「風見鶏の首」
風見鶏。
様々な表現があるが一言でいうなら風向きを知るための装置だ。
十字に交差した方位に沿って、鶏のかたちをした矢羽根が風を受けて回る。
最も風が当たる方向に尾が向き、くちばしが風の来た方向を指し示す。
天気予報が当たり前になった今では見かけることも珍しい古来の人類の知恵を詰め込んだ装置の一つ。
今となってはそんな叡智の結晶はただの飾りに過ぎないのかもしれない。
だが、とある地域では風見鶏には“邪気を祓う”という信仰的な役割もあるという。
風に乗ってやってくる“ナニカ”を防ぐために。
あるいは、“ナニカ”が風にまぎれて逃げないように。
だから僕は、あの屋敷の屋根にあった風見鶏を見たとき、妙に納得してしまった。
そいつはくるくると回るその体とは裏腹に、首だけがいつも、風とは正反対の方向を向いていたからだ。
それはまるで――「風の向こう側を見張っている」ように。
世の中には、風と違う方向を向く者がいる。
それが気まぐれなのか、意志なのか、あるいは……何かから目を逸らすためなのか。
◇
その屋敷は、都心から電車を乗り継いで二時間ほどの、山沿いの町にあった。
大正期に建てられたらしい洋館で、今はもう空き家になって久しい。
とはいえ取り壊される予定もなく、地元では“文化財的ななにか”としてなんとなく保存されているようだった。
「風見鶏ですか? ああ、あれは……前から、ちょっと変なんですよ」
地元の案内人に連れられて到着した屋敷の前で、僕はまず屋根の先端を見上げた。
そこには、確かに風見鶏があった。
風を受けて羽根のついた矢印部分がくるくると回っている。が――
鶏の“首”だけが、動かない。
いや、それどころか、風の向きとは明らかに逆を向いている。
「風が東から吹いてるのに、あいつ、ずっと西向いてるんですよ。不気味でしょ」
案内人は軽く笑ったが、僕は少しも笑えなかった。
風見鶏の首は、まるで何かを凝視しているように、一定の方向を向き続けている。
その方向を辿ると――ちょうど、この屋敷の裏山に通じる獣道がある。
僕はスマートフォンを取り出し、屋根をズームして写真を撮った。
何枚かシャッターを切り、ふと画面を確認した瞬間、喉がつまった。
――風見鶏の首がこちらを見ていた。
正確には、カメラ越しに撮影された写真の中で、だ。
屋根の上の実物は変わらず山のほうを向いているのに
写真の中のそれだけが、はっきりと僕の正面を睨んでいた。
◇
「……もともとはね、火除けのつもりで取り付けたらしいですよ、あの風見鶏」
案内人の話によると、あの洋館はかつて大きな火災に見舞われたことがあるという。
屋敷の裏山から延焼したもので、当時は山全体が火に包まれたそうだ。
「ほら、ここから見える山。あそこに“不動尊”が祀られててね、火除けの神様なんですよ」
「だけど、そのときは不動明王様の祠も焼けちゃって……まあ、誰も祟りだとかは言いませんでしたけど」
火災のあと、屋敷の持ち主だった名家の当主が、知人の彫金師に頼んで“火除けの象徴”として風見鶏を作らせたという。
以来、屋敷には火事ひとつ起きていない。
「ただね、その当主さん……あの火事のあと、突然姿を消したんですよ。あれも妙な話でね」
「家族は『旅に出た』とか『療養に行った』って言ってましたけど、結局どこにも見つかってない」
火災で焼けたのは裏山、風見鶏は屋敷の屋根、そしてその“首”は――今もなお、焼けた山のほうを見続けている。
僕は再びスマートフォンを開き、先ほど撮った写真を拡大してみた。
首は、やはりこちらを見ていた。
しかしその目が、今はほんの少し、笑っているように見えた。
◇
事務所に戻った夜、僕はパソコンに写真を取り込み、モニターで拡大した。
風見鶏の首は、やはり“僕のカメラ”を見ていた。
いや、違う。
その視線は、もっと奥――写真の奥にある“何か”を見ていた。
