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「貸し傘」

誰が最初に言い出したのか知らないが、「忘れ物は持ち主のもとへ帰る」という言葉がある。


ならば、「忘れられた人間」は、どこへ帰るのだろうか。


雨の日、駅前の貸し傘にまつわる奇妙な噂を耳にした。

使った人が、なぜか姿を消すという。

だが傘はきちんと戻ってくる——


使用者の名が、傘の柄に彫られていた状態で。



 小雨が降っていた。

 傘をさすほどではないが、髪や肩がじわじわ濡れる程度には面倒な天気だ。


 僕は駅前のロータリーに立っていた。

 目的はただ一つ——「貸し傘」だ。


 金属のスタンドに並ぶ十数本のビニール傘。

 無人の貸し出し式で、誰でも使える。

 だが、そのうちの何本かに、妙な特徴があるらしい。


 情報提供者の話では、

 「傘の柄に“名前が刻まれている”」のだという。


 僕は一本、手に取った。

 透明なビニールとシルバーグレーの骨組み。

 見た目は普通の量販品と変わらない。


 だが、柄の裏側——指が触れるあたりに、

 薄く削り込まれた文字があった。


 《松尾ユウスケ》


 人の名前だ。

 彫り方が均一で、機械で彫刻されたような仕上がり。

 新品ではなく、使い込まれたような小傷もある。


 何より妙なのは、この傘が設置されたのは昨日だということ。

 新品として納品されたはずの傘に、なぜ名前が彫ってある。


 別の一本も見てみる。


 《吉永サトミ》


 やはり名前がある。

 しかも全て違う。

 十本確認したが、そのすべてに別の名前が刻まれていた。


……傘が、人を記憶してる?


