「家系図」
記録は、忘れないために行われる。
紙に書かれた名前、年表に刻まれた日付。
石に彫られた文字。
それらは人の記憶とは違い、劣化しても変質することはない。
だが稀に例外が存在する。
ごく稀に“記録の方から”先に滑り落ちてしまうことがあるという。
僕が受け取った一枚の古い家系図。
そこに記されていた名を、僕は知らなかった。
いや——
知らないはずだった。
◇
遠縁の親戚が亡くなり、僕は数年ぶりに実家近い寺での葬式に出席した。
格式ばった場ではなかったが、どこか落ち着かない空気が流れていた。
焼香を終えた後、控え室で祖母に呼び止められた。
一ノ瀬千歳。僕の祖母であり、怪異の師。占い師や霊媒師をやってるが僕自身は彼女が何をやっているのか詳細はよく知らない。聞いても「私はペテン師だよ」としか言わないのでいつの日か聞くのをやめてしまった。
「一二三、ちょっと手伝ってほしいだけどどいいかい」
お伺いの程をとったお使い。僕が幼少期の頃から祖母はお使いにノーと言わせない。祖母の中で僕へのお使いは確定事項だった。
どれだけ経っても祖母の僕への扱いは変わらない。
彼女が渡してきたのは、茶色い紐で閉じられた細長い包み。
布を開くと、中から古い巻物型の家系図が出てきた。
「伯母さんの部屋から見つかったのよ。誰か整理できる人がいたらと思って……」
“誰か”とは言うもののきっと最初から僕に頼むつもりだったのだろう。
祖母の頼みを引き受け、僕は家系図を広げた。
墨で丁寧に記された血縁。名前の連なり。
しかし、ある一点で手が止まった。
自分の欄のすぐ上、
“一ノ瀬 了”という名前が兄として記されていた。
見たことのない名。聞いた覚えのない名。
だが、違和感と共に、懐かしさにも似た感覚が胸の奥に残った。
“一ノ瀬 了”
「……その子のこと、覚えてる人が誰もいないのよ。
この子がそれを望んだのか。それとも何者かがそうしたのか。今となっちゃ知る術はもうないのさ」
祖母は歯切れが悪そうに少し目を伏せてそう言った。
自称ペテン師の祖母がそんな風にいうのは珍しかった。
怪異や異形の類の師でもある祖母は僕の記憶の中ではいつもこういった類には寄り添い、理解し、折り合いをつけていた。
“一ノ瀬 了”
この名前を見るのも聞くのも初めてだ。
しかし、頭の片隅で腹の奥底で何かを思い出しそうな気がする。思い出しそうだが何を思い出そうとしてるのかがわからない。僕は奇妙な感覚に微妙な気持ち悪さを覚えた。
そして、彼について祖母はもう何も教えてはくれなかった。
“この子がそう望んだのか。それとも何者かがそうしたのか。”
祖母の言葉を何度も頭の中を駆け巡る。
彼のことを僕は僕だけはきっと忘れちゃいけない気がした。
◇
翌日、僕は実家の仏間にいた。
親戚たちにそれとなく“了”という名前を出してみた。
「一ノ瀬了? ……そんな子いたかしら?」
「いや、聞いたことないな。兄弟なんていたか?一人っ子だったろ?」
「了って字、なんか変な感じするな。なんでだろう……?」
否定する者はいても、断言できる者はいなかった。
その中で、親族の1人が首を傾げながら言った。
「“誰もいなかった”って言い切るには、ちょっと怖いのよ。
どうしてだか、夢に出てきた気がしてね。
——真っ黒な髪で、後ろ姿だけの子。
振り返らなかったけど、“知ってる子”って、確信があったの」
古いアルバムを開いてみても、写真の端に妙な切れ目があることに気づく。
集合写真。運動会。自宅での食卓。
誰かがいたはずのスペースが、絶妙に“余白”として残されていた。
そして、1枚だけ、破られた写真があった。
家族4人が並んでいる構図——だが、破られているのは一番左側だけ。
それは、おそらく撮影者ではない。
