「燃えない写真」
火は、すべてを平等に奪う。
形があり存在するものは全て——焼き尽くされれば、形を失う。それで終わりだ。
古来より人は火で燃やす事に特別な意味を持たせてきた。
過去も、記憶も、言い訳も、祈りも火の肥やしにすることで火がもたらす結果以上のことを期待する。
そして、だからこそ人は「燃え残ったもの」に特別な意味を見出そうとする。
写真。
炭化した壁の隙間から、ただ一枚、無傷のまま見つかったそれは、
記録でも証拠でもなく、記憶そのものだった。
消えきれなかった思いが、そこに閉じ込められている。
——あるいは、焼けることを拒んだ“何か”が、
写真の中で、いまもこちらを見ているのかもしれない。
◇
写真を持ち込んできたのは、顔なじみの古物商だった。
浅黒い肌に無精髭、口癖は「これは気味が悪い」——それを口にする日は、たいてい“当たり”だ。
「これ、どう見てもおかしいんだよ」
彼が差し出したのは、一枚のL判写真。
よくある家族写真。リビングルームで、4人の家族が笑っている。よくある写真だ。
父親と思われる男、母親と思われる女、そして子供が二人。
服装も部屋の雰囲気も、少なくとも10年は前のものに見えた。
けれど、その写真は——まったく焼けていない。
日焼け——という意味ではなく文字通りまったく焼けていない。
見つかった状況からしたら絶対に有り得ない。
存在していることが不自然すぎるほどに焼けてない。
「見つかったのは廃屋の床下さ。
火事で全焼したはずの家の、しかも一番焦げてた部屋の中だ。
他は全部炭なのに、これだけピカピカのまんま。どうかしてる」
彼は写真を指で弄びながら気味の悪さを誤魔化していた。
しかし彼が持ち込んだ写真の裏に書かれた文字はそんなことでは紛らわせないほど意味深が言葉が綴ってあった。
「記録を消すな」
写真の裏には、黒ずんだインクでそう書かれていた。
僕はその文字を見つめながら、確信していた。
職業柄——いや、僕の個人的な特殊な経験上この普通の写真でないことは明らかだった。
これはただの写真じゃない。生きて息をしている。
中に、何かが“生きて残って”いる。生きて存在を残し続けている。思念かはたまた私怨かこればかりは側から見てるだけでは検討はつかない。
◇
写真の中に入る。
僕にはいつからかそんな能力が備わっていた。物心ついたころにはもう使えていた様な気もするが、後天的に備わった様な気もする。
不自然で不可解なこの能力が何故僕に備わっているのか、何のための能力なのか今の僕にそれを知るための術は今の僕にはなかった。
安易に使っていいものなのか何か代償を支払わされているのか。
それはいつの間にか考えないことにしていた。
この能力を使うことで散々嫌な目に遭っていたことから僕はこの能力の使用に些か躊躇いを持っていたこともあった。
「好奇心は猫をも殺す」というが死んでもおかしくないほどの好奇心を僕は未だに手放していなかった。
遺伝なのかそれとも環境なのか結局のところ僕は写真の中の世界に残されたものに興味を持たずにはいられなかった。
◇
写真が持ち込まれて程なくして僕は写真の出どころを辿ってかつての火災現場に足を運んだ。
場所は郊外の住宅地。山に近い斜面に建っていた一軒家。
現在は更地に近く、基礎だけが黒く残っていた。
それ以外に何もなく、それ以外何かが残されている様には見えない。
近所の住民に声をかけると、ぽつぽつと証言は集まった。
「もう5年になるかな。あの家、夜中に燃えたのよ」
「家族全員亡くなったんだって。父親、母親、息子、娘……」
「でも不思議なことがあってね。火が出た原因、最後までわからなかったのよ」
「それと……変な話だけど、最近も夜になるとあの辺から灯りが見えるって人もいるのよ。ほら、窓のあたりに、ちらちらと」
半信半疑で訪れたその夜、
現場には何もなかった——はずだった。
夜、事務所に戻った僕は、あの写真を机の上に置いてじっと見つめた。
何度も確認するが、ただのプリント写真だ。化学的にも特別な加工はされていない。
けれど写真に触れた左手は微かに熱を感じてた。
指先から、紙がじんわりと温まっていくような感触。
まるで、写真の中に“火”がまだ残っているかのように。
視線を写真に向け続けていると、周囲の空気がじんわりと歪み始める。
その瞬間、脳裏にあの言葉が浮かぶ。
——これは、“入れる”写真だ。
深く息を吸い、一歩、意識を沈める。
