員が「自分が馬鹿にされた気がした」と言い残して。


 僕はこの噂を、古い寄席芸人の資料を漁っている時に耳にした。

 関係があるかは不明だが、この劇場ではかつて一人の喜劇役者がピエロの扮装で舞台に立っていたらしい。

 その男の名前は、資料のどこにも載っていなかった。


 これは“誰か”に笑われる話ではない。

 “笑い”に取り憑かれた人間の話だ。



その劇場は、商店街の裏手にひっそりと建っていた。

 かつて寄席や芝居が盛んだった頃の名残で、今は地域住民向けの小さな演芸会やアマチュア劇団の公演が主な使用目的らしい。


 受付の年配の女性は、僕の名刺を見ると「また来たのか」と言いたげな表情を浮かべた。

 最近この場所を訪れる取材者が増えているらしい。噂を聞きつけた心霊マニアや動画配信者の類だ。


 「……写真だけなら、どうぞ。ただし、あの絵には触れないでくださいね」

 そう言って渡された入場証を手に、僕は古びた廊下を進んだ。


 絵は、ロビーの突き当たり、照明が一段暗い壁際に掛けられていた。


 真っ白なピエロ。だが笑っていない。

 口元はむしろ、酷く悲しそうに歪んでいた。


 眉は極端に吊り上がり、赤い鼻だけが場違いな滑稽さを添えている。

 目が合った瞬間、こちらの内側を覗き込まれているような気がした。


 奇妙な絵だった。

 だが、いわゆる“心霊写真”のような即物的な気味悪さはなかった。

 むしろ、笑いとは何かを問いかけてくるような――そんな違和感。


 「この絵、モデルは誰か分かってるんですか?」

 後ろから声をかけると、案内係の女性は少し首をすくめて言った。


 「さあ……あの絵はね、最初からあそこにあったんですよ。劇場ができた時にはもう」

 「最初から?」

 「ええ。作者も不明です。でも、不思議なことに……お客さんが必ず笑うんですよ、あの前で。大して面白いことも言ってないのに」


 その時、ちょうどロビーに入ってきた中年の男性が、絵の前で立ち止まり、ふっと笑った。

 自然な笑みだったが――どこか、悲しみが滲んでいた。




地元紙のアーカイブを漁ると、劇場の観客にまつわる“偶然とは言い難い一致”がいくつか見つかった。


 10年前に突然失踪した男性。

 5年前に自宅で自殺した若い女性。

 いずれも、最後に知人と会ったのが「地域劇場に行った日の帰り道」だったという。


 調べれば調べるほど、絵の前で笑った人間が、なぜかその後「笑えなくなっていく」ような記録がぽつぽつと出てくる。

 不幸になるわけではない。ただ、妙に感情が希薄になったり、笑うことを避けるようになったり――。


 「私の息子も、あの劇場に行ったあとから、少し変わった気がします」

 そう語ったのは、五年前にそこで舞台に立った青年の母親だった。


 「演技に情熱を燃やしていたのに、急に辞めてしまって……笑わなくなったんです。いつも無表情で、何を見ても感想を言わなくて……」


 記録ではその青年も、例のピエロの絵を舞台裏から何度も見ていたらしい。


 僕の中に、漠然とした仮説が浮かんだ。


 ――あのピエロは、人の「笑い」を食っているのではないか?


 だとすれば、絵を見て笑った者の“笑い”は、もう戻らない。

 まるで、微笑を引き換えに、何かを支払ってしまったかのように。


 けれど、そんなバカげた考えに現実味を与える“事実”もまた、あった。


 それは、劇場関係者の一人がぽつりと漏らした一言だった。


 「……あの絵の前で、誰かが泣いたことって、一度もないんですよ。不思議とね」



 僕はその劇場を訪れた。


 平日の昼間だったが、観客席にはまばらに人がいた。どこか所在なげに椅子に沈み、笑うでもなく、寝るでもなく、ただ舞台を眺めている。


 関係者に事情を話すと、あっさり裏手へ通された。案内された控え室の一角に、件の絵は立てかけられていた。

 思っていたよりも大きく、横幅は一メートルを優に超えている。

 キャンバスの上では、赤い鼻をつけたピエロが、両手を広げてこちらを見ていた。


 奇妙なことに、僕はこの絵を見ても、笑いそうになるどころか、むしろどこか気が滅入った。

 滑稽なはずのメイクが、どこか泣いているようにも見える。いや、笑っているのだ。ただ、その笑いに“感情”がない。


 僕は静かにスマホのカメラを起動し、シャッターを切る。

 そして、その写真を見つめ、瞼を閉じる。


 世界は反転した。



 目を開けると、そこは白と灰の世界だった。

 写真の中。

 鮮やかさを失った劇場の一角。


 昔の映画のようなざらつきと白飛びが目立つ不完全な世界。時折こういったことがあるがいまだにこの現象に共通点は見つけられていない。


 周囲には誰もいない。音もない。ただ、正面にあのピエロが立っていた。

 今度は絵ではない。三次元の存在として、そこに“実在”していた。


 「ようこそ」と、彼が口を開いた。


 ……声は、聞こえなかった。けれど、意味だけが脳に直接流れ込んでくる。

 これは会話ではない。“何か”との接触だった。


 僕は一歩踏み出した。ピエロは微動だにせず、ただこちらを見ていた。


 「君は、人の笑いを喰っているのか?」と訊く。


 ピエロはかすかに首を振った。違うらしい。


 その代わり、口の形が、こう動いた。


 「人が、自分から差し出しているのです」


 そう言うと、ピエロは両手を広げ、僕に差し出してきた。


 ――“君も、どうですか”と言わんばかりに。



目を開けると、僕は控え室の中に立っていた。スマホの画面には、ただの絵が映っている。


 ……おそらく、絵の中にいた時間は十数秒程度だったのだろう。

 劇場スタッフも、何か異変があった様子はない。


 僕は軽く頭を振って感覚を整えた。


 確かにあのピエロは、僕に語りかけてきた。

 言葉ではなく、脳に直接流れ込むような感覚で――


 「人が、自分から差し出している」と言った。


 つまり、あの絵に引き込まれていくのは、観客自身の意思だということだろうか。

 笑うために劇場に来た人々が、無自覚に“自分の笑い”をピエロに与えている。

 笑えば笑うほど、彼の顔は歪み、でも決して“感情”は浮かばない。


 おそらく、あれは“笑い”を模倣しているだけなのだ。

 取り込んだ人間の“笑顔”をトレースし、表情をなぞっているに過ぎない。

 本来持っていた何か――心とか、喜びとか、そういうものを、失ったまま。


 「それでも、舞台に立ち続けることが彼の役割なんです」


 先ほどのスタッフが言った言葉を思い出す。


 役割。演目。仮面。


 それが剥がれ落ちたとき、彼は、ただの「笑わないピエロ」になる。


 ……というより、

 最初から、笑ってなどいなかったのかもしれない。


 劇場を出ると、夕焼けが街を赤く染めていた。

 信号待ちをする人たちは誰も、ピエロのような顔はしていなかった。

 ただ、無言で歩き、通勤電車へ吸い込まれていく。


 ふと、僕は彼らの中に、

 あの絵と似た“無表情の笑顔”を重ねてしまい、慌てて首を振った。


 “笑うこと”と“笑顔でいること”は、別物だ。

 その差に気づけなくなったら、人間も、ピエロと同じだ。


 そう思いながら、僕はスマホのフォルダから、さっき撮った絵の写真を削除した。


【終】


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