「手の届かない遊具」
「危ないから触っちゃダメ」「もう使われてないから」
子供の頃、そう言われたものの多くは、
本当に危険だったか、それとも大人の都合だったのか、今となってはよくわからない。
けれど世の中には、“触ってはいけない理由”を、本当に持っているものもある。
見えない傷。知られていない事故。
あるいは、一度起きた出来事を、二度と繰り返させないための隠された記憶。
今回の話も、そういった“忘れられた注意書き”についてだ。
◇
その日、僕はとある地方都市の古い公園を訪れていた。
駅前から外れた住宅街の端、地図にも名前の載っていない、まるで時間から取り残されたような場所だ。
公園の中央には、使い古された遊具がいくつか残っていた。
サビついたすべり台、塗装の剥げたブランコ、ベンチに雑草。
そして——ひときわ目を引く、黒ずんだ鉄骨のジャングルジム。
立て看板にはこう書かれていた。
「この遊具には登らないでください」
「管理者不在・老朽化につき立入禁止」
※注意:死亡事故が発生しています
だが、周囲にロープや柵はない。
近所の子供たちは無関心に見えた。
写真を撮っていた僕の背後から、ランドセルを背負った子供たちの笑い声が聞こえた。
シャッターを切る。
その瞬間、違和感が走った。
写真に写っていた子供の数が——ひとり、足りない。
さっきまでそこにいたはずの男の子が、写っていない。
いや、正確には、ジャングルジムのてっぺんに、“空白”がある。
そこに「何か」がいたはずなのに、鉄骨の影だけが濃く落ちている。
◇
僕は近くの商店街で、公園について尋ねることにした。
たまたま立ち話をしていた中年の女性たちに、スマートフォンの写真を見せると、彼女たちは一様に顔をしかめた。
「ああ、あの公園ね……まだ残ってたんだ」
「昔は子供たちで賑わってたのよ。でもね、ある時期から、急に遊ばなくなったの。親がみんな、行くなって言い出して」
「事故があったって聞いたことある?」
僕がそう訊くと、一人が小声で言った。
「事故っていうか……“いなくなった”って話なら聞いたわよ。何人か、子供がね」
「いなくなった?」
「ええ。警察も来て探したけど、公園の中にいた子が、ふっと消えるようにいなくなったって」
もう一人の女性が口を挟む。
「昔から変な噂があったの。“あのジャングルジムには触っちゃダメ”って」
「登ると、“降りてこられなくなる”んだってさ」
まるでおとぎ話のような言い方だった。
だが、彼女たちの表情には冗談の色はなかった。
そして、その語り方が奇妙だったのだ。
「登ると降りられない」ではなく——
“ 登ったことを最後に、誰にも見えなくなる”という意味に、どこか聞こえた。
◇
夜。
人気のない住宅街を抜けて、僕は再びあの公園に戻ってきた。
街灯は一つだけ、ジャングルジムの真上に設置されている。
——いや、違う。
“ジャングルジムの真上にあるように見える”とでも言うべきか。
光がそこだけを強調し、他の遊具はまるで存在しないかのように闇に沈んでいた。
昼間に撮った写真を取り出す。
頂点にあった“空白”が、じっとこちらを見返しているような気がする。
「登った者が降りられない」
「降りてこないのではなく、“見えなくなる”」
僕はポケットから、以前誰かが撮ったジャングルジムの古い写真を取り出した。
骨董屋で見つけた、昭和の頃の公園を写した一枚だ。
その頂点には、帽子をかぶった男の子の姿が微かに見える。
彼は今も、そこにいるのかもしれない。
登って、降りられなくなった者たちが、「写真の中にだけ」存在しているのだとしたら——
僕は静かに、写真に指を置いた。
脳内に、いつもの感覚が流れ込む。
視界が黒く滲み、風の音が遠ざかる。
意識は写真の中に落ちていく。
気づけば僕は——
写真の中の公園に、立っていた。
◇
空は、真昼のように明るかった。
だが太陽はどこにも見えない。
空気はぬるく、音がない。風もない。色彩も浅い。
写真の中に入ったときに感じる、あの“現実の膜が剥がれる感覚”。
それがこの場所では妙に強い。
まるで、世界が薄紙一枚でできているかのようだ。
目の前に、ジャングルジムがある。
現実のそれよりもはるかに新しく、塗装も鮮やかだ。
そして、その頂点に——ひとりの子供がいた。
小学校低学年くらいの男の子。
両膝をかかえて、背を向けている。
声をかけようとして、言葉が出なかった。
というより、“声が音にならなかった”。
僕が一歩踏み出すと、その子がぴくりと肩を震わせた。
振り返った顔は、どこか見覚えがあるような、けれど思い出せないような顔だった。
彼はぽつりと、口を開いた。
ようやく聞こえたその声は、風に押し流されるようにかすかだった。
「……ここから、降りたらいけないって言われたんだ」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
「誰に?」
「……“下の人”に」
男の子は、少し顔を伏せて、
そのまま僕を見ないまま、こう続けた。
「下にいた子が、ぼくに代わってくれた。だから今は、ぼくがここにいないといけないんだって」
その瞬間、僕の背後で、鉄が軋むような音がした。
振り返ると——
もうひとつのジャングルジムが、そこにあった。
同じ形、同じ色。だが、無数の“手”が鉄骨の隙間から、這い出ていた。
◇
鉄骨の隙間から這い出す手は、明らかに“何か別のもの”だった。
小さな指。曲がった関節。異様に長い腕。
それらはまるで、外へ出たくてたまらないかのように、鉄を軋ませていた。
男の子が震える声で言った。
「ここにいると、だんだんわからなくなるんだ。
名前も、どこから来たのかも……
でも、誰かが登ってきたら、交代できるんだって」
僕はすぐに理解した。
——これは“座標”なのだ。
この場所の頂点に、一人だけ存在できるルール。
誰かが降りたければ、誰かが代わりに登らなければならない。
「君の名前は?」
僕がそう尋ねると、男の子はかすかに微笑んで言った。
「もう、いらないよ。
——“向こう”には、名前なんてないから」
その瞬間、ジャングルジムの鉄骨が震え、下の“何か”が蠢いた。
次に代わるべき者が、牙を剥くように、こちらを見上げている気がした。
僕はゆっくりと、手を伸ばした。
その子の腕を、しっかりと掴む。
「いいや。君は、戻るんだ。
名前を失ってしまう前に。
“君が君であるうちに”」
世界が一瞬、ぐにゃりと歪む。
写真の膜が破れるように、色がはじけ、重力が戻った。
⸻
気づけば僕は、公園のベンチに座っていた。
手には、あの男の子がいた頃の写真。
今度は、ジャングルジムの頂点に、誰もいなかった。
代わりに——
ジャングルジムの鉄骨の一部が、妙に人間の骨のような形をしていた。
戻ってきた子供の顔も名前も、報道には出なかった。
ただ、“一人の子供が無事発見された”という記事だけが、地元の新聞に載った。
◇
忘れられた遊具には、忘れられるだけの理由がある。
誰も遊ばなくなったのではない。**“遊べなくなった”**のだ。
子供の頃、あのジャングルジムに登った記憶がある。
頂点から見た空が、やけに高かったのを覚えている。
だとすれば、あのとき僕は——
もう少しで、“向こう側”へ行っていたのかもしれない。
【終】




