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「終わらない階段」

「部屋に帰れなかった」と彼は言った。


男は仕事帰り、いつも通りマンションの外階段を上っただけだ。

エレベーターは面倒だから使わない。運動のためにも階段を選ぶ。いつも通り。


それが、彼の日常だった。


しかし、その日だけは違った。


いくら階を上っても、自分の部屋が現れなかった。


それは、番号が消えていたのでも、ドアが壊れていたのでもない。


扉はちゃんとあった。部屋番号も並んでいた。


ただ——自分の部屋番号だけが、永遠に訪れなかった。


彼の語りは、終始静かだった。

声を荒げることも、感情的になることもない。


だからこそ、僕にはその話が、ひどく現実味を帯びて聞こえた。



その日も彼は、いつも通りの時間に帰宅した。


 駅から歩いて十二分。

 コンビニで缶ビールと惣菜を買い、片手に袋を提げながらマンションの外階段を上る。

 3階。部屋番号は303。

 たかだか三十段ほどの階段。何百回も上り下りしてきた道のりだ。


 最初に違和感を覚えたのは、階段の途中だった。

 妙に踊り場が長く感じた。

 それでも男は何も考えずに足を進める。


 ひとつ、またひとつと踊り場を抜けるたびに、扉と部屋番号が現れる。


違和感を覚え、男は踊り場に立ち止まる。

階段を見下ろすが特段変わったところはない。


フロアの表示プレートにはわかりやすく”4F”を表示している。


しまった。


最初は無意識に階段を登るうちに登りすぎてしまったのだろうと簡単に考えていた。


 ——疲れてるのだろうか。

早く部屋でくつろぎたいと考えて何度も登っている階段。

一度たりと登りすぎたことはない。なんなら4階の



 そう思い直し、彼は階段を下りはじめる。

 しかし、次に現れた踊り場の壁に記された階数表示を見て、足が止まった。


2F。

4階から1階分しか下がっていないのにフロアを表示するプレートは現在地が2階であることを意味している。

男が直面した異変はそれだけではなかった。

このマンションは建物の構造上ワンフロアに4つの部屋が存在する建物だ。


 「201」

 その次が——「202」

 そして、「204」


 ——203も、303も、そもそも「3階」そのものがない。



 彼の視線が壁を探る。

 目を凝らす。

 プレートの取り外された跡もない。

 階段はスムーズに次の階へと続いている。

 無理矢理詰めたような痕跡すらない。


 構造自体が——“最初から3階を欠いた形”で作られているようだった。


 男は背筋に冷たい汗を感じながら、再び階段を上る。

 次の踊り場を目指して。

 そして、そこにあって然るべき「303」があると信じて。


 だが次のプレートには「401」の数字。

 さらに上れば「402」「404」と続く。


 「403」も、やはりない。



 男は気づく。

 この階段は“意図的に”、あるいは“構造的に”、

 「3」という数字を含む部屋と階を丸ごと排除している。


 そう——まるで最初から、そこだけが「存在しなかった」かのように。



 男は、踊り場の手すりにもたれかかりながら、しばらく動けなかった。


 「……俺の部屋がない…」


 自問の声が、むなしく階段にこだまする。

 だが、その問いに即答できない自分がいた。


 契約書には確かに「303」と書かれていた。

 ポストにも「303」とあったはずだ。

 会社の住所録にも、友人とのメッセージ履歴にも。


 だが、今は——なにもかもが不確かだった。



 ポケットからスマートフォンを取り出し、履歴を探る。

 メッセージアプリを開く。

 だが、そこに住所を送った形跡はなかった。


 カメラロールを開く。

 部屋の写真はある。風呂も、冷蔵庫も、自分のベッドも写っている。

 しかし、玄関ドアに貼られたプレート——「303」——だけが、ピントが合っていない。


 肝心な数字の部分だけが、妙に滲んで見えた。



 男は、ふと空を見上げた。

 夜の帳が降りはじめ、踊り場の天井灯がひとつ、ちらちらと明滅している。


 「なんで“303”がない…?」


