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「味のある水道水」

この世には“異常”というほどではないが、説明のつかない現象がある。


 たとえば、ある地域に引っ越した人たちが口をそろえてこう言う。


 「ここの水道水、なんか甘くない?」


 それは錯覚かもしれないし、単なるミネラル成分の差異かもしれない。だが、検査をしても、明確な違いは見つからない。


 僕のような人間は、そういう“微かな違和感”に興味を惹かれる。


 そして実際、その地域で取材をしていた僕自身も、最初に違和感を覚えたのは、水の味ではなかった。


 それは、人々の“表情”だった。


 どこか、過去の影を忘れたような、澄んだ目をしているのだ。



取材のきっかけは、知人のライターが書いた小さなコラムだった。


 〈◯◯町の水道水がやけに甘い理由〉


 中身は実にあっけらかんとしたもので、地元の主婦が「引っ越してからコーヒーが飲みやすくなった」と言い、スーパーのミネラルウォーター売り場の売上が伸び悩んでいるという程度の話だった。


 だが、僕の目を引いたのは、その最後の一文だった。


 〈最近、この町の“自殺率”が全国平均の1/10になっているという噂もあるが、それはさすがに関係ないだろう〉


 関係ない?

 ――いや、むしろ、そこからが本題だ。


 僕は町の名前をメモし、その日のうちに電車で向かった。


 町の名前は「久留見くるみ」。


 山あいにある小さな町で、駅前には商店街らしき並びがあるが、ほとんどシャッターが下りていた。


 だが、通りを歩く人々の顔には、どこか不思議な“清々しさ”があった。


 まるで過去の傷をすっかり洗い流した人間のように。



町役場の観光課に取材を申し込むと、対応してくれたのは若い女性職員だった。


 「水道水の味ですか? 確かに最近、よく言われますね。甘いって」


 「検査結果では、何も出ていない?」


 「はい。水質検査では異常なし。むしろ県内で一番きれいって、表彰されたくらいで」


 彼女はにこやかに答えるが、言葉の端に少しだけ引っかかりを感じた。まるで“本当のことはそこじゃない”と言いたげな、どこか困ったような笑みだった。


 「この町、昔はこんなに穏やかじゃなかったんですよ。自殺や事件も多くて、夜道を歩くのが怖かった時期もあったくらいで。でも、十年くらい前から、急に落ち着いたというか……」


 「十年前に、何かありましたか?」


 彼女は一瞬、口をつぐんだ。


 それから、声をひそめて言った。


 「……水源、なんです。山の上の池なんですけど、ある年から、立ち入り禁止になって」


 「理由は?」


 「不明です。でも、町の古老たちは、昔そこに“何かを沈めた”って……」


 「何か?」


 「供養のために、石碑を」


 その言葉を聞いた瞬間、背中にひやりと冷たいものが走った。


 写真に撮って調べるべきだ。そう直感した。



翌日、一ノ瀬は山のふもとの公民館に足を運んだ。掲示板の片隅に、十数年前の風景写真がいくつか貼られている。


 「これ、池の写真……」


 その中に、一枚だけ不自然なものがあった。湖面が奇妙に波打ち、中央に黒ずんだ影のようなものが写っている。撮影日付はちょうど十一年前、立ち入り禁止となる直前のものだった。


 僕は写真のコピーをもらい、人気のない場所に腰を下ろした。


 深く息を吸い、静かに目を閉じる。


 ──写真の中へ。


 意識が沈み込む感覚に身を委ねる。やがて、足元にぬかるんだ地面の感触が広がった。


 辺りは夕暮れ。池の水は濁っていて、足音一つで静寂が崩れる。


 湖面を覗き込むと、沈殿した藻の奥に、石碑のようなものが見えた。


 ……文字が刻まれている。


 《ここに、痛みを沈める》


 石碑は奇妙なほど新しく、どこか生き物のような脈動を感じさせた。


 僕が近づくと、碑の奥から、ふっと温かい感覚が流れ込んできた。


 記憶──否、誰かの“痛み”だ。


 たとえば、それは愛する人を失った痛み。子どもを責めてしまった後悔。自ら命を絶った兄への贖罪。名も知らぬ誰かの傷が、まるで温泉の湯気のように立ち上り、僕を包んでくる。


