「にせものの月」
月がふたつ、夜空に浮かぶことはない。
そう信じていたのは、僕が“日常”というものをまだ信じていた頃だ。
いや、月はひとつしかなかった。
確かにそのはずだった。
けれど、あの村に取材に向かった夜、
空に浮かんでいたのは確かに、二つの月だった。
一つは、いつもと変わらない月。
もう一つは、見てはいけない方の月だった。
そしてそれ以来、僕の日常は、ほんの少しだけ“ズレた”。
時計の針が、微かに音を立てて逆に回る瞬間。
鏡の中で、自分がまばたきをしていなかった違和感。
駅で待っているはずの電車が、時間ぴったりに来るようになったこと。
それら全部が、“もう片方の月”のせいだとしたら——
あなたは、信じるだろうか。
◇
その村に到着したのは、日が沈む少し前だった。
山に囲まれた谷底のような地形で、地図には名前さえ載っていない。
元は炭焼きの集落だったという話だが、いまは十数世帯が点在するだけの小さな集落だ。
案内してくれたのは、麓の役場に勤める青年だった。
彼は「変な話ですけど」と何度も前置きをしてから、こう言った。
「ここの人たち、月が二つあるって言うんですよ。
でも、どっちが本物かは誰にもわからないらしくて……。
なにより奇妙なのは——誰も、“見たことはない”って言うんです」
「見てないのに、あると?」
「ええ。毎月一度、村の空に“月がふたつ昇る夜”があるそうです。
でも、そのことを村人に訊くと、『見ていないけど、確かにあった』って、口を揃えて答えるんです」
夜になると村の人たちは、外に出ない。
カーテンを閉め、電気を消し、月を見ようとしない。
まるでそれは“祟るもの”であるかのように。
僕はこの話をどこかで聞いたような気がしていた。
——いや、“聞いた”のではない。
“見た”のだ。どこかで。夢の中のような風景の中で。
その夜、僕は村の空を見上げることになる。
そして確かに、そこには——
◇
月の出を待って、僕は一人、村の外れに立っていた。
あたりはすっかり静まり返り、遠くで鹿の鳴く声がかすかに聞こえる。
空には一つ、いつもの月が浮かんでいた。
輪郭ははっきりしており、淡い光を村に落としている。
だが、その隣に——もう一つ。
それは、光の具合か、ほんのわずかに“薄い”。
そう感じたのは錯覚かもしれないが、確かに、そこにあった。
もうひとつの月。
まるで本物の“模写”のように、そっくりな姿で。
僕はシャッターを切った。
しかし、スマホの画面には、月はひとつしか写っていなかった。
不思議には思ったが、奇妙なのはそれだけではない。
ふと視線を戻すと、どちらが“本物”の月だったか、わからなくなっていた。
右だったか、左だったか。
先ほどまで「本物」に思えていたほうが、急に“違和感のある方”に変わっていく。
そのとき、背後で枝の折れる音がした。振り向くと、誰もいない。
……いや、「誰もいない」はずなのに、「誰かがいた」感触だけが残っていた。
僕はその夜を、取材の中でもっとも“静かだった夜”と記憶している。
音も、風も、虫の声さえも——すべてが“月の影に吸い込まれた”ように、消えていた。
◇
翌朝、村はいつも通りの顔をしていた。
老人たちは縁側で将棋を指し、子供たちは虫取り網を持って駆け回っている。
昨日までと変わらぬ、素朴で穏やかな夏の風景。
違和感は、ほんの些細なところにあった。
たとえば、村の入り口にある鳥居。
昨日まで、確かに白かったはずの柱が、今朝見ると朱色に塗られている。
「気のせいか?」
そう思ったが、念のためスマホに保存しておいた写真を確認した。
そこには、白い鳥居が写っていた。
鳥居だけではない。
取材ノートに書いておいた祭りの開催日が「七月十四日」になっていたのに、村の掲示板には「七月十七日」と記されていた。