 言葉にした瞬間、体温が急速に引いていくのを感じた。

 背筋を冷たい指先でなぞられるような感覚。

 ここが“自分の住んでいた場所”だったという確信が、ひとつ、またひとつと崩れていく。



 記憶は確かだったはずだ。

 生きていた記憶は間違いなくある。


 だが、その“確かさ”自体が、いまやぐらついていた。


 このマンションの中で、ひとつの階がなかったことにされている。

 あったはずの”人が住んでいるという存在”は消失してしまっていた。

 その階に住んでいたはずの自分も、もしかすると——。



しだいに空は暗くなり、マンションの踊り場にある照明も完全に点灯した。

 男は階段を降り、今度は他の部屋の住人を頼ろうと決めた。


 まずは「202」。

 インターホンを押す。


 ……応答はない。


 もう一度、長押しする。


 ……無音。


 気を取り直して「204」へ。

 続いて「402」「404」「502」……

 押しても、押しても、誰からも返答はなかった。



 不審に思い、耳を近づける。

 中からの生活音は一切ない。

 テレビの音も、足音も、換気扇の音すら——無音だった。


 それでも確かに、部屋は“ある”。

 ドアが並んでいて、表札もあり、ポストにはチラシが刺さっている。


 ただそこに、“住んでいる人間の気配”だけがない。


 男は声を張った。


 「すみません! 誰か、いませんか!」


 返ってくるのは、風と電灯のかすかなノイズだけ。


 そのとき、不意に背後の階段から「コッ……」と靴音が響いた。


 男は振り返る。


 誰もいない。


 ただ踊り場の明かりがひとつ、またひとつ、ゆっくりと消えていった。


 上から順に。


 まるで、何かが降りてきているかのように——。




 男は、息を呑んだまま階段を見上げた。


 ——さっきまで、あんなに明るかったのに。


 上の階から順に、階段の踊り場の灯りが一つずつ、静かに、確実に消えていく。

 蛍光灯の「パチン」という切れる音すらない。

 ただ、淡く灯っていた光が、空気に溶けるように失われていくのだった。


 「……おかしい。おかしいだろ……」


 思わず口に出した声すら、自分の耳には遠く感じた。


 足を動かそうとしても、膝がわずかに震えるだけ。

 階段の手すりを握りしめた掌には、じっとりと汗がにじんでいた。



 パチ……

 また一つ、灯りが消える。


 あと三段。

 すぐそこまで、何かが来ている。

 見えないのに、わかる。

 それは音でも気配でもなく、空気の密度が変わったことによって知覚された“何か”だった。


 「やばい……やばい……」


 踊り場からドアノブを乱暴に回す。鍵はかかっている。

 インターホンを連打しても反応はない。


 そしてとうとう、男の立つ階の灯りも——消えた。


 完全な暗闇。


 耳鳴りのような静寂。


 数秒遅れて、携帯のライトを点けようとポケットに手を伸ばす。

 だが、スマホは——ない。


 さっきまで持っていたはずのスマホが、どこにもなかった。


 自分の記憶も、所持品も、少しずつ“侵されている”気がした。


 男は、光のない階段を、ただ一心に駆け下りた。

 足音だけがコツコツと響く。

 だが、何階まで降りても、出口がない。


 1階が来ない。地上が来ない。地下も現れない。


 踊り場の階数表示は「501」「502」「504」……「601」……「701」。


 ——まるで世界が、階段の構造を無限に増幅しはじめたかのようだった。


 男は、息を呑んだまま階段を見上げた。


 ——さっきまで、あんなに明るかったのに。


 上の階から順に、階段の踊り場の灯りが一つずつ、静かに、確実に消えていく。

 蛍光灯の「パチン」という切れる音すらない。

 ただ、淡く灯っていた光が、空気に溶けるように失われていくのだった。



「……終わらない。どこまでいっても終わらない……」


 男の喉は乾ききっていた。

 舌の上がざらついて、呼吸のたびに喉が焼けた。


 何階まで降りたのか、もう数えていない。


 踊り場の壁に記された階数表示は、今や「1304」などという、ありえない数になっていた。

