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「藁の女」

藁というのは、不思議な素材だ。

土に還るくせに、火にも油にもよく燃える。

だから人はそれを、「神を入れる器」に使ってきた。


正月飾り、藁人形、しめ縄、そして墓の敷藁——。

どれも「人の形に似すぎてはいけない」と、昔の人は言ったらしい。


顔をつけるな。手を伸ばすな。腰をくびれさせるな。

それは器ではなく、“宿り”になるからだ。


だから、こういう言い伝えが生まれたのも当然なのかもしれない。


——稲を刈った田に、ひとりでに女の姿の藁束が現れたら、

 それは「誰かの身代わり」で、

 次に燃やされるのは、きっとあなただ。



その依頼は、月刊誌の編集者から回ってきたものだった。

 地方に残る伝承や風習を特集するシリーズの一環で、

 「秋にだけ現れる藁の女」という不可解な民話の調査だった。


「これ、正直言うと地元でも有名な話ってわけじゃないんですけど……取材拒否が多くて、誰も踏み込んでなくて」


 編集者は苦笑まじりに資料を渡してくる。

 添えられた数枚のコピーには、古い活字でこんな一節があった。


《稲を刈りおわった夜、田に女の形の藁が立っていたら、その年は誰かが消える》

《藁の女を見た子は、必ず“声を聞く”という》

《声の内容は皆違う。けれど、皆、悲しそうだったと答える》


 話としては弱い。明確な事件も証言もない。

 けれど、嫌なひっかかりがあった。


 ——なぜ全員、内容は違うのに、“悲しそうだった”とはっきり断言できるのか?


