「サフランの種」
たまに考えることがある。
もし、あのとき別の道を選んでいたら——
今とはまるで違う自分が、どこかに存在していたのだろうか、と。
人生は選択の連続だ。
一つの選択肢を選べば、もう一方は永遠に消える。
けれど、本当にそれは消えているのだろうか。
誰にも見えなくなっただけで、もうひとつの“自分”は、どこかに存在し残っているのかもしれない。
僕の元に届いた、小さな種。
サフランの名を冠したそれは、こう語っていた。
「あなたが咲かせたとき、もう一つの人生が目を覚ます」と。
◇
封筒には差出人の記載がなかった。
白いクラフト紙に、硬く貼られた封蝋。
中には、小さな黒い種がひと粒だけと、厚手の便箋が一枚。なんの変哲もなんの個性もないただの封筒だった。
事務所のポストに入っていた見慣れない封筒。その
便箋には、丁寧な筆致でこう書かれていた。
「この種を土に植え、水を与えてください。
その夜、あなたは“もう一つの人生”に触れることができます。
一度きりの選択です。芽が出るまでは、現実には戻れません。」
そして、裏には植物名が記されていた。
サフラン(Crocus sativus)
手に取ると、ほんのわずかに香りがする気がした。
スパイスや薬草のような、どこか懐かしい香り。
普通ならこういう類の贈り物は無視するのが一番だ。
しかし僕は、その夜、自室のベランダにあるプランターの土を掘っていた。
なぜそうしたのか自分でもよくわからない。
ただ、その種が“咲かせてほしがっている”ように思えたのだ。
◇
深夜二時。
ふと目が覚めたとき、室内の空気が妙に柔らかくなっていることに気づいた。
あのプランターの方から、微かな香り。
照明もつけず、窓を開けてベランダに出る。
夜気は冷たいはずなのに、そこだけは温室のように湿っていた。普段は起きている事がない時間帯、いつもと違う表情の自室には心地の良い風が吹き込んだ。
寝ぼけ眼でふとプランターの方を気にするる
プランターの中心からは——細く紫の花弁が顔を覗かせていた。
サフラン。
本来、育つには季節も時間もかかるはずだ。
けれど、その花はわずか数時間で芽吹いた。
それを見た瞬間、僕の視界はふっと黒く落ちた。
◇
次に目を覚ましたとき、僕は別の部屋にいた。
机。時計。壁の本棚。いつかどこかで見たような、でも確かに今までの生活とは違う空間。
スマホを手に取ると、ロック画面の写真が目に入った。
笑顔の僕と、隣にいる女性——見覚えのない他人のはずなのに、胸の奥がほんのり温かい。
僕はその女性を知っている。
名前は知っている。彼女のことも、仕事のことも、ここでの人間関係も。
なぜなら、この人生を僕は“選ばなかっただけ”で、ちゃんと歩んでいたからだ。
これはもう一つの人生。
あの時あの道を選んでいたら、僕はこの世界にいた。
この世界では、怪異も記憶も取材も、なかったのかもしれない。
◇
この世界は、過不足がない。僕にとって当たり前。僕にとって日常な出来事がこの世界には広がっていた。
仕事は編集者。
職場には理解ある同僚と、口うるさいが面倒見のいい上司。
家に帰れば、いつも先に湯が沸いていて、
誰かが「おかえり」と言ってくれる場所がある。
何もかもが“整っていた”。
けれど、ある朝、夢を見た。
濃い影に満ちた家屋。ひび割れた鏡。誰かの泣き声。
そして、カメラを持った自分が、その中に立っていた。
目が覚めると、手が震えていた。
怖かったわけじゃない。
何かを“忘れている”という確信が、体の中心を冷たく通り抜けていったのだ。
その日から、世界に“綻び”が現れはじめた。
駅のホームで聞こえた知らない声が、僕の名前を呼んだ気がした。
コーヒーの味が、妙に“薄い”と感じる瞬間が増えた。
そして夜、眠りに落ちる前の数秒——
ベランダのプランターに、咲ききらないサフランの蕾が見えた気がした。
この人生は、あまりにも都合がよすぎる。
ここはまるで、“僕が望んだ通り”に設計されていた。
僕は今幸せだ。適度に忙しく適度な目標がある。
ふとたまに考える。この人生で僕は何を失っているのだろうかと。
◇
ここでの日々は、現実と幻の境目は、思っていたより脆かった。
本当は気づいていたのかもしれない。
毎回気のせいだと言い聞かせ、きっと疲れているのだと自分に言い聞かせていた。
ある日、通勤電車の窓に映る自分の顔が、一瞬“見覚えのない表情”に変わる。
会社のパソコンに残された資料に、自分が書いた覚えのない文章があった。
“記憶”は明確なのに、“違和感”が”今の日常”に侵食してくる。
ある夜、書斎の引き出しの奥から、一冊のノートが出てきた。
装丁は見覚えがない。けれど、中の筆跡は僕のものだった。
一ページ目にはこう書かれていた。
「好奇心は猫をも殺す」
その文を読んだ瞬間、胸の奥に強烈な違和感と、懐かしさと、恐怖が一斉に芽吹いた。
怪異の話。
写真の中に入った記憶。
怪異の専門家に遺体写真家。
炎の中に立っていた男。
花になろうとした人々。
そして、僕がずっと“見てきたもの”。
全部、失ったはずだった記憶が、急激に戻りはじめていた。
——この世界は、僕が選ばなかった未来だった。
けれど、それを選ばなかったのには理由がある。
僕は誰かの痛みを知ってしまったのだ。
誰かが見て見ぬふりをした傷を知ってしまったのだ。
その痛みを書き残すために、その傷が癒えるように僕は“元の人生”を選んだのだ。
すっかり忘れてしまっていた自分自身の脈動を。
僕は僕自身によって思い出してしまった。
◇
朝。
目を開けると、見慣れた天井があった。
日付は記憶してた日よりも3日ほどズレていた。
天井のシミ、壁に掛けた時計、冷えた空気。
戻ってきた。ここは僕の“本当の”現実。
立ち上がってベランダに出る。
そこには、昨日と変わらない鉢植えがある。
ただ一つ違うのは——
サフランの花は、満開になっていた。
細く伸びた茎の先に、深い紫の花弁がいくつも重なっている。
陽を浴びて、わずかに揺れていた。
まるで、こう言っているかのようだった。
——おかえり、と。
胸の奥に、少しだけ空虚が残っている。
あの“選ばなかった幸福”は、確かに存在した。
手を伸ばせば届きそうなほど近くにあった。
それでも僕は、ここに戻ることを選んだ。
◇
選ばなかった人生は、もう一つの自分だった。
でもそれは、あまりにも“整いすぎた世界”だった。
傷や迷いがあるからこそ、誰かの痛みに触れることができる。
その訴えることを拒まれた痛みを言葉にするために、僕は戻ってきた。
サフランは咲いた。
サフランからのたった一度の贈り物は、
いま歩んでいるこの道をもう一度選ぶための灯だった。
【終】