地元の人に尋ねると、口を揃えて「十四日なんて昔から一度もやったことない」と言う。
何かがおかしい。
だが、すべてが「わずかにズレている」だけで、決定的な異常とは言い切れない。
——あの「にせものの月」を見てから、世界が微妙に軋み始めた気がする。
その夜、宿に戻った僕は、ノートを見直していて一つの事実に気づいた。
自分の筆跡が、昨日と少し違っている。
文字のクセ、傾き、書き順。すべてが“僕”であって、“僕ではない”。
僕は恐る恐る鏡を見た。
そこには、確かに僕がいた。だが——
目の奥に、見覚えのない“月の光”が宿っていた。
◇
翌日、僕は村の資料館へ向かった。
この村では「月が二つある夜」が昔から言い伝えられていたらしく、何か手がかりがあるかもしれないと思ったからだ。
資料館は古びた木造の建物で、ひんやりとした空気が漂っていた。
館内の片隅に、「月見信仰」という小さな展示があった。
そこには、明治時代の写真が一枚だけ飾られていた。
数人の村人たちが、山の上で空を見上げている写真。
写真の裏には手書きでこう記されていた。
> 「右の月を見るべからず」
「右の月?」
そう思い、ふと写真を拡大してみると、空にぼんやりとしたもう一つの球体が写っていた。
不自然に光が滲んでいて、太陽とも満月ともつかない輪郭。
「……これか」
受付にいた女性に尋ねると、彼女は小声で言った。
「それ、見たことあります? 右の月……」
僕が小さく頷くと、彼女は一瞬、目を泳がせたあと——
「お気をつけて」とだけ言い、口をつぐんだ。
さらに話を聞こうとすると、別の来館者の老婆が、ぽつりと話しかけてきた。
「右の月を見た人はね……、だんだん、左にズレていくんだよ。全部が。記憶も、言葉も、人との距離も」
「左に……?」
「そいで最後には、自分が“どっちの月の下にいたか”わからなくなるの。
でもね、大丈夫。あんたはまだ“影が地面にある”。だから……まだ、間に合うかもしれない」
老婆はそう言い残して、館の奥へと消えた。
彼女の靴音は、まるで“こちらの世界”から離れていくように響いていた。
◇
資料館を出たあと、僕は村の細道を歩いていた。
山の斜面を背に、陽が差し込む一本道。
ふと気づくと、足元に伸びた自分の影が、妙に薄い。
「……?」
晴れているのに、影がぼんやりしている。
しかも、僕の身体の真後ろに影があるのだ。
今の太陽の位置からすれば、影はやや右前に出ているはずなのに。
気になって、あたりを見回した。
すると、村の石垣に座っていた子供が、こちらを見ていた。
「おじさんもズレてるね」
「……何が?」
「影が、月の方にひっぱられてる。僕のお母さんもそうなってたよ。
でもそのあと、もう、声が届かなくなった」
その子はそれきり話さず、黙って指を指した。
空を見上げると、青空のなかに白くにじむ月。
——だが、そのすぐ隣に、もう一つ、薄ぼんやりとした球体が浮かんでいた。
「……見えてしまった、か」
目を逸らそうとしたが、身体がわずかに抵抗した。
まるで、二つ目の月が、僕の視線をつかんで離さないかのようだった。
胸の奥に、わずかな異物感が残った。
何かが、確実に“すり替わっている”。
言葉では説明できない、けれど——
このままこの村にいては、いけないと直感が告げていた。
◇
宿に戻った僕は、荷物をまとめ、村を出ることにした。
ここに長居すべきではない。
そう思ったからだ。
宿の女将に別れを告げ、路線バスの時刻表を確認する。
最寄りのバス停は、山を少し下った先にある。
僕は軽く会釈し、振り返らずに歩き出した。
しかし、しばらく歩いていると——
見覚えのある家が、また目の前に現れた。
(……さっき通ったはずじゃなかったか?)
