「植物図鑑」
植物の効能のおよそ80%は、いまだに解明されていないらしい。
食べられるのか、有毒なのか。治すのか、壊すのか。
人間は、何千年も植物に頼って生きてきたくせに、結局その大半を「よくわからないもの」として放置している。
だからなのかもしれない。
この世界から、消えた植物の数を正確に言える者など、誰ひとりいない。
絶滅とは、死ではない。
忘れられることだ。
——そして忘れられた花は、図鑑の中で名前だけを残して咲き続ける。
◇
その古書店は、地図にもネットにも載っていなかった。
駅前の喧騒から二本ほど外れた路地の奥、外壁に蔦の這う二階建ての家屋。
看板は出ていない。だが、扉の前に置かれた木箱の中に無造作に積まれた本が、そこが営業中であることを教えていた。
「いらっしゃい。……ちょうど、見てほしい本があるんです」
中に入ると、薄暗い空間の奥から、痩せた店主が顔を出した。
初対面のはずだが、彼は僕の名前を知っていた。
差し出されたのは、一冊の図鑑だった。
分厚くて、重い。表紙は皮革のような素材で、タイトルの文字はすっかりかすれている。
「うちに持ち込まれた遺品でね。植物関係の本だってことしか分からないけど……。
“この本は渡す相手を選ぶ”とか、そんなふうなことを言ってたらしいですよ、亡くなる前に」
そう言って、店主は肩をすくめる。
僕はページをめくる。
中には、緻密なスケッチと、植物の和名・学名・開花時期などが細かく記されていた。
だが——見覚えのある名が、一つもない。
全てが未知の植物だった。
あるページの余白に、鉛筆で書き込まれた文字が目に入った。
「記録されたものは、二度と咲かない」
何気なく開いた最初の花の名前は「ソウメイシ」——青白い六弁の花の図。
次のページには「サマエラ」——黒い果実を持つ低木。
どこか不穏で、幻想的な名前が続く。
最後のページには、まだ何も描かれていなかった。
だが、よく見ると——紙の繊維の奥からは何かが“滲みはじめている”ように感じた。
◇
翌日、僕は最初のページに載っていた植物「ソウメイシ」を手がかりに図鑑の記述をもとに現地へ向かった。
場所は長野県某所。かつて高山植物の群生地として知られ、環境省の古いレポートにも名が載っている小さな山村だった。
村の入り口にあった観光案内板。
『ソウメイシ群生地(4月中旬〜5月初旬が見頃)』
そう書かれていた。
ここは地元の観光資源になっていたらしい。
図鑑に載っていたあの青白い六弁の花が、ここで咲いていた。——つい最近まで。
だが、僕が山道を登って群生地とされる斜面に立ったとき、そこに花はなかった。
土は踏み固められ、日当たりも悪くない。
だが、花は一輪も咲いていない。痕跡すらない。
まるで——はじめから存在しなかったかのように。
ふもとのカフェで地元の老婆に話を聞くと、首をかしげながらこう言った。
「ええ、今年も咲いてたはずですよ。先月までは確かに……
変ね、写真も撮った気がするけど……あら?」
彼女はスマホを取り出し、アルバムをめくっていった。
その手が止まる。
「……ない。ここに咲いてたはずなのに」
画面に映るのは、ぽっかり空いた草地の写真。
構図からして、そこに何かが“ある”前提で撮られたような構えなのに、肝心の花が抜け落ちていた。
僕は自分のスマホでも撮影してみた。
だが、どの角度から撮っても、画面には“何も写らない”。
後で気づいたのだが、その写真のファイルサイズは、他の画像よりも極端に小さかった。
まるで、削られた何かが、最初から存在しなかったかのように。
車に戻り、もう一度図鑑を開く。
ソウメイシのページのインクが、わずかに滲んでいる気がした。
その時、ふと気づいた。
——ページの隅に、小さな文字が増えている。
「2025年6月22日 最終観測:一ノ瀬ヒフミ」
まるで、花を“見届けた者”として名前が刻まれたかのように。
◇
都内に戻った僕は、図鑑のページをめくりながら、植物の学名や特徴を一つひとつ検索していった。
だが、どれだけ調べても「サマエラ」も「イロハニ草」も、植物データベースに存在しない。
記述は緻密で詳細なのに、その花は、どこにも“存在していない”。
ネットにも、文献にも、写真にも——。
ふと、気になって調べてみた。
“植物図鑑を記した学者”の名前。
カバーの裏表紙に鉛筆で書かれていた「朝比奈敬二」。
古い植物研究雑誌の索引に、その名を見つけた。
