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「植物図鑑」

植物の効能のおよそ80%は、いまだに解明されていないらしい。


食べられるのか、有毒なのか。治すのか、壊すのか。

人間は、何千年も植物に頼って生きてきたくせに、結局その大半を「よくわからないもの」として放置している。


だからなのかもしれない。

この世界から、消えた植物の数を正確に言える者など、誰ひとりいない。


絶滅とは、死ではない。

忘れられることだ。


——そして忘れられた花は、図鑑の中で名前だけを残して咲き続ける。



その古書店は、地図にもネットにも載っていなかった。

 駅前の喧騒から二本ほど外れた路地の奥、外壁に蔦の這う二階建ての家屋。

 看板は出ていない。だが、扉の前に置かれた木箱の中に無造作に積まれた本が、そこが営業中であることを教えていた。


「いらっしゃい。……ちょうど、見てほしい本があるんです」


 中に入ると、薄暗い空間の奥から、痩せた店主が顔を出した。

 初対面のはずだが、彼は僕の名前を知っていた。


 差し出されたのは、一冊の図鑑だった。

 分厚くて、重い。表紙は皮革のような素材で、タイトルの文字はすっかりかすれている。


「うちに持ち込まれた遺品でね。植物関係の本だってことしか分からないけど……。

 “この本は渡す相手を選ぶ”とか、そんなふうなことを言ってたらしいですよ、亡くなる前に」


 そう言って、店主は肩をすくめる。


 僕はページをめくる。

 中には、緻密なスケッチと、植物の和名・学名・開花時期などが細かく記されていた。

 だが——見覚えのある名が、一つもない。


 全てが未知の植物だった。


 あるページの余白に、鉛筆で書き込まれた文字が目に入った。


「記録されたものは、二度と咲かない」


 何気なく開いた最初の花の名前は「ソウメイシ」——青白い六弁の花の図。

 次のページには「サマエラ」——黒い果実を持つ低木。

 どこか不穏で、幻想的な名前が続く。


 最後のページには、まだ何も描かれていなかった。

 だが、よく見ると——紙の繊維の奥からは何かが“滲みはじめている”ように感じた。



 翌日、僕は最初のページに載っていた植物「ソウメイシ」を手がかりに図鑑の記述をもとに現地へ向かった。

 場所は長野県某所。かつて高山植物の群生地として知られ、環境省の古いレポートにも名が載っている小さな山村だった。


 村の入り口にあった観光案内板。


『ソウメイシ群生地(4月中旬〜5月初旬が見頃)』


 そう書かれていた。

 ここは地元の観光資源になっていたらしい。

 図鑑に載っていたあの青白い六弁の花が、ここで咲いていた。——つい最近まで。


 だが、僕が山道を登って群生地とされる斜面に立ったとき、そこに花はなかった。

 土は踏み固められ、日当たりも悪くない。

 だが、花は一輪も咲いていない。痕跡すらない。


 まるで——はじめから存在しなかったかのように。


 ふもとのカフェで地元の老婆に話を聞くと、首をかしげながらこう言った。


「ええ、今年も咲いてたはずですよ。先月までは確かに……

 変ね、写真も撮った気がするけど……あら?」


 彼女はスマホを取り出し、アルバムをめくっていった。

 その手が止まる。


 「……ない。ここに咲いてたはずなのに」


 画面に映るのは、ぽっかり空いた草地の写真。

 構図からして、そこに何かが“ある”前提で撮られたような構えなのに、肝心の花が抜け落ちていた。


 僕は自分のスマホでも撮影してみた。

 だが、どの角度から撮っても、画面には“何も写らない”。


 後で気づいたのだが、その写真のファイルサイズは、他の画像よりも極端に小さかった。

 まるで、削られた何かが、最初から存在しなかったかのように。


 車に戻り、もう一度図鑑を開く。

 ソウメイシのページのインクが、わずかに滲んでいる気がした。


 その時、ふと気づいた。


 ——ページの隅に、小さな文字が増えている。


「2025年6月22日 最終観測:一ノ瀬ヒフミ」


 まるで、花を“見届けた者”として名前が刻まれたかのように。




都内に戻った僕は、図鑑のページをめくりながら、植物の学名や特徴を一つひとつ検索していった。

 だが、どれだけ調べても「サマエラ」も「イロハニ草」も、植物データベースに存在しない。

 記述は緻密で詳細なのに、その花は、どこにも“存在していない”。


 ネットにも、文献にも、写真にも——。


 ふと、気になって調べてみた。

 “植物図鑑を記した学者”の名前。

 カバーの裏表紙に鉛筆で書かれていた「朝比奈敬二」。

 古い植物研究雑誌の索引に、その名を見つけた。


