「燃える水槽」
奇妙な現象の多くは、写真に収めた瞬間にその輪郭を濃くする。
肉眼ではただの風景だったものが、レンズを通すことで異常性を帯びる。
僕がこの仕事を続けている理由のひとつだ。
魚が燃えている、という話を聞いたときは、悪質な合成か都市伝説の類だと思った。
だがその写真を見せられた瞬間、僕の中の好奇心の火が、音もなく灯った。
写真の中では、水槽の中の金魚が、燃えていた。
青白い炎に包まれ、鱗が溶けかけているようにも見えた。
しかもその魚は、まだ生きて泳いでいるように写っている。
もちろん現実では、何の異常もない。
透明な水、元気に泳ぐ魚たち、きらめくエアレーション。
けれど写真には、確かに火が写っていた。
僕は、都内のあるペットショップへ向かうことにした。
◇
店の名前は《リュミエール》。
古い商店街の一角にある、こぢんまりとした熱帯魚専門店だった。
外から覗く限り、特別な様子はない。水槽が並び、エアポンプが小さく唸っている。
僕が扉を開けると、チリンと小さな鈴の音が鳴った。
空気は湿っていて、生ぬるく、わずかに薬品と水草の匂いが混じっている。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から出てきたのは、白髪交じりの中年男性。
店主・長谷川康之。問い合わせの電話をしたとき、最初は明らかに取材を断ろうとしていた。
だが「写真を見ました」と伝えると、態度が変わった。
「……見たんですね、あの“炎”を」
彼は静かに言った。
「変な話だと思われるかもしれませんが、実際にこの目では見えないんです。
けれど、写真にだけ写る。しかも——」
長谷川は言葉を選ぶように少し黙ってから、水槽を指さした。
「同じ魚でも、“写る時と写らない時”があるんです。
それが、僕には一番気味が悪くて……」
彼が案内してくれたのは、店の中央に据えられた120cm水槽。
グッピーやネオンテトラ、エンゼルフィッシュ、金魚。
中では数十匹の魚が、のどかに泳いでいる。
「……燃えてるように見える魚って、どれですか?」
「それが……日によって違うんです」
僕はスマートフォンを取り出し、シャッターを切った。
カシャ。
画面には、白く燃える尾びれを揺らす魚が一匹、はっきりと写っていた。
小さな金魚。現実には、何の変化もない。
だが、その尾が、燃えている。
水の中にあるはずの火が、静かに、けれど確かに、揺らめいていた。
◇
「……この写真、いただけますか?」
店主・長谷川がスマートフォンの画面を見つめながら言った。
彼の顔は驚きというより、諦めに近い表情をしていた。
「どうしてです?」
「集めてるんです。写真を。……“燃えた魚”の」
僕は訊いた。
「燃えた魚を集めるって、どういう意味ですか?」
長谷川は少し考えてから、静かに語り出した。
「この半年ほど、うちで買った魚を“返しに来る客”が多いんです。
みんな、口を揃えてこう言う。“部屋で燃えてるように見えた”って」
「火事になったわけじゃない?」
「ならない。でも、確かに、燃えてる。火じゃなくて、“光”のようなものが、魚の体に……。
気味が悪いから、返しに来る。返されるのは、決まって“写る魚”なんです」
僕は思わず水槽を見やった。さっき写した金魚は、ゆっくり泳いでいた。
燃えているようには見えない。ただの、のどかな金魚だ。
「この水槽にいる魚、全部“写った”経験があるんですか?」
「はい。……燃えた魚しか、残っていないんです」
そう言って長谷川は、小さな段ボール箱を取り出した。中には、返された魚を入れていたという証拠品——
写真の束だった。
どれも、かつての客が撮ったものを送ってきたものだという。
中には、部屋の暗がりで、魚の体が発光しているように見える写真や、
完全に“炎に包まれている”ような、不可解なものもあった。
「でもね……」
長谷川は、写真の中から一枚を差し出した。
「たまに、“写ってはいけないもの”が写るんです」
その写真には、水槽の奥にあるはずのない人の顔が、ぼんやりと映っていた。
「この顔を見た人は……次に、“火”を見ることになります」
◇
店を出たあとも、あの“人の顔”が脳裏から離れなかった。
魚の体に映った微かな横顔。髪は濡れたように垂れ、目だけがこちらを睨んでいる。
僕は念のため、長谷川から数枚の写真データをもらっておいた。
帰宅後、モニターに拡大して表示してみる。
不思議なことに、スマホ画面で見たときほど異様には感じない。
なぜか“迫力”が抜け落ちている。——それでも、ある種の気配は残っていた。
そのとき、事務所のインターフォンが鳴った。
画面には若い男の顔が映っていた。