 それは不思議と、心地よいものだった。


 けれど、すぐに気づく。


 ──これは、“誰かの痛み”が溶け出しているのではない。


 ──“痛み”を引き受ける器が、そこにある。


 そして、町の水道水は、それを希釈したものなのだ。



意識が戻った時、僕はまだ人気のない公民館の裏手に座っていた。


 スマホの画面には、あの波打つ湖面の写真。中央に黒く沈む石碑の影が、微かに映り込んでいる。


 「……なるほど、そういうことか」


 僕は立ち上がり、ペットボトルの水を一口だけ飲む。


 口当たりが異様にまろやかだった。舌にまとわりつくような甘さ。そして、ほんの少しだけ、喉の奥が熱くなる感覚。


 ──この水は、痛みを薄めている。


 けれどそれは、優しさではない。


 たとえば誰かが失恋しても、別れの痛みを引きずることもなく。親を亡くしても、涙の数は減る。失敗したって、後悔はすぐに引いていく。


 つまり、“痛み”が記憶に刻まれにくくなる。


 人は痛みによって自分を形作る。後悔も、怒りも、失敗も、すべてが“人格の輪郭”を縁取っていく。


 その輪郭は町の水に溶けてじわじわと曖昧になっていくのだ。


 もちろん誰も気づかない。痛みが消えることは、喜ばしいことに思えるだろうから。


 でも、どこかこの町の人たちは、“似ている”気がした。


 優しすぎて、怒らず、悲しまず、何事もなかったように日々を送っている。


 記憶の“棘”を持たない人間ばかりが、ここには住んでいる。



その晩、僕はもう一度池のほとりに立った。


 風は穏やかで、水面は鏡のようだった。

 昼間とは違い、蛍の光が点々と揺れている。


 スマホを取り出し、昼に撮った写真を開いた。そこには、湖底に沈む石碑がくっきりと写っている。


 ──写真に入る、という選択肢は、正直に言って迷った。


 だが、どうしても確かめなければならなかった。


 僕は、スマホの画面に指を這わせる。ほんの少しの集中と、深く潜る意志だけで、世界がぐにゃりと歪む。


 次の瞬間、僕は冷たい水の中にいた。


 視界は不鮮明だが、そこに“在る”ものの輪郭だけは、くっきりとわかる。


 ──石碑。高さは人の背丈ほど。表面には無数の名前が彫られていた。


 どれも読めるものではない。古い文字なのか、あるいは……読ませる気がないのかもしれない。


 その碑の前に、誰かが座っていた。


 小さな人影。少女のようだった。水の中なのに、服も髪もゆらめかず、ただ静かに、そこに“存在して”いた。


 「あなたが……?」


 僕が声をかけると、少女はゆっくり顔を上げた。


 「忘れてあげた方が、幸せでしょう?」


 彼女の声は、水を通してではなく、頭の中に直接響いた。


 「人間の記憶には毒がある。思い出せるから、人は苦しむ。ならば——少しずつ、忘れさせたほうがいいというだけ」


 僕は、何も言えなかった。


 その理屈には、一理以上の真理がある。


 でもそれは、誰かが勝手に選ぶことではない。痛みを手放すのは、当事者の権利だ。


 だから僕は言った。


 「そう思うなら、せめて——見える場所に立ってくれ。沈めたままでは、選ぶこともできない」


 少女は黙ったまま、目を閉じた。


 そして次の瞬間、水面が激しく揺れ、僕は現実に引き戻された。



 池の中央に、石碑が浮かんでいた。


 翌日にはニュースになり、町は少しざわついた。観光客が来て、学者が調査に入った。


 そして、水道局は水源を切り替えた。


 あれ以来、水道水は少しだけ“まずく”なった。


 でも、なんとなく町の人たちの表情が、ほんの少しだけ違って見えた。


 怒る人、泣く人、つまらないことで喧嘩する人。


 当たり前の、けれど失われていた“棘”が、戻ってきたような気がした。


【終】

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