「仮名の神様」
名前には、力がある。
呼べば返事が返る。書けば姿が思い浮かぶ。
名前があるというだけで、人も物も、世界の中で確かに“位置”を持つことができる。
だが、この世には——
呼んではならない名前というものも存在する。
僕が取材に訪れた山間の村には、そんな神が祀られていた。
名を記すことも、口にすることも、禁じられた存在。
代わりに住人たちは、こう呼ぶ。
「あのかた」「さま」「ひとつのもの」
そして、神の名が記されたはずの石碑は、
文字だけが跡形もなく、風に削られていた。
◇
訪れた村には鳥居がなかった。
神社のような建物もない。
代わりに、集落の集会所の裏手にぽつんと置かれた木箱のような祠がある。
高さは大人の胸ほど。古びた板張りで、側面には小さな隙間。
中を覗こうとしたが、暗くて何も見えなかった。
「……それが、“さま”のおわすところです」
案内してくれた女性は、やや年配の住人だった。
控えめに頭を下げ、祠の前にそっと線香を置く。
「お名前は?」
僕が聞くと、彼女は少しだけ困った顔をした。
「……わたしたちは、“さま”とだけ。
本当のお名前は、ずっと前に封じられていて……今ではもう、誰も」
言葉の末尾は濁されたが、その響きには敬意と、わずかな恐れが混ざっていた。
⸻
村に古い神が祀られているのは珍しくない。
だが、その名前の一切が伝わっていないというのは、些か異質だった。
境内がない。御札も、書きつけもない。
あるのは“仮の名”と、日々の祈りだけ。
なぜか、この祠の周囲だけ、空気がわずかに湿っていた。
◇
僕は取材を兼ねて、村の各所を歩いていた。
平屋の軒先では老人が囲碁を打ち、川沿いでは子どもたちが虫を追いかけている。
見た目には穏やかで、閉鎖的な空気はない。
だが、名前を尋ねると、誰もがわずかに沈黙した。
「え……ああ、わたしは……うん、たしか……」
「えっと、名前、ね……昔から呼ばれてるあだ名ならあるけど……」
「すまんね、年のせいか、うまく出てこんよ」
年齢や記憶力の問題とは違う。
“口にしようとするたびに、何かが引っかかる”ような沈黙だった。
⸻
集会所の奥には、年代物の帳面が保管されていた。
僕はこの村に祀られている”ナニカ”の記録がないかと図々しく見せてもらう事にした。
こういう場合村民の反応は大きく二つに分かれる。
警戒し渋られるか、歓迎され快く迎えられるか。この村では後者だった。
出してもらった茶を啜り、分厚い年季の入った帳面の埃を払いながらページをめくる。儀式や年中行事の記録に混ざって、ひときわ薄い墨で書かれた一節が目に入った。
「あのかたの御名は、書にあらわすべからず。
もしあらわしたる者あらば、その記しの主は“御名の代わり”となるべし」
記録を残そうとすれば、“神の名”と引き換えに“自分の名”が抜け落ちる。
そういう意味に読めた。
実際、帳面の裏には何人かの署名があったが、その多くは姓しか書かれていなかった。
名の部分だけが、墨が滲んだように潰れていた。
◇
その異変に気づいたのは、宿に戻った夜だった。
取材メモをまとめようと、ノートにペンを走らせた。
冒頭、いつも通り「記録:一ノ瀬一二三」と書く——はずだった。
“一”の字の途中で、ペン先が止まった。
線がうまく引けない。指が震えているわけではないのに、
何度書こうとしても、漢字の形がまとまらない。
試しに音声メモを録音する。
「こちら、一ノ瀬……い、いち……」
口が動いているのに、録音したデータを再生すると**“名前の部分だけが無音になっている”。**
自分の名が、音でも文字でも、外部に出力されなくなっていた。
⸻
不安になり、名刺入れからカードを取り出す。
印刷された文字は問題ない。だが、見つめているうちに読み方を忘れかけているのがわかる。
それでも僕は、“まだ完全には消えていない”と確信していた。
何かが、この村に来てから、僕の名前を外に出させまいとしている。
まるで、“代わりに”記すつもりだった神の名前のぶんまで、僕の名前を削っていくように。
◇
村の外れ、小道を抜けた先に、それはあった。
苔むした石碑。
人の背丈ほどの高さで、かつて何かが刻まれていた痕跡だけが残る。
文字はすべて風化し、削り落とされたように滑らかだった。
地元の若い住人が、ぽつりと口にした。
「あそこは、“神さまの名が刻まれてしまった場所”なんです。
でも、文字を記した人たちはみんな……気づいたら、自分の名を言えなくなってて」
誰が最初に刻んだのかは分からない。
ただ、その後、何人もが神の“真の名”を記そうとして、代わりに自分の名前を失っていったという。
「それで、もう誰も書かなくなったんです。
書いたら、呼べなくなる。呼べなくなったら、残らない」
名が記されるたびに、それを記した者の“名”が代償として消える。
それがこの神の“契約”だった。
⸻
僕はノートを開いた。
ページの端に、かすれた文字で「一ノ瀬一二三」とだけ記されていた。
自分の手で書いたはずの文字が、すでに他人の書いたもののように遠かった。
でも、ここで名前を失えば、僕は僕でなくなる。
◇
その晩、僕はノートを閉じ、録音機器の電源を落とした。
取材メモも下書きも、すべて封筒にしまい、机の引き出しへ押し込む。
“記録する”という行為が、この神にとっては侵入そのものだったのだ。
名を与えられ、語られることで力を持つ——
それは言霊信仰の基本に近い。
だからこそ、“仮名”しか許されなかったのだ。
ならば、これ以上の記録は不要だ。
僕はそれを、自分の中にだけ残すことにした。
誰にも読まれず、誰にも聞かれず、
けれど確かに、“ここに存在していた”という記憶。
⸻
翌朝、村を出るとき、祠の前にもう一度立った。
木の箱にそっと頭を下げ、僕はただ一言だけつぶやいた。
「あなたの名は、呼びません。でも、忘れません。」
◇
名前とは、記録されることで残るものだと思っていた。
けれどこの村の神は、記録されないことによって生き続けていた。
呼ばれない名。書かれない名。
それでも、人々の間で祈りと共に息づいていた。
名は力だ。
でも、呼ばれなかった力が、いちばん静かで、いちばん強いこともある。
【終】




