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「かえってきた手紙」

手紙というものは、奇妙なメディアだ。


声でもなければ映像でもない。

書いた時点の思考が、封じ込められたまま、後日届く。


送ったはずの誰かも、受け取る誰かも、同じ人間である保証はない。


だからこそ、手紙は“時間を越える”のだと思う。


僕のもとに届いた手紙には、こう書かれていた。


「これを読んでいるのが、“お前”であることを願う。

 だが万が一、別の誰かなら——どうか、この地図だけは、決して広げないでほしい。」



郵便受けの中に、その封筒は混じっていた。

 ごくありふれた白封筒。宛名は「一ノ瀬一二三」。手書きで、癖のある字だった。

 見覚えのある筆跡。

 僕自身の、それも“昔の書き方”そのままだった。


 差出人欄にも同じ名前はあった。

 「一ノ瀬一二三」——僕が、僕に宛てて手紙を出した。

 しかしそんなものを出した覚えは一切ない。


 室内に戻り、封を切る。

 中には、一枚の便箋と、折り畳まれた紙片が入っていた。


 便箋には、見開き一面にびっしりと文字が書かれている。

 冒頭には奇妙な文脈が記されていた。


「これを読んでいるお前が、“あの場所”に行っていないことを願う。

 行ってしまったのなら、この手紙にはもう意味はない。

 この記録は、“まだ間に合う”お前に向けて書いている。そうでないなら捨てて構わない。」


 手紙の内容は簡単な箇条書きだった。

 これから起こる取材先の出来事。

 予兆となる現象。

 危険の兆し。

 そして最後に——


「この地図の場所だけには、絶対に近づくな。

 お前は“そこで選ぶことになる”。それが、すべての分岐点」


 地図を開く手は微かに震えていた。

身に覚えはまるでない。だが、この手紙は間違いなく僕の字でどうしようもなく疑いようがないほど僕が自分自身に宛てた手紙だった。



 手紙に記されていた最初の出来事は、「公園の池で起きる波紋の異常」だった。

 取材予定にはなかったが、気になって立ち寄ってみた。


 平日の昼下がり、誰もいない公園。

 澄んだ水面に、ぽつり、ぽつりと波紋が広がっていた。

 風もない。鳥もいない。

 何も落ちていないのに、等間隔で波紋だけが生まれ続けていた。


 それは、手紙に書かれていた通りだった。


「池には“音のない波”が現れる。

 それが見えたら、次の場所にはもう行かない方がいい。

 行けば、“会ってしまう”。」


 “会ってしまう”——誰と?

手紙によると僕は誰か会うらしい。今日僕の予定では誰かと会う予定もつもりもない。


 だが、その後も手紙に記された“異常”は次々と現実になった。

 電車の車内で、突然停止する時計。

 神社の裏手に誰もいないはずなのに揺れる絵馬。

 街頭スピーカーから一瞬だけ流れた聞き覚えのない“自分の声”。


 これらはどれも、手紙の内容では取材の過程で“起こるはずだったもの”だった。

 だが僕は、まだ何もしていないのに、それらは順番に起こり始めていた。


 つまりこの手紙は、未来の報告書ではない。

 この手紙が届いた瞬間から、“未来がこの手紙通りに進み始めた”ということだ。



 そして、未開封の地図の中だけが、まだ“発生していない”領域だった。




 この日以来、僕は意図的に地図に記されていた“その場所”を避け続けていた。

 何度も行きかけては引き返し、地図を折りたたみ、見なかったふりをした。

 けれど、世界のほうが、僕をそこへ引き寄せる。


 取材の帰り道。

 気づけば、知らない路地を歩いていた。

 見覚えのない建物。真新しいはずなのに、妙に古びた匂いがする舗装。

 立ち止まり、スマホの地図を見る。

 ピンが示していたのは——例の手紙の地図と、ぴたり一致する場所だった。


 僕は息を飲み、ポケットからあの紙片を取り出した。

 今見ている道と、そこに描かれた通りの曲がり角。電柱。張り紙。

 完全に一致している。


 なのに——


 そこだけ、何も書かれていない。


 他の箇所には詳細な注意書きが添えられていたのに、

 この場所だけが、真っ白な余白のままだった。


 次の瞬間、背後から声がした。


「もう来てたのか。お前は……やっぱり早いな」


 振り返ると、そこには男が立っていた。

 黒いジャケット、手には折り畳まれた封筒。

 そして、僕とまったく同じ顔。


 ——僕だった。



自分とまったく同じ顔をした男。

 でも、そこには確かに“違い”があった。

 目の奥にある微かな疲労と、何かを諦めた者の静けさ。


「お前……は…」


 問いかけに、男はわずかに笑った。

 その笑みすら、僕自身が浮かべたことのあるものだった。


「正確には、“選ばなかった方の俺”だな。

 お前が手紙を書かなかった場合の俺。

 この場所で、すべてを忘れようとした人間だ」


 ——思い出した。


 以前、ある場所で、記憶を“意図的に封じる”儀式の話を聞いた。

 忘れることで、怪異から逃れられるという禁じられた手法。

 僕はその取材をやめ、原稿も書かず、記憶ごとその出来事を封じたはずだった。


 「それじゃあ、あの地図は……?」


「あれは、お前が俺にならないための“再選択”だ。

 お前は、記憶を残すことを選び直すか、それとも——

 ここで、すべてを失って俺になるか」


 男の手には、もう一通の手紙が握られていた。

 それは、これから僕が“書かなければならないはずだった手紙”。


 どちらを選ぶかは、僕次第だという。

 だが、時間はあまり残されていない。

 記憶が、ゆっくりと擦り切れ始めている。

 “この場所”に長くいるだけで、輪郭が薄れていくのがわかった。



 夜明け前のポストは、赤というより鉄の棺のようだった。


 僕は、封をした手紙をそっと投函口に滑り込ませた。

 手が震えていたのは、寒さのせいではない。

 この手紙を出すことで、自分が“誰であるか”を選び直したのだという実感が、骨に染みていた。


 手紙の中身は、簡潔だった。

 未来の自分へ。あるいは、過去の誰かへ。


「お前が何を忘れたとしても、

 この場所だけは、覚えていてくれ。

 記憶を手放すことで救われるなら、それも一つの選択だ。

 でも僕は、“書き残すこと”を選ぶ。

 そうしなければ、痛みすら本当に消えてしまう気がするから。」


 ポストの中で、手紙がカシャンと音を立てて落ちた。


 空は白みはじめていた。

 もう一人の自分の姿は、いつのまにか消えていた。

 代わりに、手元には新しい封筒が残されていた。

 差出人も、宛名も書かれていない。

 でも僕は、その中に何が書かれているか、もうわかっていた。



手紙は、未来を変えるために送るものじゃない。

手紙は、過去を失わないために書く。


そしていつか誰かがそれを開き、

忘れかけていた自分を思い出す日が来るかもしれない。


それだけで、書いた意味はある。



【終】

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