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音がない家

音には温度がある。

真冬の夜に聞く子どものはしゃぎ声はどこか暖かく、真夏の午後に聞く蝉の鳴き声はうるさくて暑苦しい。

音が空気を震わせて届く以上、そこには必ず“気配”がある。


だからこそ僕は、“音のしない家”という話に引っかかった。


子どもの泣き声がしても、隣人は何も聞こえないという。

夫婦喧嘩をしても、外の通行人が気づかないという。

大声で助けを呼んでも、誰も気づいてくれなかったという――。


音がしないのではなく、声だけが消えてしまう家。

それはつまり、「外に向かって発する意志」がすべて無効化される空間なのだ。



その家は、郊外の整った住宅街にぽつんと建っていた。

駅から徒歩15分。開発から20年ほどが経ち、やや古びた印象の一角だ。

だが外観は整備されており、芝生も刈り込まれている。ぱっと見には、何の異常もない。


「――音、聞こえないだろ?」


そう言ったのは、僕をここに案内してくれた不動産業者の男だ。

彼は声を潜めながら、玄関の前で足を止めた。


「本当に、ここだけなんですよ。チャイムを押しても反応がない。怒鳴っても、窓を叩いても、誰も出てこない。

でも、住んでるのは確かで……光熱費の記録も、郵便の受け取りもある」


言われて耳をすませてみる。鳥の鳴き声、遠くで遊ぶ子どもの笑い声、風の音、車の通過音。

だが、その家からだけは“気配”だけがまるごと抜け落ちていた。


僕は玄関の写真を一枚、撮った。


そのとき。――スッと、カーテンの隙間から誰かの影が見えた。

が、直後にはもういなかった。


「いま誰かいた……?」


「そうなんですよ。 でも、声をかけても何の反応もない。ここだけ、まるで“音が遮断されてる”みたいに…」


なるほど。だが僕はまだ、これをただの“防音構造”だと考えていた。


このときまでは。



玄関には、見た目どおりのインターホンが設置されていた。

僕はボタンを押し、呼び出し音が鳴るのを待った。


……無音。


耳を澄ませても、まるでボタンが壊れているように何の反応もない。

それでも不動産業者は言う。「前に来たときは、数分後に扉が開いた」と。


数分待ってみることにした。


そして約二分後、カチリ、と扉の鍵が回る音がした。


ギィ、と開かれた扉の奥に立っていたのは、無表情な中年の女性だった。

だが、何か言葉をかけようと口を開いた瞬間――


「……ッ」


自分の声が、自分の耳にすら届かなかった。


何かが喉を塞いでいるわけではない。息は通っている。

だが、“音”にならない。唇が動いているだけの感覚。

声帯を震わせても、空気が震えないのだ。


一瞬、混乱する。だが目の前の女性は、微動だにせず僕を見ていた。

まるで“理解している”かのように。まるで、“何を言われるか分かっている”かのように。


僕が言葉にならない声で「取材に来ました」と口を動かすと、

彼女はゆっくりと頷いて、手で「どうぞ」と合図した。


無言のやり取り。

この家の中では人の声だけが“封じられる”らしい。


僕は、まるで“呼吸を止めて海に潜る”ような気持ちで、玄関をくぐった。



筆談は続いた。


「この家は、もともと“聾唖者ろうあしゃ”の方が設計したものです」

「声を出せない人間にとって、世界は“常に無音”です。

だから彼は“自分にとっての理想の家”を作ったのです」


なるほど、それで徹底した防音構造を――


だが、そう書こうとして彼女がゆっくりと首を振る。


「違います。これは防音ではありません。

彼は“声そのもの”を、この家の中に封印する方法を見つけたのです。」


僕は眉をひそめる。


「声を……封印?」


彼女は立ち上がり、書棚の奥から一冊のスクラップブックを取り出してきた。

新聞の切り抜きや、手書きの図面、日記のような走り書き。


その中に、こう書かれていた。


「音は空気の振動。だが“言葉”とは、人間の意志の形だ。

私は空気ではなく、“意志”を封じる部屋を作りたい。

それが完成すれば、誰も傷つける言葉を使えなくなる。

怒声も悲鳴も、嘘も、罵倒も、――この家の中では、存在しなくなる。」


つまりこの家は、“音を消す”のではない。

声に込められた「感情」や「意味」ごと、空気中に浮かばせないように設計されていた。


言葉は出せる。けれど、誰にも届かない。


家族間のケンカもなかっただろう。近所迷惑もなかったはずだ。

だが同時に、叫んでも助けも来ない。涙声も、笑い声も、全て――


なかったことにされる。


僕はぞっとして、あらためてリビングを見渡した。


そこには、やはり写真でしか見えない“ことばたち”が、

壁や床や家具の隙間に、染みのように漂っていた。


沈黙とは、必ずしも平和ではない。


この家は、その証拠だった。



取材を終えた帰り道、僕はスマートフォンのカメラロールを見返していた。


あの家の中で撮った写真は、どれも不気味な静けさを孕んでいた。

空気の揺れも光の反射も、まるで時間が止まったような質感だった。


だが、最後の一枚――

玄関先で振り返って撮ったショットだけが、何か違っていた。


それは、僕が「ありがとうございました」と言葉を発した瞬間に撮った写真だった。


画面の中の女性は、静かにお辞儀をしていた。

その背後の空間――空気の中に、ほんの一瞬だけ何かが形を成している。


まるでそこに、“音の亡霊”のようなものが写っていた。


歪んだ波紋のような、煙のような。

けれどそれは、確かに僕の言葉に対する応答の痕跡のように見えた。


僕はそっとスマートフォンをスリープにし、ポケットへと戻す。


言葉は、ときに刃になる。

ときに救いになる。

そしてときに、失われることで意味を持つ。


この世界には、言葉を持たない家がある。

だが、そこにいた人々は、確かに何かを伝え合っていた。


沈黙の中でしか見えないものがある。

そのことを、僕は今回の取材で学んだ気がした。


そして僕は、小さくつぶやく。


「……言葉にできない、とはよく言うけど。

 本当に“言葉にできない場所”があるなんてね」


誰にも届かない、冗談めいた独り言だったが、

その言葉だけは、確かに僕自身の中で反響していた。


【終】

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