そう思って道を戻る。だが、数分後、また同じ場所に立っている。
まるで、村そのものが輪の中にあるかのように。
いや、それよりも、僕自身がズレた座標に取り残されている感覚。
そこでようやく気づいた。
太陽が、沈んでいない。
時計を見る。15時半。
だが、影はほとんど伸びておらず、空の明るさは一向に変わらない。
まるで時間が、ある一点で止まってしまったかのように。
「……逃がしてくれない、か」
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、写真を一枚、撮影した。
路地裏の、だれもいない景色。
そして——画面を指で押し込む。
写真の中へと、精神を沈ませる。
光が引き、色が滲む。
肌に触れる空気の密度が変わり、重力の角度さえも変化したような錯覚を覚える。
◇
僕には「写真の中に入る」という特異な能力が備わっていた。どんなメリットがあるのかと他人から聞かれたらきっと僕は答えに困ってしまうだろう。
しかし今回のような特異な現象と出会した場合にはこの能力は身を守る為の手段の一つになっていた。
気がつくと、僕は例の路地裏に立っていた。
——写真の中の世界。
写真には現実には入り込めない真実が映り込む。
現実とは微妙に異なる。それは今回も例外ではない。
建物の輪郭があいまいで、遠くの風景が常に揺らいでいる。
まるで、見えない誰かの記憶のなかに入り込んだような不確かさ。
僕は辺りを歩き、写真には写っていなかった道へと足を進めた。
そこには、石垣の上にぽつんと座る老人がいた。
顔は見えない。輪郭だけが、不自然にぼやけている。
老人は、ぽつりと呟いた。
「ほんとうの月を見たのは、誰だったかねえ……」
僕はその言葉に応じなかった。
けれど、老人は続ける。
「おまえさんが見たのは、“にせもの”ではなく、“もうひとつ”だったんだよ。
本物と呼ぶかどうかは、人の勝手だがね」
そのとき、空を見上げた。
そこには、黒い月が浮かんでいた。
輪郭だけが光っており、その内側は、真っ暗だった。
穴のようであり、眼のようでもある。
——僕は、見てはいけないものを、見てしまったのだと悟った。
その瞬間、視界がぐにゃりとねじれ、
写真の世界が、音もなく崩れ落ちていった。
◇
目が覚めたのは、事務所だった。年季が入った黒い革の見慣れたソファの上で僕は意識を取り戻した。
昨夜、帰宅途中で倒れたのか、それとも写真の中での出来事が現実だったのか——どちらにせよ、記憶は途切れていた。
だが、些細な違和感は、すぐに僕を蝕んでいった。
まず、壁にかけたカレンダーの日付が「一日」進んでいた。
睡眠時間にしては長すぎる。誰かが勝手にめくったにしても、癖のある折り癖が、前日のまま残っていた。
さらに奇妙だったのは、スマホに届いたメールの時刻。
すべてが「午前29時」や「午後13時81分」など、ありえない表記になっていた。
時計を見れば、長針と短針が同じ方向を向いて動いている。
正確な時間は、もはやどこにも存在しないのかもしれない。
僕は、試しにスマホであの路地裏の写真をもう一度開いた。
だが、そこには何も写っていなかった。
白い——完全に焼き切られたような、真っ白な画面。
そうして、気づいた。
この世界には、月がない。
空を見上げても、そこにはなにも浮かんでいないのだ。
あの黒い月を見たせいなのか。
それとも、あれが真実で、この世界がにせものなのか。
思考を巡らせるほどに、現実の輪郭があいまいになっていく。
◇
次に異変に気づいたのは、郵便受けを開けたときだった。
差出人不明の封筒が一通、入っていた。無地の茶封筒で、表面には僕の名前と、なぜか旧字体で書かれた住所。投函された形跡もなく、切手も貼られていない。
中には、数枚の写真と一枚のメモ用紙が入っていた。
写真には、空に浮かぶ「二つの月」が写っている。
どれも明らかに最近の撮影だ。建物や標識から場所を特定できるが、そのどれも僕が昨日歩いた場所だ。
ただし、僕の記憶には「月はひとつ」だった。
メモにはこう書かれていた。
「こちらの世界では、月は常に二つあります。
そちらの世界はどちらですか?」
筆跡は震えており、文字の間隔も不規則だった。
誰かが怯えながら書いたように見える。あるいは、正気を失っていたのかもしれない。
僕は、送られてきた写真の一枚を手に取った。