——30年以上前、植物民俗学を研究していた人物。
晩年、「記録と観測の暴力性について」という論考を発表したのを最後に、学会から姿を消していた。
「観察されることは、定義されることだ。
定義されることは、世界に“位置づけられる”ことだ。
——だがそれは、同時に自由を失うということでもある。」
その言葉の横には、あの“ソウメイシ”の簡易スケッチが残されていた。
僕は急に怖くなった。
やはりこの図鑑はただの記録ではない。
——記録されたものを“固定し”、やがて“消去する”。
思い出す。
ソウメイシのページに、僕の名前が書かれていたこと。
あれは観察記録ではなく、“誰がそれを消したのか”を明記するためのラベルなのかもしれない。
このまま他のページを開けば、また植物が一つ、世界から消えてしまうのではないか。
いや、それだけではないのかも知れない。
図鑑の最終ページに目をやる。
昨日まで真っ白だったそのページに、かすかに線のようなものが浮かびはじめていた。
花弁の輪郭。葉脈の走り。根の先端。
それは、まだこの世界に存在しない“新しい植物”——
**あるいは、“これから消えるもの”**の姿のように見えた。
◇
その夜は、妙に寝つきが悪かった。
図鑑を棚に戻し、部屋の明かりを消しても、脳の奥だけがずっと起きていた。
まぶたの裏に、花の輪郭が焼きついている。
いつの間にか眠ったらしい。
気がつくと、僕は畑の中に立っていた。
いや、“立っていた”という表現は正しくない。
僕はそこに根を張っていた。
土の温度、地中を走る水の流れ、風が葉を擦る音。
どこにも視点がないのに、世界がまるごと皮膚で感じられるような感覚。
——これが植物の視界なのか、と直感した。
やがて誰かがやってきた。
白衣の男。ノートを持っている。
こちらをじっと見て、何かを書きつけていく。
その瞬間、僕の身体のあちこちが“定義”されていく。
「茎は中空」「花弁は六枚」「毒性なし」
書かれるたびに、存在が削られていく感覚。
知られていくほど、僕は僕でなくなっていく。
それでも男は書き続ける。
最後に、名前を記す。
「ヒフミ草」
それを見た瞬間、景色が崩れた。
世界が閉じ、意識が急激に現実へと引き戻される。
目を覚ました僕の耳には、風の音が残っていた。
どこかの草原を、葉が擦れ合って鳴るような音。
部屋の中の鉢植えの葉が、誰も触れていないのに揺れていた。
そして——
図鑑の最後のページに描かれた、見覚えのある植物のスケッチが、はっきりと完成していた。
根の張り方。茎の伸び方。
何より、僕の夢の中とまったく同じ姿だった。
◇
朝になっても、夢の感触は消えなかった。
掌が土の中にあるような、光が皮膚から染み込んでくるような、人間ではない感覚がまだ体内に残っている。
僕は図鑑を開いた。
最終ページに記されたスケッチは、昨夜の夢と完全に一致していた。
「ヒフミ草」
属名・花期・根の形状、すべてが記されている。
それは、まるで**僕自身が“植物として定義された記録”**だった。
——記録されたものは、二度と咲かない。
そのルールが図鑑に貫かれているとすれば。
このページに名を刻まれた僕も、また、“咲けなくなる”ということなのだろう。
どうすればこの連鎖を止められるのか。
ページを破る?燃やす?図鑑を処分する?
——だが、ページを破ろうとした指が、わずかに震えた。
この図鑑は“記録そのもの”ではない。
「記録という行為」そのものを内包した装置だ。
そして今、その最後のページは、僕自身の存在を受け皿にして完成した。
破壊すれば、何が起こるか分からない。
——だが、放置しておく理由も、もうどこにもなかった。
僕は図鑑を封筒に包み、古書店へ戻った。
例の店主にそれを渡す。
「……また、次に選ばれる誰かが来るんでしょうね」
店主は受け取りながら、意味深に笑った。
「図鑑が完成すると、次の空白が生まれるんですよ。
新しいページが、“誰かを呼ぶ”」
◇
咲く前に名前をつけられた花は、もう咲けない。
それが、この図鑑の持つ呪いだとしたら——
記録とは、世界を残すための手段でありながら、
同時に“世界から削る行為”でもあるのだろう。
いま、僕の部屋の窓際の鉢植えに、一輪の花が咲いている。
図鑑のどのページにも載っていない、名もなき花だ。
……それが咲いているうちは、まだ僕は、咲いているのだと思いたい。
【終】