「貸し傘」
誰が最初に言い出したのか知らないが、「忘れ物は持ち主のもとへ帰る」という言葉がある。
ならば、「忘れられた人間」は、どこへ帰るのだろうか。
雨の日、駅前の貸し傘にまつわる奇妙な噂を耳にした。
使った人が、なぜか姿を消すという。
だが傘はきちんと戻ってくる——
使用者の名が、傘の柄に彫られていた状態で。
◇
小雨が降っていた。
傘をさすほどではないが、髪や肩がじわじわ濡れる程度には面倒な天気だ。
僕は駅前のロータリーに立っていた。
目的はただ一つ——「貸し傘」だ。
金属のスタンドに並ぶ十数本のビニール傘。
無人の貸し出し式で、誰でも使える。
だが、そのうちの何本かに、妙な特徴があるらしい。
情報提供者の話では、
「傘の柄に“名前が刻まれている”」のだという。
僕は一本、手に取った。
透明なビニールとシルバーグレーの骨組み。
見た目は普通の量販品と変わらない。
だが、柄の裏側——指が触れるあたりに、
薄く削り込まれた文字があった。
《松尾ユウスケ》
人の名前だ。
彫り方が均一で、機械で彫刻されたような仕上がり。
新品ではなく、使い込まれたような小傷もある。
何より妙なのは、この傘が設置されたのは昨日だということ。
新品として納品されたはずの傘に、なぜ名前が彫ってある。
別の一本も見てみる。
《吉永サトミ》
やはり名前がある。
しかも全て違う。
十本確認したが、そのすべてに別の名前が刻まれていた。
……傘が、人を記憶してる?
雨粒が傘に当たって、ぽつぽつと音を立てた。
貸し傘は、誰でも使える。
使った人が、どこの誰であれ関係なく——
だがこの傘は、最初から“使う人間”が決まっていたように思えた。
◇
僕は、名前を手がかりに調べ始めた。
《松尾ユウスケ》と《吉永サトミ》——両者とも、ここ数日内に行方不明届けが出されていた。
年齢も性別もバラバラ。面識もない。
ただ共通しているのは、最後に目撃されたのが、この駅前の防犯カメラ映像という点だった。
カメラには、傘を手に取る姿がはっきり映っていた。
雨に濡れるのを避けるように、そのまま改札をくぐり、駅の奥へと姿を消す——
その直後から、誰ひとりとして戻ってこない。
家族にも会いに行った。
松尾ユウスケの母親は、痩せた体を折りたたむようにして玄関先に立ち、僕の顔を見てこう言った。
「また、傘のこと……ですか?」
“また”という言い回しに、違和感が残った。
尋ねると、彼女は小さな声で言った。
「これで二度目なんです。あの傘で、人がいなくなったの。うちの子の前に、親戚の子も……」
僕は、その記録を調べた。
そして見つけた。数年前、同じくこの駅前で失踪した女性の名前。
——《吉永サトミ》。
傘の持ち主として、“これから使うはず”だった名前が、過去にも記録されていた。
傘はただ使用者の名を“記録する”のではない。
誰が使うかを“決めて”、回収されるのを“待っている”。
傘の柄に名前がある時点で、もう逃れられないのかもしれない。
そう気づいた瞬間、僕の脳裏に嫌な想像がよぎった。
——この傘を手に取る前に、もし柄を確認していたら。
——そこに、自分の名前があったら。
◇
この駅に設置されている貸し傘は、民間企業が無料提供しているものだという。
調べれば、すぐに「提供元」の名が出てくるはずだった。
しかし——なかった。
配備元として記されていた会社は、すでに十年前に倒産していた。
その後、どの団体が引き継いだのか、駅も行政も把握していないという。
つまり、現在そこにある傘は、“どこからも送られていない”はずのものだった。
にもかかわらず、雨が降れば新しい傘が補充されている。
しかも、そのいずれにも**“名前がすでに刻まれている”**状態で。
まるで、誰かが——あるいは“何か”が、
使うべき人間の名を知っていて、あらかじめ届けているかのようだった。
僕は配備時の状況を駅職員に訊ねたが、
「朝にはもう傘があって」「誰が置いたかは不明」という、曖昧な証言しか得られなかった。
監視カメラにも、傘を設置する人物は映っていない。
ある職員が、冗談めかして言った。
「……でも、不思議と“濡れた傘”が届くことはないんですよ。どれも乾いていて、汚れもなくて。まるで……誰にも使われてないみたいに」
それは奇妙な矛盾だった。
傘は人を“吸い込み続けてる”。
それなのに、使われた痕跡は一切残っていない。
記録だけが刻まれ、使用感はまるでゼロ。
まるで、“使った人間の存在そのもの”が消されているように。
◇
その日も、弱い雨が降っていた。
僕は傘のスタンドを観察するため、ロータリーの隅に立っていた。
午後五時過ぎ、制服姿の少女が一人、足を止めた。
高校生くらいだろうか。髪は短く、表情には迷いが浮かんでいた。
彼女は傘の列をしばらく見つめていたが、やがて一本をそっと抜き取った。
その瞬間、僕は思わず声をかけてしまった。
「その傘、ちょっと見せてもらえますか」
怪しまれないよう、記者証を見せる。
少女は警戒しつつも、差し出してくれた。
柄の裏側をそっと確認する。
そこには、刻まれていた。
——《坂巻アキ》
「……これ、君の名前?」
少女は驚いたように目を見開いた。
「えっ……なんで知ってるんですか?」
やはり、そうだった。
この傘は、彼女の“ために”ここにあった。
「いいかい。この傘は、誰かが忘れた傘じゃない。君が“使うべきだと決められていた”傘なんだ」
「……意味、わかんないです。私、ただ雨が降ってたから……」
「待って。できれば、それを使わないでほしい。できるなら、そのまま返して」
少女は戸惑いながらも、言われるがまま傘を戻した。
その仕草に、どこか“安堵”のようなものがあったのは気のせいだろうか。
……その夜、僕はもう一度、傘のスタンドを見に行った。
そこには、いつの間にか新しい一本が加わっていた。
柄の裏に刻まれた名前は——
《イチノセヒフミ》。
◇
夜が深まるにつれ、雨脚は強くなっていった。
駅前のロータリーに、人の姿はほとんどなかった。
僕は、一人で傘のスタンドを見つめていた。
そこに立てかけられた一本の傘。新品のビニール傘。
柄の裏には、確かに僕の名前が彫られていた——《イチノセヒフミ》。
傘は、何も語らない。
ただそこに在るだけだ。
まるで、僕がここに来るのを知っていたかのように。
背筋を雨が伝う。
このまま帰れば、濡れるだけで済む。
だが、もし傘を取ったなら——
それは、記録に刻まれることを意味する。
誰かに見つけられ、数日後には「一ノ瀬一二三」という人物が“いた”ことだけが残るのだろう。
僕はゆっくりと傘に手を伸ばした。
指が柄に触れる寸前、ふと足元に目を落とす。
……傘立ての影に、なにかある。
濡れた紙切れだった。
拾い上げてみると、それは一枚のレシートだった。印字はもう薄れている。
ただ、最後にこう記されていた。
> ご利用ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております。
> 【記録者:坂巻アキ】
記録者。
使用者ではない。
坂巻アキは、僕にあの傘を使わせなかった。
代わりに、僕の名前がここに記録された。
……彼女は、傘の運命を書き換えたのだ。
僕は立ち上がり、傘には触れずその場を離れた。
背後で、風に揺れる傘のビニールが微かに鳴った。
それは、まるで——「また次の雨の日に」とでも言っているようだった。
【終】