空に浮かぶ月。ひとつはおぼろげな銀色、もうひとつは完全な黒。まるで影のように、空間の裂け目のように。
そして、封筒の底には、もう一枚だけ——
僕が、二つの月を見上げている写真があった。
自分では決して撮れない角度だ。
この世界には、僕を“見ている誰か”がいる。
◇
その夜、僕は部屋の明かりを消し、窓際の椅子に腰かけた。
月は、ふたつとも空にいた。
一つは、誰もが見る“正しい”月。
もう一つは、僕が見ているときだけ存在するような、不確かな黒い影の月。
僕はそれを凝視していた。
そのとき、後ろから声がした。
「……見えてしまったんですね」
背筋が凍る。声は、確かに僕の部屋の中から聞こえた。
振り向くと、そこにひとりの人物が立っていた。
白衣のようなものを着た男。年齢不詳。目が異様に大きく、焦点が合っていない。
だがその瞳は、僕の中を覗き込むように動かない。
「“観測者”は、月の数を決めてしまうんです。見た瞬間、世界が“その数”で固定される。だから、あなたが二つを見てしまった今——」
男は言葉を切り、笑った。
「——世界のほうが、あなたに合わせに来る」
僕は言葉を失った。
「じゃあ、他の人は……」
「気づかないでしょう。自分で“数”を決めてしまうまで、誰もその異常に触れられない。
ですが、あなたはもう、“選ばれてしまった”。」
月は、もう一度、空でズレる。
まるで、僕を中心に世界が再構成されているような感覚。
目眩とともに、窓の外の風景がほんのわずかに違って見えた。
男は続けた。
「次に来るのは、“月が三つある夜”です」
◇
翌朝、目を覚ましたとき、まず違和感を覚えたのは光だった。
カーテン越しに差し込む朝日が、妙に赤みがかっている。
まるで夕方のような色合いだ。だが時計は、午前六時を示している。
僕は窓を開けて、外を見た。
通学中の小学生たちが、僕の知らない制服を着て歩いていた。
近所のコンビニが、見たことのないロゴに変わっている。
看板には「マルマート」と書かれていた。そんな店、昨日までなかった。
僕はスマホを手に取る。操作感はいつも通り……だが、日付が妙だ。
二日先の曜日になっている。
ニュースアプリを開いても、話題になっている出来事がどれも知らないものばかり。
それどころか、アイドルグループの名前や総理大臣の顔までもが見覚えのないものにすり替わっていた。
「……これが、“合わせにきた”ってことか」
あの男の言葉が、耳に残っている。
僕は、自分だけがこの世界に“違和感”を持っていることに気づいた。
すべてが少しずつズレている。月が一つズレれば、世界も一つズレるのか。
ベランダに出て、空を見上げた。
——そこには、一つの月もなかった。
◇
違和感を抱えながら僕は再びあの村に行くことにした。
もう一度だけ、向かうのは例の高台。
その日のうちに僕はその場所に足を運んだ。
相変わらずの草むらと、朽ちかけたベンチ。誰かが捨てたペットボトルが転がっている。
僕はそこに座り、空を見上げた。
昼の月が、白く滲んでいた。たしかに“ひとつ”だった。
だが、僕の頭の奥ではもう一つの月の輪郭が、消えずに残っている。
——誰も否定できない月。
あれは、ただの幻だったのだろうか。あるいは、“世界の調整役”みたいなものだったのか。
僕がひとつ確信しているのは、「何もなかったことになっている」わけではない、ということだ。
駅へ向かう途中、子供が空を指差して母親に尋ねていた。
「ねえ、昨日の夜、月がふたつあったよね?」
母親は笑って、軽く否定した。
「そんなわけないでしょ。一つに決まってるじゃない」
子供は不満げな顔をして、空を振り返った。
その瞳の奥に、“もうひとつの月”が映っているように見えたのは、僕の気のせいだったかもしれない。
——いや、たぶん気のせいじゃない。
この世界はきっと、時折、自分自身を上書きして調整している。
うまくいかなかった箇所は切り取って、見なかったことにして。
そして僕は、偶然そこにいた。
たまたま、月が二つある夜に。
たまたま、ズレたほうの月を見た——
それだけのことだ。
帰りの電車で眠りかけた頃、スマホの通知音が鳴った。
画面には、こう表示されていた。
「今夜は、月がふたつ」
ああ、またか。
僕は笑って通知を消し、窓の外を眺めた。
夕暮れの空に、月が昇りかけている。
それは、やけに静かな、“たったひとつの月”だった。
【終】