 ——30年以上前、植物民俗学を研究していた人物。

 晩年、「記録と観測の暴力性について」という論考を発表したのを最後に、学会から姿を消していた。


「観察されることは、定義されることだ。

 定義されることは、世界に“位置づけられる”ことだ。

 ——だがそれは、同時に自由を失うということでもある。」


 その言葉の横には、あの“ソウメイシ”の簡易スケッチが残されていた。


 僕は急に怖くなった。

 やはりこの図鑑はただの記録ではない。

 ——記録されたものを“固定し”、やがて“消去する”。


 思い出す。

 ソウメイシのページに、僕の名前が書かれていたこと。

 あれは観察記録ではなく、“誰がそれを消したのか”を明記するためのラベルなのかもしれない。


 このまま他のページを開けば、また植物が一つ、世界から消えてしまうのではないか。

 いや、それだけではないのかも知れない。


 図鑑の最終ページに目をやる。

 昨日まで真っ白だったそのページに、かすかに線のようなものが浮かびはじめていた。


 花弁の輪郭。葉脈の走り。根の先端。

 それは、まだこの世界に存在しない“新しい植物”——

 **あるいは、“これから消えるもの”**の姿のように見えた。



その夜は、妙に寝つきが悪かった。

 図鑑を棚に戻し、部屋の明かりを消しても、脳の奥だけがずっと起きていた。

 まぶたの裏に、花の輪郭が焼きついている。


 いつの間にか眠ったらしい。

 気がつくと、僕は畑の中に立っていた。


 いや、“立っていた”という表現は正しくない。

 僕はそこに根を張っていた。


 土の温度、地中を走る水の流れ、風が葉を擦る音。

 どこにも視点がないのに、世界がまるごと皮膚で感じられるような感覚。

 ——これが植物の視界なのか、と直感した。


 やがて誰かがやってきた。

 白衣の男。ノートを持っている。

 こちらをじっと見て、何かを書きつけていく。


 その瞬間、僕の身体のあちこちが“定義”されていく。

 「茎は中空」「花弁は六枚」「毒性なし」

 書かれるたびに、存在が削られていく感覚。


 知られていくほど、僕は僕でなくなっていく。


 それでも男は書き続ける。

 最後に、名前を記す。


「ヒフミ草」


 それを見た瞬間、景色が崩れた。

 世界が閉じ、意識が急激に現実へと引き戻される。


 目を覚ました僕の耳には、風の音が残っていた。

 どこかの草原を、葉が擦れ合って鳴るような音。

 部屋の中の鉢植えの葉が、誰も触れていないのに揺れていた。


 そして——

 図鑑の最後のページに描かれた、見覚えのある植物のスケッチが、はっきりと完成していた。


 根の張り方。茎の伸び方。

 何より、僕の夢の中とまったく同じ姿だった。



 朝になっても、夢の感触は消えなかった。

 掌が土の中にあるような、光が皮膚から染み込んでくるような、人間ではない感覚がまだ体内に残っている。


 僕は図鑑を開いた。

 最終ページに記されたスケッチは、昨夜の夢と完全に一致していた。


 「ヒフミ草」

 属名・花期・根の形状、すべてが記されている。

 それは、まるで**僕自身が“植物として定義された記録”**だった。


 ——記録されたものは、二度と咲かない。

 そのルールが図鑑に貫かれているとすれば。

 このページに名を刻まれた僕も、また、“咲けなくなる”ということなのだろう。


 どうすればこの連鎖を止められるのか。

 ページを破る?燃やす?図鑑を処分する?

 ——だが、ページを破ろうとした指が、わずかに震えた。


 この図鑑は“記録そのもの”ではない。

 「記録という行為」そのものを内包した装置だ。

 そして今、その最後のページは、僕自身の存在を受け皿にして完成した。


 破壊すれば、何が起こるか分からない。

 ——だが、放置しておく理由も、もうどこにもなかった。


 僕は図鑑を封筒に包み、古書店へ戻った。

 例の店主にそれを渡す。


「……また、次に選ばれる誰かが来るんでしょうね」


 店主は受け取りながら、意味深に笑った。

 「図鑑が完成すると、次の空白が生まれるんですよ。

 新しいページが、“誰かを呼ぶ”」



咲く前に名前をつけられた花は、もう咲けない。

それが、この図鑑の持つ呪いだとしたら——


記録とは、世界を残すための手段でありながら、

同時に“世界から削る行為”でもあるのだろう。


いま、僕の部屋の窓際の鉢植えに、一輪の花が咲いている。

図鑑のどのページにも載っていない、名もなき花だ。


……それが咲いているうちは、まだ僕は、咲いているのだと思いたい。


【終】

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