「しあわせの鈴」
幸運には、形がない。
だからこそ、人はそれを何かに結びつけたがる。
四つ葉のクローバー、赤い糸、流れ星。
あるいは——鈴の音。
鈴は、鳴らすためにあるのではない。
誰かに気づいてもらうために、鳴る。
僕があの鈴を拾ったとき、それは確かに幸運を呼び込んだ。
だが、そのときの僕はまだ気づいていなかった。
運が良くなった分、僕の中から何かが失われているということに。
◇
取材帰りの夕暮れ、駅前のロータリーで信号待ちをしていたときだった。
何気なく足元を見下ろすと、アスファルトの隙間に小さな鈴が落ちていた。
金色の根付鈴。
丸みのある形状に、ごく細い紐。
まるで誰かのバッグやスマホに付いていたものが、ちぎれて落ちたかのようだった。
何気なく拾い上げる。
手のひらに乗せて揺らすと、鈴の音はやけに深く、耳の奥に残る。
高い音ではない。
どちらかといえば、沈むような“重い音”。
拾い上げた瞬間、横断歩道の信号は青に変わる。
目の前で人波が切れ、ちょうどタイミングよくタクシーが止まる。
何でもない偶然の重なり。
だがそのときは、なぜか思った。
「運がいい」と。
鈴は何気なくポケットにしまった。
この鈴があんなに小さくて軽いものだったとは、今ではもう思えない。
◇
翌日から、細かい幸運は続いた。
コンビニのくじで景品が当たり、
行きつけの喫茶店ではアイスコーヒーがなぜかサービス。
電車はホームに足を踏み入れた途端にちょうど到着し、
原稿の締切も、編集部の都合で“自然に延びた”。
どれも些細なことだ。
だが不思議と、それらが連続して起きていることに気づいたとき、僕はあの鈴を思い出した。
気まぐれにPCで検索をかけてみる。
「 鈴 幸運」
思ったより多くのヒットがあった。
匿名掲示板や、まとめブログのコメント欄。
なかには5年以上前の書き込みもある。
“駅前で鈴を拾ってから、運がよくなった”——
そんな話が、いくつも転がっていた。
だが、すべての書き込みが肯定的だったわけではない。
「拾ったけど何も起こらなかった」
「なんか気味が悪くて捨てた」
「あれ、誰が落としたか調べたほうがいい。拾ってから妙な夢を見る」
そして、ある投稿だけが引っかかった。
「たしかに拾ったはずなのに、
誰に話しても“そんなことなかった”って言われる。
俺、本当に拾ったんだよな……?」
僕はふと、机の上に置いたままだった鈴を見た。
金色は変わらず、鈍く光っている。
だが、揺らしても——もう音は鳴らなかった。
◇
その夜、古い取材ノートを整理していると、妙な違和感に気づいた。
ページの端に書き残されていたメモ。
「郊外の団地」「郵便受けの中の異物」「録音機材に写り込んだ声」
日付、概要、場所の記録はある。
だが——相手の名前が抜けている。
思い返しても、顔も声も浮かんでこない。
いつもなら、少し目を閉じれば会話の断片や、取材時の空気がよみがえるのに、
この件に限っては、ただ“記録がある”だけで、記憶がまるごと空白だった。
さらに不自然だったのは、そのページにだけ、何度も書き直した跡があること。
名前を消しては書き、書いては塗り潰しているような筆圧の変化。
「なぜ……この人の名前を忘れてる?」
忘れたというより、“削られた”ような感覚。
自分の意志ではないところで、記憶のどこかが滑り落ちたような。
ふと、ポケットに手を入れる。
鈴がある。触れる。
だが、そこには最初に感じた重さすらなかった。
ただの飾りのような質感。
もう鈴ではなく、“何かを交換した証”にしか思えなかった。
◇
僕は、かつての自分の取材記事を読み返していた。
クラウドに保存されていた非公開フォルダ。
その中に、“下書きだけ残っている”取材原稿がひとつあった。
タイトルも未入力。
本文には、冒頭だけが記されていた。
「彼は、こう言った——“幸せって、人からもらえるんですね”」
それきり、文は途切れていた。
保存日時は、ちょうど1年前。
その週、僕は取材先から一度戻ったあと、急な風邪で寝込み、スケジュールをすべて白紙にした。
その時期、何を取材していたか。
誰に会っていたか。
誰を“書くはずだったか”。
……思い出せなかった。
◇
鈴を机の上に置く。
見た目は変わらない。
でも、僕にはそれがもう**“誰かの名前の抜け殻”にしか見えなかった**。
あの言葉が、頭の中で響く。
「幸せって、人からもらえるんですね」
もしそうだとしたら——
僕が今、得ている運の良さは、誰かが受け取るはずだったものではなかったか。
締切が延びたのは、誰かの努力が無にされたから。
景品が当たったのは、本来別の誰かの番号だったから。
そうして“ずらされた幸運”の先で、
僕は誰か一人分の痕跡を、記憶から追い出していた。
◇
翌朝、僕は鈴をポケットに入れて、駅前へ向かった。
いつものロータリー。
誰も気に留めない足元の隙間に、僕はそっとあの鈴を戻した。
それだけで、空気がほんの少し変わった気がした。
騒がしさでも、静けさでもない。
ただ、空白だった何かが、埋まるような感覚。
そのまま事務所に戻り、何の気なしに古いノートを開く。
数日前まで“空白”だったページ。
そこに、うっすらと書き込みの跡が浮かび上がっていた。
擦れた筆跡。消えかけた文字。
名前が、あった。
——杉山 壮一
写真も音声も残っていない。
でも、確かに取材した記憶が少しずつ戻ってくる。
穏やかに話す人だった。
古いラジオを修理するのが趣味で、コーヒーの味にうるさかった。
そうだ。
あの言葉を言ったのは、彼だった。
「幸せって、人からもらえるんですね」
◇
鈴の音は、誰かの“代わり”で鳴っていた。
幸運は誰にでも訪れる。
だが、その“重さ”を知らなければ、いつか誰かを踏み台にしてしまうかもしれない。
今、足元に転がるその鈴が、
次に誰のポケットに入るのかはわからない。
ただ願う。
その音に、ちゃんと“気づく耳”が届きますように。
【終】