 何百段も降りているのに、未だに1階にはたどり着かない。



 ふと、ある階の踊り場で立ち止まる。

 ドアがひとつ。色あせた銀色のプレートに、手書きのような数字。


 「303」


 心臓が跳ねた。


 「……俺の部屋……?」


 近づいてドアノブに手をかけた——その瞬間、背後の階段から、ぬちゃりと湿った音がした。



 振り向く。


 暗闇の中、輪郭のはっきりしない何かが階段の角から覗いていた。

 黒いシルエット。人の形に似ているが、影絵のように平面で、明らかにこちらを見ている。


 ——棒人間だ。


 いや、違う。

 あれはもっと薄くて、もっと粘ついていて、重力から自由な何か。



 男は慌ててドアを開けようとするが、ノブはびくともしない。

 階段の奥から、何かが這いずるような音が、少しずつ近づいてくる。


 「やめろ……こっちに来るな……!」


 男は踊り場を駆け上がる。ひとつ上へ、さらに上へ。

 だが、階段は下へ向かって延び続ける。

 上に行こうとするたびに、景色が裏返り、なぜかまた下の階に戻ってしまう。


 世界は完全に階段の論理に支配されていた。


 それは建築物ではない。

 この階段は、“空間の形をした意志”だった。


 そしてその意志は、男をどこまでも引き留めようとしていた。



もはや、何段目かも、何階かも分からない。


 踊り場の数字は、唐突に「海へ」と書き換えられていた。

 「702」「703」……そう続いていたはずの表示が、海へ。


 男はもう、正常な感覚を保てていなかった。

 脚は棒のように重く、意識は膨張と収縮を繰り返している。



 それでも、その文字の前で彼は足を止めた。

 直感的に「そこが出口かもしれない」と思ったからだ。


 ドアを開ける。

 重たい金属の音。ゆっくりと、錆びた蝶番が軋む。


 ——その先は、青い空と、水面のように揺れる白い床だった。


 遠くに波の音が聞こえる。

 いや、違う。音ではない、記憶のなかの波音だった。



 床はコンクリートのようでいて、たしかに揺れていた。


 その空間には、他に誰もいない。


 ただ一枚の、写真が落ちていた。



 拾い上げる。

 それは、男と、その娘と思われる幼い少女が、海辺で笑っているスナップだった。


 だが男は、自分にそんな娘がいた記憶などない。



 ふと、写真の中の自分が、微かに動いたような気がした。

 笑っていた男が、こちらを見ている。


 “戻ってこいよ”


 そう言っているように、口元が動いた。



 背後で、また階段の音がした。

 ぬちゃり。ぬちゃり。


 あの“もの”が、まだ降りてきている。


 男は写真を握りしめ、ゆっくりと立ち上がる。


 空へと続くその白い踊り場を、彼は歩き始めた。


 目の前には、扉がもうひとつあった。


 そこには、ただひとこと。


 「あなたの部屋」——そう書かれていた。



男は「あなたの部屋」と書かれた扉を開けた。

 そこには、確かに彼の部屋があった。


 ソファも、冷蔵庫も、窓の外の風景も、全部“見覚えのある”ままだ。


 だが、何かが違う。



 テレビをつけても、音が出ない。

 冷蔵庫を開けると、空っぽの缶詰が山のように並んでいる。

 カーテンの隙間から見えるはずの景色には、窓がない。


 男は、自分の部屋に帰ってきたはずなのに、

 そこにはもう——生活の手触りがなかった。



 そして部屋の中央に置かれた、小さなテーブルの上に、見覚えのない手紙があった。


 開くと、こう書かれていた。


「おかえり」




 あの部屋は、今もあの男が住んでいるかもしれない。

 あるいは、階段が生んだ幻だったのかもしれない。


 3階が存在しないというのは、よくある構造上の迷信にすぎない。

 だが、もしあなたの住むマンションに「3階」がないのなら——

 それは何かを隠すために、消された階なのかもしれない。


 


 そして、階段を上るたび、降りるたびに少しだけ、

 あなたの「帰る場所」が変質しているとしたら——


 ……笑えない話だ。


【終】

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