「すみません……一ノ瀬さんですよね?取材されてるって聞いて……話したいことがあって……」
訪ねてきたのは、**大沢 陽介**という男だった。
彼は、例のアクアリウムショップで魚を買った客だった。
「買ったのは“オランダシシガシラ”っていう金魚で、最初は何ともなかったんです。
ただ……夜になると、部屋の隅が赤くなるんです」
「火のように?」
「ええ、火事みたいな光。でも、何も燃えてないし、朝になると消える。
それが3日くらい続いて……で、今日の昼、部屋のカーテンに焦げ目ができてました」
僕は、背中に汗が滲むのを感じた。
「その魚は、いま?」
「返しました。長谷川さんに……。でも、もう遅い気がして。
“あれ”、返しても、ついてくるんじゃないかって思えてきて……」
僕は、彼の背後にあるスマホの画面を見た。
ホーム画面には、水槽に近づけた金魚の写真。
その写真の右上。カーテンの陰から、何かが覗いていた。
——濡れた髪と、睨む目。
「すみません、一ノ瀬さん……俺、もう、部屋に帰りたくないんです」
◇
僕は例の金魚の写真をモニターに映し出し、椅子に深く座り直した。
右上に映る“何か”の気配は、昼間よりもはっきりとこちらを見返している。
「少し、確かめさせてもらうよ」
息を整え、目を閉じ、画面の奥へと意識を沈める。
——次の瞬間、世界が反転した。
◆
気がつくと、僕は水槽の前に立っていた。
足元は濡れたフローリング。空気はぬるく、静かすぎる。
耳をすませば、微かに水が揺れる音だけが聞こえる。
部屋はどこか現実味に欠けていた。輪郭があいまいで、時間が止まっているようにも感じる。
けれど、水槽の中だけは生きていた。金魚たちが、ゆるやかに泳ぎ続けている。
「……いた」
水槽の奥に、確かに人影があった。
鏡越しにこちらを覗くように、白い顔が水の中に沈んでいる。
髪は長く、頬は痩せこけ、目だけが異様に濃い。
——いや、“水槽の中”ではない。
水槽のガラスに、閉じ込められているのだ。
僕はそっと手を伸ばした。
「……誰なんだ、お前は」
指先がガラスに触れる。
瞬間、炎が走った。
まるで水槽が、内側から燃え始めたように、オレンジの光がじわじわと広がる。
だが、燃えているのは水ではなく、写真の記憶だ。
これは、“誰か”がこの水槽を通して焼き尽くそうとした、強い感情の痕跡だ。
「怒り……じゃない」
その感情は、怒りでも憎しみでもなかった。
もっと静かで、もっと冷たい、無視され続けた者の声なき叫びのようだった。
「見てほしかったんだ。ずっと……」
——写真の中で、顔が僕に向かって微かに口を開いた。
「……もどして」
声が、確かに聞こえた。
◇
僕は写真の中から現実へと意識を引き戻した。
デスクの上に並んだ資料が、ほんの少しだけ色褪せて見える。
写真の中で聞いた「もどして」という声が、まだ耳の奥で反響していた。
もう一度、メールの発信元を確認する。
送り主の名前は「古山麻理江」。
あの家の前の住人だ。現在は所在不明とされていた。
調べていくうちに、ある古い掲示板の書き込みに行き当たった。
「近所の家で、女の子が飼ってた金魚の水槽が突然燃えたって話、覚えてる?」
「その家の子、失踪したまま帰ってないらしい」
書き込みは十年前のものだ。
年月の中に沈んだ、小さな事件。誰にもまともに扱われなかった、消えた声。
だが、それでも水槽の中で彼女は訴えていた。
「もどして」。
忘れられたままの、彼女自身の存在を。
僕は思い至った。
燃える水槽は、ただの現象ではない。
——これは、“記録”なのだ。
彼女の感情が、時間を超えて、水の中に焼きついている。
もう一度、写真を開く。
するとそこには、以前はなかったもう一つの顔が浮かび上がっていた。
小さな女の子。金魚を覗き込むように微笑んでいる。
その姿は、今にも声をかけてきそうだった。
「見えたよ」と、僕はそっと言った。
画面の中で、金魚がゆっくりと尾を振った。
◇
ペットショップの水槽は、今も燃え続けている。
だが、火はもはや恐ろしいものには見えなかった。
どこか静かで、穏やかで、誰かを忘れないための炎のようだった。
店主に写真を見せると、しばらく無言で画面を眺めたあと、ぽつりとつぶやいた。
「……あの子、見つかったんですね」
僕は頷かなかった。けれど、否定もしなかった。
人が忘れたものの中には、形を持たぬまま、
それでもなお“残り続けるもの”がある。
写真の中で、女の子は笑っていた。
水の揺らめきが、その姿をゆっくりと撫でていた。
まるで、帰る場所をようやく見つけたように。
燃える水槽は、今日も光を放っている。
誰にも気づかれぬまま、静かに。
——過去を、沈めないために。
【終】