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「しあわせの鈴」

幸運には、形がない。


だからこそ、人はそれを何かに結びつけたがる。

四つ葉のクローバー、赤い糸、流れ星。

あるいは——鈴の音。


鈴は、鳴らすためにあるのではない。

誰かに気づいてもらうために、鳴る。


僕があの鈴を拾ったとき、それは確かに幸運を呼び込んだ。


だが、そのときの僕はまだ気づいていなかった。

運が良くなった分、僕の中から何かが失われているということに。



取材帰りの夕暮れ、駅前のロータリーで信号待ちをしていたときだった。

 何気なく足元を見下ろすと、アスファルトの隙間に小さな鈴が落ちていた。


 金色の根付鈴。

 丸みのある形状に、ごく細い紐。

 まるで誰かのバッグやスマホに付いていたものが、ちぎれて落ちたかのようだった。


 何気なく拾い上げる。

 手のひらに乗せて揺らすと、鈴の音はやけに深く、耳の奥に残る。


 高い音ではない。

 どちらかといえば、沈むような“重い音”。

 拾い上げた瞬間、横断歩道の信号は青に変わる。

 目の前で人波が切れ、ちょうどタイミングよくタクシーが止まる。


 何でもない偶然の重なり。

 だがそのときは、なぜか思った。


「運がいい」と。


 鈴は何気なくポケットにしまった。

 この鈴があんなに小さくて軽いものだったとは、今ではもう思えない。



翌日から、細かい幸運は続いた。


 コンビニのくじで景品が当たり、

 行きつけの喫茶店ではアイスコーヒーがなぜかサービス。

 電車はホームに足を踏み入れた途端にちょうど到着し、

 原稿の締切も、編集部の都合で“自然に延びた”。


 どれも些細なことだ。

 だが不思議と、それらが連続して起きていることに気づいたとき、僕はあの鈴を思い出した。


 気まぐれにPCで検索をかけてみる。


「 鈴 幸運」


 思ったより多くのヒットがあった。


 匿名掲示板や、まとめブログのコメント欄。

 なかには5年以上前の書き込みもある。

 “駅前で鈴を拾ってから、運がよくなった”——

 そんな話が、いくつも転がっていた。


 だが、すべての書き込みが肯定的だったわけではない。


「拾ったけど何も起こらなかった」

「なんか気味が悪くて捨てた」

「あれ、誰が落としたか調べたほうがいい。拾ってから妙な夢を見る」


 そして、ある投稿だけが引っかかった。


「たしかに拾ったはずなのに、

 誰に話しても“そんなことなかった”って言われる。

 俺、本当に拾ったんだよな……?」


僕はふと、机の上に置いたままだった鈴を見た。

 金色は変わらず、鈍く光っている。

 だが、揺らしても——もう音は鳴らなかった。



その夜、古い取材ノートを整理していると、妙な違和感に気づいた。


 ページの端に書き残されていたメモ。

 「郊外の団地」「郵便受けの中の異物」「録音機材に写り込んだ声」

 日付、概要、場所の記録はある。

 だが——相手の名前が抜けている。


 思い返しても、顔も声も浮かんでこない。

 いつもなら、少し目を閉じれば会話の断片や、取材時の空気がよみがえるのに、

 この件に限っては、ただ“記録がある”だけで、記憶がまるごと空白だった。


 さらに不自然だったのは、そのページにだけ、何度も書き直した跡があること。

 名前を消しては書き、書いては塗り潰しているような筆圧の変化。


「なぜ……この人の名前を忘れてる?」


 忘れたというより、“削られた”ような感覚。

 自分の意志ではないところで、記憶のどこかが滑り落ちたような。


 ふと、ポケットに手を入れる。

 鈴がある。触れる。

 だが、そこには最初に感じた重さすらなかった。


 ただの飾りのような質感。

 もう鈴ではなく、“何かを交換した証”にしか思えなかった。



 僕は、かつての自分の取材記事を読み返していた。

 クラウドに保存されていた非公開フォルダ。

 その中に、“下書きだけ残っている”取材原稿がひとつあった。


 タイトルも未入力。

 本文には、冒頭だけが記されていた。


「彼は、こう言った——“幸せって、人からもらえるんですね”」


 それきり、文は途切れていた。

 保存日時は、ちょうど1年前。

 その週、僕は取材先から一度戻ったあと、急な風邪で寝込み、スケジュールをすべて白紙にした。


 その時期、何を取材していたか。

 誰に会っていたか。

 誰を“書くはずだったか”。


 ……思い出せなかった。




 鈴を机の上に置く。

 見た目は変わらない。

 でも、僕にはそれがもう**“誰かの名前の抜け殻”にしか見えなかった**。


 あの言葉が、頭の中で響く。


「幸せって、人からもらえるんですね」


 もしそうだとしたら——

 僕が今、得ている運の良さは、誰かが受け取るはずだったものではなかったか。


 締切が延びたのは、誰かの努力が無にされたから。

 景品が当たったのは、本来別の誰かの番号だったから。


 そうして“ずらされた幸運”の先で、

 僕は誰か一人分の痕跡を、記憶から追い出していた。



翌朝、僕は鈴をポケットに入れて、駅前へ向かった。


 いつものロータリー。

 誰も気に留めない足元の隙間に、僕はそっとあの鈴を戻した。


 それだけで、空気がほんの少し変わった気がした。

 騒がしさでも、静けさでもない。

 ただ、空白だった何かが、埋まるような感覚。


 そのまま事務所に戻り、何の気なしに古いノートを開く。


 数日前まで“空白”だったページ。

 そこに、うっすらと書き込みの跡が浮かび上がっていた。


 擦れた筆跡。消えかけた文字。


 名前が、あった。


 ——杉山すぎやま 壮一そういち


 写真も音声も残っていない。

 でも、確かに取材した記憶が少しずつ戻ってくる。

 穏やかに話す人だった。

 古いラジオを修理するのが趣味で、コーヒーの味にうるさかった。


 そうだ。

 あの言葉を言ったのは、彼だった。


「幸せって、人からもらえるんですね」



鈴の音は、誰かの“代わり”で鳴っていた。


幸運は誰にでも訪れる。

だが、その“重さ”を知らなければ、いつか誰かを踏み台にしてしまうかもしれない。


今、足元に転がるその鈴が、

次に誰のポケットに入るのかはわからない。


ただ願う。

その音に、ちゃんと“気づく耳”が届きますように。


【終】

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