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「仮名の神様」

名前には、力がある。


呼べば返事が返る。書けば姿が思い浮かぶ。

名前があるというだけで、人も物も、世界の中で確かに“位置”を持つことができる。


だが、この世には——

呼んではならない名前というものも存在する。


僕が取材に訪れた山間の村には、そんな神が祀られていた。

名を記すことも、口にすることも、禁じられた存在。


代わりに住人たちは、こう呼ぶ。


「あのかた」「さま」「ひとつのもの」


そして、神の名が記されたはずの石碑は、

文字だけが跡形もなく、風に削られていた。



 訪れた村には鳥居がなかった。


 神社のような建物もない。

 代わりに、集落の集会所の裏手にぽつんと置かれた木箱のような祠がある。

 高さは大人の胸ほど。古びた板張りで、側面には小さな隙間。

 中を覗こうとしたが、暗くて何も見えなかった。


「……それが、“さま”のおわすところです」


 案内してくれた女性は、やや年配の住人だった。

 控えめに頭を下げ、祠の前にそっと線香を置く。


「お名前は?」


 僕が聞くと、彼女は少しだけ困った顔をした。


「……わたしたちは、“さま”とだけ。

 本当のお名前は、ずっと前に封じられていて……今ではもう、誰も」


 言葉の末尾は濁されたが、その響きには敬意と、わずかな恐れが混ざっていた。



 村に古い神が祀られているのは珍しくない。

 だが、その名前の一切が伝わっていないというのは、些か異質だった。

 境内がない。御札も、書きつけもない。

 あるのは“仮の名”と、日々の祈りだけ。


 なぜか、この祠の周囲だけ、空気がわずかに湿っていた。



 僕は取材を兼ねて、村の各所を歩いていた。

 平屋の軒先では老人が囲碁を打ち、川沿いでは子どもたちが虫を追いかけている。

 見た目には穏やかで、閉鎖的な空気はない。


 だが、名前を尋ねると、誰もがわずかに沈黙した。


「え……ああ、わたしは……うん、たしか……」

「えっと、名前、ね……昔から呼ばれてるあだ名ならあるけど……」

「すまんね、年のせいか、うまく出てこんよ」


 年齢や記憶力の問題とは違う。

 “口にしようとするたびに、何かが引っかかる”ような沈黙だった。



 集会所の奥には、年代物の帳面が保管されていた。

 僕はこの村に祀られている”ナニカ”の記録がないかと図々しく見せてもらう事にした。

 こういう場合村民の反応は大きく二つに分かれる。

警戒し渋られるか、歓迎され快く迎えられるか。この村では後者だった。

 出してもらった茶を啜り、分厚い年季の入った帳面の埃を払いながらページをめくる。儀式や年中行事の記録に混ざって、ひときわ薄い墨で書かれた一節が目に入った。


「あのかたの御名は、書にあらわすべからず。

 もしあらわしたる者あらば、その記しの主は“御名の代わり”となるべし」


 記録を残そうとすれば、“神の名”と引き換えに“自分の名”が抜け落ちる。

 そういう意味に読めた。


 実際、帳面の裏には何人かの署名があったが、その多くは姓しか書かれていなかった。

 名の部分だけが、墨が滲んだように潰れていた。



その異変に気づいたのは、宿に戻った夜だった。


 取材メモをまとめようと、ノートにペンを走らせた。

 冒頭、いつも通り「記録:一ノ瀬一二三」と書く——はずだった。


 “一”の字の途中で、ペン先が止まった。


 線がうまく引けない。指が震えているわけではないのに、

 何度書こうとしても、漢字の形がまとまらない。


 試しに音声メモを録音する。


「こちら、一ノ瀬……い、いち……」


 口が動いているのに、録音したデータを再生すると**“名前の部分だけが無音になっている”。**


 自分の名が、音でも文字でも、外部に出力されなくなっていた。



 不安になり、名刺入れからカードを取り出す。

 印刷された文字は問題ない。だが、見つめているうちに読み方を忘れかけているのがわかる。


 それでも僕は、“まだ完全には消えていない”と確信していた。


 何かが、この村に来てから、僕の名前を外に出させまいとしている。

 まるで、“代わりに”記すつもりだった神の名前のぶんまで、僕の名前を削っていくように。



 村の外れ、小道を抜けた先に、それはあった。


 苔むした石碑。

 人の背丈ほどの高さで、かつて何かが刻まれていた痕跡だけが残る。

 文字はすべて風化し、削り落とされたように滑らかだった。


 地元の若い住人が、ぽつりと口にした。


「あそこは、“神さまの名が刻まれてしまった場所”なんです。

 でも、文字を記した人たちはみんな……気づいたら、自分の名を言えなくなってて」


 誰が最初に刻んだのかは分からない。

 ただ、その後、何人もが神の“真の名”を記そうとして、代わりに自分の名前を失っていったという。


「それで、もう誰も書かなくなったんです。

 書いたら、呼べなくなる。呼べなくなったら、残らない」


 名が記されるたびに、それを記した者の“名”が代償として消える。

 それがこの神の“契約”だった。



 僕はノートを開いた。

 ページの端に、かすれた文字で「一ノ瀬一二三」とだけ記されていた。

 自分の手で書いたはずの文字が、すでに他人の書いたもののように遠かった。


 でも、ここで名前を失えば、僕は僕でなくなる。



その晩、僕はノートを閉じ、録音機器の電源を落とした。

 取材メモも下書きも、すべて封筒にしまい、机の引き出しへ押し込む。


 “記録する”という行為が、この神にとっては侵入そのものだったのだ。

 名を与えられ、語られることで力を持つ——

 それは言霊信仰の基本に近い。

 だからこそ、“仮名”しか許されなかったのだ。


 ならば、これ以上の記録は不要だ。

 僕はそれを、自分の中にだけ残すことにした。


 誰にも読まれず、誰にも聞かれず、

 けれど確かに、“ここに存在していた”という記憶。



 翌朝、村を出るとき、祠の前にもう一度立った。

 木の箱にそっと頭を下げ、僕はただ一言だけつぶやいた。


「あなたの名は、呼びません。でも、忘れません。」




名前とは、記録されることで残るものだと思っていた。


けれどこの村の神は、記録されないことによって生き続けていた。


呼ばれない名。書かれない名。

それでも、人々の間で祈りと共に息づいていた。


名は力だ。

でも、呼ばれなかった力が、いちばん静かで、いちばん強いこともある。


【終】

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