誰かが、そこにいた“誰か”だけを外した写真だった。
認識してる。
一ノ瀬家の人間は彼の存在を知っていた。
一ノ瀬了。
その輪郭はちゃんと世界に存在していた。
◇
その夜、僕は久しぶりに夢を見た。
懐かしい家の廊下。少しだけ床が軋む古い木材。
ふすまの隙間から、誰かの足が見えている。
細身で、僕より少しだけ背が高い影。
その人影は、無言で廊下を歩いていく。
廊下の先の、かつて子ども部屋だったあの部屋へ。
僕はなぜか、それが“兄”であることを疑わなかった。
影の背中に向かって、声をかけようとする。
けれど、口が動かない。喉も震えない。
代わりに、彼の背中から声が返ってくる。
「お前がいるから、俺はいないんだよ」
夢は、そこでぷつりと途切れた。
◇
朝、目を覚ますと、胸の奥に何かが沈んでいた。
誰かと遊んだ記憶。
誰かとけんかした記憶。
誰かの名をノートの隅に書いていた記憶。
——でも、その“誰か”だけが曖昧なままだった。
机の上に、あの家系図を広げる。
“了”の名前を指でなぞると、紙の表面がわずかに熱を帯びているように思えた。
記録の中に、彼は確かにいる。
なのに、記憶の中では、影のように輪郭だけが残されている。
◇
数日後、僕は地元の市役所を訪れた。
目的は、一ノ瀬家の戸籍を確認すること。
家系図に記されていた“了”という名が、本当に存在したかを確かめるためだった。
窓口の職員に申し出ると、端末を確認していた彼の手が止まる。
「……申し訳ありません。
こちらの戸籍には“一部観覧制限”が設定されています」
「制限?」
「はい。ご本人、もしくは“制限解除権を持つ親族”でなければ詳細は閲覧できません。
一部の記録は“例外扱い”として、通常の家族でも確認できないことがあるんです」
そんな制度があっただろうか?
いや、制度上は存在していても、身内であれば説明付きで開示されるはずだ。
だがその“例外”という言葉が、すべてを遮っていた。
「ちなみに、制限されている項目に“了”という名前が含まれていたりは……?」
職員は一瞬、答えに迷う素振りを見せたあと、小声で言った。
「……正確にはお答えできませんが、
“閲覧履歴上”、その名に関する記録が存在していた痕跡はあります。ただ、申し訳ありませんが詳細はお伝え出来かねます。」
この時点で、僕は確信した。
了は、ただ忘れられたのではない。
“誰かの手によって思い出せないようにされた”存在だ。
◇
事務所の机に家系図を広げる。
古びた巻物の紙は、すでに何度も指を滑らせた跡で柔らかくなっていた。
墨で記された名の連なりの中に、
“一ノ瀬 了”という文字だけが、静かに浮かび上がって見えた。
彼の名前は、戸籍にも記録にも、もう存在しない。
家族の誰も覚えていない。
けれど、確かに“そこにいた”。
祖母の言葉が、何度も脳裏に響く。
“この子がそう望んだのか。それとも何者かがそうしたのか。”
僕は新しいノートを開きその一行目に彼の名前を書いた。
一ノ瀬 了
書き終えた瞬間、ノートのページがふっと揺れた。
窓や扉が開いて風が入ってきたわけじゃない。きっと机に足か何かがぶつかって振動が伝わっただけだと思ったが、なんとなくこの文字列を残しておいてはいけないような気がした。
いま書いたばかりの文字列を塗りつぶし、僕はそっとノートを閉じた。
部屋の空気はわずかに軽くなった気がした。
まるで、“それでいい”と誰かが言ってくれたように。
◇
忘れられた名前は、なかったことになる。
記録されなければ、語られなければ、思い出されなければ——
その存在は、誰にも引き継がれないまま消える。
だから僕は、書き残す。
たとえそれが、どこにも届かない独り言だったとしても。
それが、記憶と記録の境目に立つ僕の、小さな役割だと思っている。
【終】




