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「サフランの種」

たまに考えることがある。

もし、あのとき別の道を選んでいたら——

今とはまるで違う自分が、どこかに存在していたのだろうか、と。



人生は選択の連続だ。

一つの選択肢を選べば、もう一方は永遠に消える。


けれど、本当にそれは消えているのだろうか。

誰にも見えなくなっただけで、もうひとつの“自分”は、どこかに存在し残っているのかもしれない。


僕の元に届いた、小さな種。

サフランの名を冠したそれは、こう語っていた。


「あなたが咲かせたとき、もう一つの人生が目を覚ます」と。



封筒には差出人の記載がなかった。

 白いクラフト紙に、硬く貼られた封蝋。

 中には、小さな黒い種がひと粒だけと、厚手の便箋が一枚。なんの変哲もなんの個性もないただの封筒だった。


 事務所のポストに入っていた見慣れない封筒。その

便箋には、丁寧な筆致でこう書かれていた。


「この種を土に植え、水を与えてください。

 その夜、あなたは“もう一つの人生”に触れることができます。

 一度きりの選択です。芽が出るまでは、現実には戻れません。」


 そして、裏には植物名が記されていた。


サフラン(Crocus sativus)


 手に取ると、ほんのわずかに香りがする気がした。

 スパイスや薬草のような、どこか懐かしい香り。


 普通ならこういう類の贈り物は無視するのが一番だ。

 しかし僕は、その夜、自室のベランダにあるプランターの土を掘っていた。


 なぜそうしたのか自分でもよくわからない。

 ただ、その種が“咲かせてほしがっている”ように思えたのだ。



深夜二時。

 ふと目が覚めたとき、室内の空気が妙に柔らかくなっていることに気づいた。

 あのプランターの方から、微かな香り。


 照明もつけず、窓を開けてベランダに出る。

 夜気は冷たいはずなのに、そこだけは温室のように湿っていた。普段は起きている事がない時間帯、いつもと違う表情の自室には心地の良い風が吹き込んだ。

 寝ぼけ眼でふとプランターの方を気にするる

 プランターの中心からは——細く紫の花弁が顔を覗かせていた。


 サフラン。

 本来、育つには季節も時間もかかるはずだ。

 けれど、その花はわずか数時間で芽吹いた。


 それを見た瞬間、僕の視界はふっと黒く落ちた。



 次に目を覚ましたとき、僕は別の部屋にいた。

 机。時計。壁の本棚。いつかどこかで見たような、でも確かに今までの生活とは違う空間。


 スマホを手に取ると、ロック画面の写真が目に入った。

 笑顔の僕と、隣にいる女性——見覚えのない他人のはずなのに、胸の奥がほんのり温かい。


 僕はその女性を知っている。

名前は知っている。彼女のことも、仕事のことも、ここでの人間関係も。

 なぜなら、この人生を僕は“選ばなかっただけ”で、ちゃんと歩んでいたからだ。


 これはもう一つの人生。

 あの時あの道を選んでいたら、僕はこの世界にいた。

 この世界では、怪異も記憶も取材も、なかったのかもしれない。


この世界は、過不足がない。僕にとって当たり前。僕にとって日常な出来事がこの世界には広がっていた。


 仕事は編集者。

 職場には理解ある同僚と、口うるさいが面倒見のいい上司。

 家に帰れば、いつも先に湯が沸いていて、

 誰かが「おかえり」と言ってくれる場所がある。


 何もかもが“整っていた”。


 けれど、ある朝、夢を見た。


 濃い影に満ちた家屋。ひび割れた鏡。誰かの泣き声。

 そして、カメラを持った自分が、その中に立っていた。


 目が覚めると、手が震えていた。

 怖かったわけじゃない。

 何かを“忘れている”という確信が、体の中心を冷たく通り抜けていったのだ。


 その日から、世界に“綻び”が現れはじめた。


 駅のホームで聞こえた知らない声が、僕の名前を呼んだ気がした。

 コーヒーの味が、妙に“薄い”と感じる瞬間が増えた。

 そして夜、眠りに落ちる前の数秒——

 ベランダのプランターに、咲ききらないサフランの蕾が見えた気がした。


 この人生は、あまりにも都合がよすぎる。

 ここはまるで、“僕が望んだ通り”に設計されていた。

 僕は今幸せだ。適度に忙しく適度な目標がある。

 ふとたまに考える。この人生で僕は何を失っているのだろうかと。



ここでの日々は、現実と幻の境目は、思っていたより脆かった。

本当は気づいていたのかもしれない。

毎回気のせいだと言い聞かせ、きっと疲れているのだと自分に言い聞かせていた。

 ある日、通勤電車の窓に映る自分の顔が、一瞬“見覚えのない表情”に変わる。

 会社のパソコンに残された資料に、自分が書いた覚えのない文章があった。

 “記憶”は明確なのに、“違和感”が”今の日常”に侵食してくる。


 ある夜、書斎の引き出しの奥から、一冊のノートが出てきた。

 装丁は見覚えがない。けれど、中の筆跡は僕のものだった。


 一ページ目にはこう書かれていた。


「好奇心は猫をも殺す」


 その文を読んだ瞬間、胸の奥に強烈な違和感と、懐かしさと、恐怖が一斉に芽吹いた。


 怪異の話。

 写真の中に入った記憶。

 怪異の専門家に遺体写真家。

 炎の中に立っていた男。

 花になろうとした人々。

 そして、僕がずっと“見てきたもの”。

 全部、失ったはずだった記憶が、急激に戻りはじめていた。


 ——この世界は、僕が選ばなかった未来だった。


 けれど、それを選ばなかったのには理由がある。

 僕は誰かの痛みを知ってしまったのだ。

 誰かが見て見ぬふりをした傷を知ってしまったのだ。

 その痛みを書き残すために、その傷が癒えるように僕は“元の人生”を選んだのだ。


 すっかり忘れてしまっていた自分自身の脈動を。

 僕は僕自身によって思い出してしまった。



朝。

 目を開けると、見慣れた天井があった。

日付は記憶してた日よりも3日ほどズレていた。


 天井のシミ、壁に掛けた時計、冷えた空気。

 戻ってきた。ここは僕の“本当の”現実。


 立ち上がってベランダに出る。

 そこには、昨日と変わらない鉢植えがある。

 ただ一つ違うのは——


 サフランの花は、満開になっていた。


 細く伸びた茎の先に、深い紫の花弁がいくつも重なっている。

 陽を浴びて、わずかに揺れていた。

 まるで、こう言っているかのようだった。


 ——おかえり、と。


 胸の奥に、少しだけ空虚が残っている。

 あの“選ばなかった幸福”は、確かに存在した。

 手を伸ばせば届きそうなほど近くにあった。

 それでも僕は、ここに戻ることを選んだ。



選ばなかった人生は、もう一つの自分だった。

でもそれは、あまりにも“整いすぎた世界”だった。


傷や迷いがあるからこそ、誰かの痛みに触れることができる。

その訴えることを拒まれた痛みを言葉にするために、僕は戻ってきた。


サフランは咲いた。

サフランからのたった一度の贈り物は、

いま歩んでいるこの道をもう一度選ぶための灯だった。


【終】




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