 調査対象となるのは、長野県の小さな農村・真楡村まにれむら

 盆地の奥、標高が高く、夜の冷え込みが異常に強いという。

 外から来た者を好まない空気もあるが、幸い役場の職員が紹介してくれた民宿が1軒だけあるらしい。


 僕は荷物をまとめ、数日ぶんの防寒具と録音機材を持って、村へ向かった。


 到着は午後四時。すでに日が傾き、空気は澄んでいて、妙に静かだった。

 駅もバスもないため、最寄りの停留所から一時間ほど歩いてようやく集落の入口に着いた。


 そこで、最初の違和感を覚える。


 村の看板がない。


 観光地でもない限り、こういった集落には大抵「ようこそ○○村へ」みたいな看板がある。

 だが、真楡村にはそれがなかった。

 代わりに、電柱の根元に小さな木札が打ち付けられていた。


「たばこ ライター 持ち込み禁止」


 農村で火器厳禁なのは理解できる。

 だがその下に、赤い墨で、こう書き足されていた。


「燃すのは女だけでええ。」


 洒落にならない冗談だと思った。

 けれどこの村では、どうやらそれが——冗談ではなかったらしい。



村の中心には、時計が止まったような静けさがあった。

 民宿に荷物を置き、軽く挨拶を済ませてから、僕はさっそく稲刈り後の田を見に行くことにした。


 案内も地図もないが、秋の農村は素直だ。

 集落の裏手に広がる段々畑の先、黄金色だったであろう稲穂の名残が一面に広がっている。


 刈り取られたあとの田は、まるで“誰かが抜け殻を脱いでいった”ように見えた。

 そこに、不自然なものが立っていた。


 ——藁でできた、女のかたち。


 膝丈ほどの大きさ。

 胴体は太く、腰のあたりだけがわずかにくびれ、胸のあたりは丸みを帯びていた。

 頭部は無造作に束ねられており、藁が風に揺れて、まるで長い髪のように見える。


 誰かが作ったのだろうか。

 しかし、細部に手が入りすぎていて、農作業のついでにこしらえた人形とは思えなかった。

 それに、近づいてみて初めてわかったのだが——


 手足がない。


 藁人形なのに、四肢が存在しないのだ。

 あるのは胴体、頭部、そしてくびれだけ。

 なのに、それでもなお“女の姿”に見える。


 僕はスマートフォンを取り出し、写真を撮ろうとした。

 ——が、シャッターを押す寸前、風が吹いた。


 バサッ。


 頭の藁がふわりと揺れ、その“顔のない顔”が、こちらに向けて傾いたように見えた。


 一瞬、僕は硬直する。


 ……風のせいだ。そうに決まっている。

 だがその夜、宿の主人に何気なくその人形のことを尋ねると、彼は眉間に深くしわを寄せ、目をそらした。


「……ああ、もう出てたか」


「毎年、出るんですか?」


「……いや。今年は早いなと思って。……たぶん、誰か見たんだろうな」


「何を?」


「——“火に入れたくない顔”を、さ」




 翌朝、僕は村の公民館を訪れた。

 資料室には地元の広報誌や行事記録が年代順に保管されているという。

 案内してくれたのは、若い女性の職員だった。名前は石塚さん。


「“藁の女”の話を調べたいんですけど」


 その一言で、彼女の表情が微かにこわばるのがわかった。

 曖昧な笑顔のまま、彼女はこう答えた。


「ええ……その名前で呼ぶ人、もうあまりいません。

 “秋火祭しゅうびさい”の準備のこと、ですか?」


 秋火祭。

 毎年、十一月の終わりに行われる村の伝統行事。

 内容は「収穫を感謝して藁束を焼く」というものだが、資料に残っている記述はどれも曖昧だった。

 “誰が藁を束ねるのか”も、“どの田から持ってくるのか”も書かれていない。


 石塚さんに尋ねると、少し間を置いて言った。


「……子どもの頃、“見ちゃダメ”って言われてました。藁を持ってくるとこ」


「誰が作ってるか、知らないんですか?」


「ええ。知らない方がいいって、そう言われて育ちましたから」


 調べを進めるうちに、僕は村の古い行事記録に不可解なパターンを見つけた。


 二十年ごとに、祭りの写真が欠けている。


 正確には、当時の写真が「残っていない」年があるのだ。

 火祭りの様子が掲載されず、文章の記録もなぜか極端に短い。

 そしてその年に共通するのが——“子どもの名前が消えている”という点だった。


 行事参加者の名簿に、あるはずの名前がぽっかり抜けている。

 翌年から、その名前は村のどの記録からも見つからなくなる。


 意図的に、最初から「いなかったこと」にされているような消え方だった。


 僕が石塚さんにそれとなく聞いてみると、彼女は沈黙したまま小さくうなずいた。


「……たぶん、誰かが“見つけちゃった”んだと思います。藁の中に……知ってる顔を」


「知ってる顔……?」


「——火に入れたくなかったんでしょうね。

 でも、火に入れなかった藁は、生きて残るから……」


 彼女の声はかすれていた。

 その目が向いていたのは、公民館の裏にある、小さな供養塔。

 祭りのたびに、誰がともなく花が供えられる場所だった。



夜の田んぼには、風の音がない。


 あれだけ昼間はざわついていた藁の葉も、空気も、まるで音を殺されたように沈黙していた。

 僕は宿を抜け出し、懐中電灯を頼りに、昨日の藁人形があった場所へ向かう。


 灯りを当てると、それはまだ、そこにいた。


 藁の女。


 昨日と違うのは、背が伸びていたことだ。

 膝丈だったはずの人形は、もう腰の高さを超えている。

 胸のふくらみも明らかに強調され、束ねられた頭の藁は、まるで黒髪のように地面まで垂れていた。


 誰かが手を加えたのか?

 だが、田には踏み跡一つない。


 僕は恐る恐る近づき、スマホを取り出して録音を開始する。


 そのとき——


 音がした。


 風でも、鳥でもない。

 ——声だった。


 はじめはかすれた囁き。

 耳を近づけると、藁の間から、確かに音が漏れている。


「……かえして……」

「……ちがうの……あたしじゃないのに……」


 女の声だった。

 年齢は若い。抑揚は弱く、苦しげで、どこか“水に沈んだ人間”のような響きがあった。


 録音していたスマホが突然フリーズする。

 画面が真っ黒になり、「ファイル破損」と表示された。

 その瞬間、藁の女の頭部が、かすかに傾いた。


 ——こっちを見ている。


 そう思った瞬間、急に風が吹いた。

 田の奥から、パチパチ……と乾いた音が聞こえる。


 振り向くと、村の広場——火祭りの会場で、準備された巨大な焚き火台に火が灯されていた。


 誰もいないはずなのに。

 時間はまだ深夜一時。

 祭りは明後日だと聞いていた。


 燃え上がる炎に照らされて、藁の女の影が長く伸びる。


 その“影”には、明らかに“腕”があった。

 ——人形には存在しなかったはずの“手”が、影にだけ現れていたのだ。


 僕は急いでその場を離れた。


 もうこの怪異は、記録を越えて動き始めている。



 翌朝、僕は村の広場を訪れた。

 火祭りの準備が着々と進んでいた。

 昨夜見た“早すぎる点火”の痕跡は、跡形もなく消えている。


 ——いや、消されたのか。


 焚き火台の中央には、今年の“人形”が据えられていた。

 それは、昨夜見た藁の女と同じ背丈、同じ形をしていた。

 むしろ、より精巧に、より“女らしく”なっていた。


 僕が写真を撮ろうとカメラを構えた瞬間、村の男たちが視線をこちらに向けた。

 その空気は、拒絶ではなかった。

 むしろ——祈願に近かった。


「……見ましたね。藁の中に、誰がいたか」


 背後から声がした。

 石塚さんだった。


「この村では、昔から“燃やすのは女”って言うでしょう?

 あれ、差別でも風習でもないんです。

 “誰かの中に残ったもの”を、火に送るための形なんです」


「中に残った……?」


「忘れられなかった子。帰ってこなかった子。火に入れられなかった子。

 そういうものが、藁の中で人の形になるんです」


 だから作るのではなく、“現れる”のだと。

 だから誰も手を加えていないのに、藁の女は育つのだと。


 石塚さんが焚き火台を見つめながら、ぽつりと続けた。


「……今年のは、顔が、はっきりしてたそうです。

 昨日亡くなった、村の子の顔だったって」


 言い終えて、彼女は背を向けた。


 僕はポケットから、昨夜フリーズしたスマホを取り出す。

 電源を入れると、保存されたはずの録音データは消えていた。

 だが、ギャラリーに一枚だけ、見覚えのない写真が残っていた。


 藁の女。

 はっきりと、人間の顔を持った藁の女が、こちらを見ている写真。

 ——僕が撮ったはずのない角度から。


 僕はその場で写真を削除し、スマホを地面に落とした。


 そして静かに、それを焚き火台の炎にくべた。


 炎が一気に高くなる。

 煙と灰の中で、かすかに女の声が聞こえた気がした。


「……ありがとう……」



記録とは、焼け残る灰のようなものだ。

全てを写すことはできない。

けれど、それが誰かの“かたち”だったことだけは、たぶん、記憶に残る。


村を去るバスの窓から、僕は見た。

稲を刈り終えた田の片隅に、またひとつ——まだ小さな藁の女の影が立っていた。


今度は、どんな顔が入るのだろうか。

それとも——もう、誰のものでもないのかもしれない。


【終】

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