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「手の届かない遊具」

「危ないから触っちゃダメ」「もう使われてないから」

子供の頃、そう言われたものの多くは、

本当に危険だったか、それとも大人の都合だったのか、今となってはよくわからない。


けれど世の中には、“触ってはいけない理由”を、本当に持っているものもある。

見えない傷。知られていない事故。

あるいは、一度起きた出来事を、二度と繰り返させないための隠された記憶。


今回の話も、そういった“忘れられた注意書き”についてだ。




その日、僕はとある地方都市の古い公園を訪れていた。

 駅前から外れた住宅街の端、地図にも名前の載っていない、まるで時間から取り残されたような場所だ。


 公園の中央には、使い古された遊具がいくつか残っていた。

 サビついたすべり台、塗装の剥げたブランコ、ベンチに雑草。

 そして——ひときわ目を引く、黒ずんだ鉄骨のジャングルジム。


 立て看板にはこう書かれていた。


「この遊具には登らないでください」

「管理者不在・老朽化につき立入禁止」

※注意:死亡事故が発生しています


 だが、周囲にロープや柵はない。

 近所の子供たちは無関心に見えた。

 写真を撮っていた僕の背後から、ランドセルを背負った子供たちの笑い声が聞こえた。


 シャッターを切る。


 その瞬間、違和感が走った。


 写真に写っていた子供の数が——ひとり、足りない。


 さっきまでそこにいたはずの男の子が、写っていない。

 いや、正確には、ジャングルジムのてっぺんに、“空白”がある。


 そこに「何か」がいたはずなのに、鉄骨の影だけが濃く落ちている。



僕は近くの商店街で、公園について尋ねることにした。

 たまたま立ち話をしていた中年の女性たちに、スマートフォンの写真を見せると、彼女たちは一様に顔をしかめた。


「ああ、あの公園ね……まだ残ってたんだ」


「昔は子供たちで賑わってたのよ。でもね、ある時期から、急に遊ばなくなったの。親がみんな、行くなって言い出して」


「事故があったって聞いたことある?」


 僕がそう訊くと、一人が小声で言った。


「事故っていうか……“いなくなった”って話なら聞いたわよ。何人か、子供がね」


「いなくなった?」


「ええ。警察も来て探したけど、公園の中にいた子が、ふっと消えるようにいなくなったって」


 もう一人の女性が口を挟む。


「昔から変な噂があったの。“あのジャングルジムには触っちゃダメ”って」


「登ると、“降りてこられなくなる”んだってさ」


 まるでおとぎ話のような言い方だった。

 だが、彼女たちの表情には冗談の色はなかった。

 そして、その語り方が奇妙だったのだ。


 「登ると降りられない」ではなく——

“ 登ったことを最後に、誰にも見えなくなる”という意味に、どこか聞こえた。



夜。

 人気のない住宅街を抜けて、僕は再びあの公園に戻ってきた。


 街灯は一つだけ、ジャングルジムの真上に設置されている。

 ——いや、違う。

 “ジャングルジムの真上にあるように見える”とでも言うべきか。

 光がそこだけを強調し、他の遊具はまるで存在しないかのように闇に沈んでいた。


 昼間に撮った写真を取り出す。

 頂点にあった“空白”が、じっとこちらを見返しているような気がする。


「登った者が降りられない」

「降りてこないのではなく、“見えなくなる”」


 僕はポケットから、以前誰かが撮ったジャングルジムの古い写真を取り出した。

 骨董屋で見つけた、昭和の頃の公園を写した一枚だ。

 その頂点には、帽子をかぶった男の子の姿が微かに見える。


 彼は今も、そこにいるのかもしれない。

 登って、降りられなくなった者たちが、「写真の中にだけ」存在しているのだとしたら——


 僕は静かに、写真に指を置いた。

 脳内に、いつもの感覚が流れ込む。

 視界が黒く滲み、風の音が遠ざかる。


 意識は写真の中に落ちていく。


 気づけば僕は——

 写真の中の公園に、立っていた。



空は、真昼のように明るかった。

 だが太陽はどこにも見えない。

 空気はぬるく、音がない。風もない。色彩も浅い。


 写真の中に入ったときに感じる、あの“現実の膜が剥がれる感覚”。

 それがこの場所では妙に強い。

 まるで、世界が薄紙一枚でできているかのようだ。


 目の前に、ジャングルジムがある。

 現実のそれよりもはるかに新しく、塗装も鮮やかだ。

 そして、その頂点に——ひとりの子供がいた。


 小学校低学年くらいの男の子。

 両膝をかかえて、背を向けている。

 声をかけようとして、言葉が出なかった。

 というより、“声が音にならなかった”。


 僕が一歩踏み出すと、その子がぴくりと肩を震わせた。

 振り返った顔は、どこか見覚えがあるような、けれど思い出せないような顔だった。


 彼はぽつりと、口を開いた。

 ようやく聞こえたその声は、風に押し流されるようにかすかだった。


「……ここから、降りたらいけないって言われたんだ」


 その言葉に、背筋が冷たくなった。


「誰に?」


「……“下の人”に」


 男の子は、少し顔を伏せて、

 そのまま僕を見ないまま、こう続けた。


「下にいた子が、ぼくに代わってくれた。だから今は、ぼくがここにいないといけないんだって」


 その瞬間、僕の背後で、鉄が軋むような音がした。

 振り返ると——

 もうひとつのジャングルジムが、そこにあった。


 同じ形、同じ色。だが、無数の“手”が鉄骨の隙間から、這い出ていた。


 鉄骨の隙間から這い出す手は、明らかに“何か別のもの”だった。

 小さな指。曲がった関節。異様に長い腕。

 それらはまるで、外へ出たくてたまらないかのように、鉄を軋ませていた。


 男の子が震える声で言った。


「ここにいると、だんだんわからなくなるんだ。

 名前も、どこから来たのかも……

 でも、誰かが登ってきたら、交代できるんだって」


 僕はすぐに理解した。

 ——これは“座標”なのだ。

 この場所の頂点に、一人だけ存在できるルール。

 誰かが降りたければ、誰かが代わりに登らなければならない。


「君の名前は?」


 僕がそう尋ねると、男の子はかすかに微笑んで言った。


「もう、いらないよ。

 ——“向こう”には、名前なんてないから」


 その瞬間、ジャングルジムの鉄骨が震え、下の“何か”が蠢いた。

 次に代わるべき者が、牙を剥くように、こちらを見上げている気がした。


 僕はゆっくりと、手を伸ばした。

 その子の腕を、しっかりと掴む。


「いいや。君は、戻るんだ。

 名前を失ってしまう前に。

 “君が君であるうちに”」


 世界が一瞬、ぐにゃりと歪む。

 写真の膜が破れるように、色がはじけ、重力が戻った。



 気づけば僕は、公園のベンチに座っていた。

 手には、あの男の子がいた頃の写真。

 今度は、ジャングルジムの頂点に、誰もいなかった。


 代わりに——

 ジャングルジムの鉄骨の一部が、妙に人間の骨のような形をしていた。


 戻ってきた子供の顔も名前も、報道には出なかった。

 ただ、“一人の子供が無事発見された”という記事だけが、地元の新聞に載った。



忘れられた遊具には、忘れられるだけの理由がある。

誰も遊ばなくなったのではない。**“遊べなくなった”**のだ。


子供の頃、あのジャングルジムに登った記憶がある。

頂点から見た空が、やけに高かったのを覚えている。


だとすれば、あのとき僕は——

もう少しで、“向こう側”へ行っていたのかもしれない。


【終】


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