試しに画像加工ソフトで明度を上げ、ノイズ処理を加えていくと、奇妙なものが浮かび上がってきた。
屋敷の屋根、風見鶏の背後に……燃えさしのような黒い影がいくつも見える。
それは焦げた木の枝のようであり、人の腕のようでもあり、
まるで、こちらに手を伸ばしているかのようだった。
――写真の中に入る能力。
僕は久々に、その力を使うことにした。
写真を手に取り、深く息を吸う。
心の中に潜り込むように、視界が沈む。
◇
次の瞬間、僕はあの屋敷の屋根に立っていた。
どういう原理か自分自身わかっていないが僕には”写真の中に入る”という些か不自然で不可解な能力が備わっている。
どんな代償を払わせられているのかわからないのにも関わらず、不可解な現象と対峙した際には有り難く利用させてもらっていた。
写真の中。
風は静かだった。
風見鶏の体はゆっくり回っているが、首だけが、まるで“意志”を持つかのようにこちらを向いている。
僕の足元、屋根瓦の隙間から、すすけた手が何本も生えていた。
「……まだ、燃えているのか」
手はぎしぎしと軋みながら、僕の脚を掴もうとする。
そのとき、風見鶏の首が、ぐるりと回った。
――裏山の方向を、見ていた。
僕も振り返る。するとそこには、かつての祠の跡があった。
瓦礫の間に埋もれるようにして、ひとつの白骨化した骸骨が、仰向けに横たわっていた。
その手には、焦げた金属の破片――風見鶏の首と同じ素材が握られていた。
◇
僕は写真の中から戻ると、もう一度、屋敷の風見鶏を調べに行くことにした。
表向きは取材の追加確認。だが、本当の目的は、あの“首”の中身だ。
屋敷の管理人に頼んで屋根裏を開けてもらい、風見鶏の基部へとアクセスする。
内部は想像よりも精巧で、彫金というよりは彫像に近い細工だった。
――風見鶏の胴体は風を受けて自由に回るが、首の部分だけが別軸で固定されていた。
「こりゃあ……普通の風見鶏とは全然違いますねぇ。どうやって回してるんでしょうね」
僕はドライバーを借り、首の付け根を慎重に開けた。
中には、何か詰まっていた。
焦げた鉄片のようなもの。いや、違う。
それは“義眼”だった。
小さな金属の球体の中に、焼け焦げた人間の義眼が埋め込まれていた。
……まるで、“見続けるために”設計された部品。
僕は背筋が凍るのを感じた。
火災で姿を消した当主。
山中で見つけた白骨遺体。
握られていた金属片。
そして、この義眼。
――風見鶏の首には、彼の“目”が埋め込まれていた。
だとしたら、あの首がこちらを見たのは、錯覚なんかじゃない。
あれは、本当に“こちらを見ていた”のだ。
そしてその目は、いまもなお――
焼けた祠と、再び炎を呼び込まぬよう、何かを見張り続けている。
◇
風見鶏は、今もなお屋敷の屋根の上に立っている。
体はくるくると風に任せて回りながら、首だけが、背を向けたまま動かない。
その姿は、まるで何かを拒むようでもあり、何かを守るようでもある。
僕は義眼をそのまま戻し、風見鶏の首を元通りに閉じた。
――あれは、取ってはならないものだ。
“風を読むため”ではなく、“風の向こうを見張るため”に、あの首は存在している。
屋敷を出ると、強い風が頬を打った。
いつもなら、風の向く先に目を凝らす僕が、ふと背後を振り返る。
背中に冷たい視線を感じた気がしたからだ。
だが、振り返っても誰もいない。
あるのは、風にそよぐ木々と、遠くに小さく見えるあの屋敷だけ。
風は前を向けと囁き、風見鶏は背を向けろと告げていた。
◇
世の中には、風と逆の方向を向く者がいる。
流れに逆らって進む者、見てはならぬものを見つめる者。
それは“意志”の表れなのか、“祈り”の名残なのか。
少なくとも、あの首が見ていたのは、過去でも未来でもない。
いまこの瞬間、再び起こり得る“炎”の兆しだったのだろう。
……僕が知っている限り、あの風見鶏の首は今もなお、風には従わず、誰かを見張り続けている。
【終】