 雨粒が傘に当たって、ぽつぽつと音を立てた。


 貸し傘は、誰でも使える。

 使った人が、どこの誰であれ関係なく——


 だがこの傘は、最初から“使う人間”が決まっていたように思えた。



僕は、名前を手がかりに調べ始めた。

 《松尾ユウスケ》と《吉永サトミ》——両者とも、ここ数日内に行方不明届けが出されていた。


 年齢も性別もバラバラ。面識もない。

 ただ共通しているのは、最後に目撃されたのが、この駅前の防犯カメラ映像という点だった。


 カメラには、傘を手に取る姿がはっきり映っていた。

 雨に濡れるのを避けるように、そのまま改札をくぐり、駅の奥へと姿を消す——

 その直後から、誰ひとりとして戻ってこない。


 家族にも会いに行った。


 松尾ユウスケの母親は、痩せた体を折りたたむようにして玄関先に立ち、僕の顔を見てこう言った。


「また、傘のこと……ですか?」


 “また”という言い回しに、違和感が残った。

 尋ねると、彼女は小さな声で言った。


「これで二度目なんです。あの傘で、人がいなくなったの。うちの子の前に、親戚の子も……」


 僕は、その記録を調べた。

 そして見つけた。数年前、同じくこの駅前で失踪した女性の名前。


 ——《吉永サトミ》。

 傘の持ち主として、“これから使うはず”だった名前が、過去にも記録されていた。


 傘はただ使用者の名を“記録する”のではない。

 誰が使うかを“決めて”、回収されるのを“待っている”。


 傘の柄に名前がある時点で、もう逃れられないのかもしれない。

 そう気づいた瞬間、僕の脳裏に嫌な想像がよぎった。


 ——この傘を手に取る前に、もし柄を確認していたら。

 ——そこに、自分の名前があったら。



この駅に設置されている貸し傘は、民間企業が無料提供しているものだという。

 調べれば、すぐに「提供元」の名が出てくるはずだった。


 しかし——なかった。

 配備元として記されていた会社は、すでに十年前に倒産していた。

 その後、どの団体が引き継いだのか、駅も行政も把握していないという。


 つまり、現在そこにある傘は、“どこからも送られていない”はずのものだった。


 にもかかわらず、雨が降れば新しい傘が補充されている。

 しかも、そのいずれにも**“名前がすでに刻まれている”**状態で。


 まるで、誰かが——あるいは“何か”が、

 使うべき人間の名を知っていて、あらかじめ届けているかのようだった。


 僕は配備時の状況を駅職員に訊ねたが、

 「朝にはもう傘があって」「誰が置いたかは不明」という、曖昧な証言しか得られなかった。


 監視カメラにも、傘を設置する人物は映っていない。


 ある職員が、冗談めかして言った。


「……でも、不思議と“濡れた傘”が届くことはないんですよ。どれも乾いていて、汚れもなくて。まるで……誰にも使われてないみたいに」


 それは奇妙な矛盾だった。

 傘は人を“吸い込み続けてる”。

 それなのに、使われた痕跡は一切残っていない。


 記録だけが刻まれ、使用感はまるでゼロ。

 まるで、“使った人間の存在そのもの”が消されているように。



その日も、弱い雨が降っていた。

 僕は傘のスタンドを観察するため、ロータリーの隅に立っていた。


 午後五時過ぎ、制服姿の少女が一人、足を止めた。

 高校生くらいだろうか。髪は短く、表情には迷いが浮かんでいた。


 彼女は傘の列をしばらく見つめていたが、やがて一本をそっと抜き取った。

 その瞬間、僕は思わず声をかけてしまった。


「その傘、ちょっと見せてもらえますか」


 怪しまれないよう、記者証を見せる。

 少女は警戒しつつも、差し出してくれた。


 柄の裏側をそっと確認する。

 そこには、刻まれていた。


 ——《坂巻アキ》


「……これ、君の名前?」


 少女は驚いたように目を見開いた。


「えっ……なんで知ってるんですか?」


 やはり、そうだった。

 この傘は、彼女の“ために”ここにあった。


「いいかい。この傘は、誰かが忘れた傘じゃない。君が“使うべきだと決められていた”傘なんだ」


「……意味、わかんないです。私、ただ雨が降ってたから……」


「待って。できれば、それを使わないでほしい。できるなら、そのまま返して」


 少女は戸惑いながらも、言われるがまま傘を戻した。

 その仕草に、どこか“安堵”のようなものがあったのは気のせいだろうか。


 ……その夜、僕はもう一度、傘のスタンドを見に行った。


 そこには、いつの間にか新しい一本が加わっていた。


 柄の裏に刻まれた名前は——


 《イチノセヒフミ》。

 


夜が深まるにつれ、雨脚は強くなっていった。

 駅前のロータリーに、人の姿はほとんどなかった。


 僕は、一人で傘のスタンドを見つめていた。

 そこに立てかけられた一本の傘。新品のビニール傘。

 柄の裏には、確かに僕の名前が彫られていた——《イチノセヒフミ》。


 傘は、何も語らない。

 ただそこに在るだけだ。

 まるで、僕がここに来るのを知っていたかのように。


 背筋を雨が伝う。

 このまま帰れば、濡れるだけで済む。

 だが、もし傘を取ったなら——


 それは、記録に刻まれることを意味する。

 誰かに見つけられ、数日後には「一ノ瀬一二三」という人物が“いた”ことだけが残るのだろう。


 僕はゆっくりと傘に手を伸ばした。

 指が柄に触れる寸前、ふと足元に目を落とす。


 ……傘立ての影に、なにかある。

 濡れた紙切れだった。

 拾い上げてみると、それは一枚のレシートだった。印字はもう薄れている。


 ただ、最後にこう記されていた。


 > ご利用ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております。

 > 【記録者:坂巻アキ】


 記録者。

 使用者ではない。

 坂巻アキは、僕にあの傘を使わせなかった。

 代わりに、僕の名前がここに記録された。


 ……彼女は、傘の運命を書き換えたのだ。


 僕は立ち上がり、傘には触れずその場を離れた。


 背後で、風に揺れる傘のビニールが微かに鳴った。

 それは、まるで——「また次の雨の日に」とでも言っているようだった。


【終】

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