「記録を消すな」
その言葉は、警告か、願いか。
いずれにせよ、あの写真の中には——終わっていない何かがある。
意識は深く沈み暗転をした。
◇
気づくと僕は写真の中にいた。
鼻先をかすめるのは、焦げ跡ではなく、夕食の煮物の香り。
懐かしいような初めてのようなそんな奇妙な感覚が僕の五感を刺激した。
ここは写真に写っていたリビング。
時計は午後6時半を指している。まだ火の気も騒ぎもない、穏やかな時間の中だ。
家族は、そこにいた。
父親、母親、息子、娘——4人が、夕食の準備をしている。
不思議なことに、彼らは一切、僕の存在に気づいていない。
僕は“この記録の中”では、ただの観測者でしかないらしい。
テレビの音、子供の笑い声、食器の触れ合う音。
あまりにも普通で、あまりにも幸せそうな光景。
けれど、ひとつだけ——違和感があった。
壁にかけられた家族写真の中に、父親の姿がないのだ。
食卓を囲む4人。リビングを飾る写真立ての数々。
どの記録にも、母と子供たちは写っている。
けれど、父親だけが“撮る側”に徹していて、一度も写っていない。
——そして、僕の背後に、誰かの気配があった。
◇
背後に気配を感じた瞬間、空気が変わった。
温かな団らんの空気が、ゆっくりと淀んでいく。
台所の湯気は静まり、テレビの音が途切れ、子供の笑い声が遠のいた。
振り返ると、そこには——男が立っていた。
スーツ姿。背は高く、顔立ちは穏やかだが、目だけが異様に沈んでいる。
手にはカメラ。古いフィルム式の一眼レフ。
彼は何も言わない。ただ、こちらを見ている。
——いや、“レンズ越しに覗いている”。
僕が一歩動くたびに、彼の指がシャッターに触れる。
押されるたび、辺りの景色が“写真の質感”に近づいていく。
色が抜け、音がなくなり、空間が平面になっていく。
「……消えないんだ」
男が、ぽつりと呟いた。
声というより、記憶の底から立ち上るような反響だった。
「何度焼いても、何度撮っても。
ここだけは、燃え残ってしまった」
この男こそが、“燃えない写真”の撮影者”父親”だった。
彼は、家族が火事で死ぬ直前の最後の“幸せだった瞬間”を何度も再現し、
その都度、カメラで撮って——焼いた。
だが、焼き切れなかった。
家族の笑顔を、“写真”という形で閉じ込めようとした執念が、記録そのものに定着してしまったというところだろうか。
父親の姿が、写真に一度も写らなかった理由は、
彼が“見る者”として、永遠にその時間を撮り続けていたから。
——この記録の中で、彼はまだ、シャッターを押し続けている。
記憶を残すために。
燃えたとしても。形がなくなったとしてもそれでも消えなかったものを残し続けるために。
◇
僕は、写真の中で立ち尽くしていた。
父親のカメラから発する乾いたシャッター音が響くたび、世界が紙のように平たくなっていく。
記録が、また上書きをはじめている。
まるでこの空間全体が、一枚の写真になろうとしている。
このままでは、僕自身も“記録”に閉じ込められる。
そう理解しながら、僕はポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
こういう類の写真に初めて出会した時はどうすればいいかわからず戦慄していたことを今でも覚えている。
「すまないな」
そう言いながら僕はスマートフォンの画面を覗く。
団らんの風景、微笑む家族、沈黙の父親。
画面越しに、それらを“今、この瞬間”として撮影する。
カシャ、と乾いた電子音。
瞬間、空気が震えた。
古いシャッター音が途切れ、空間の質感が戻り始める。
新しい写真によって、記録は書き換えられたのだ。
過去ではなく、現在として——“今”の目で記録されたことで、
この封じられた記憶は、ようやく完結を許された。
視界が白く反転し、僕は現実に引き戻された。
◇
入れるが干渉は出来ない。それが良いことなのか悪いことなのかそれともそのどちらでもないのか。そんな不便なようで
便利な能力が誰かの為のものならきっと僕自身の為のものでしかないのだろう。
誰かさんの様に人の無念を晴らしたり、異形と心を通わせるなんて僕個人としてはごめん被る。
ただ一つ僕に出来ることがあるとしたらそれは記録だけでなく記憶の片隅に今日の出来事を置いておくということだけなのかも知れない。
◇
焼けなかったのは、”父親の正体”は後悔だったのかもしれない。
忘れられなかった笑顔。繰り返された記憶。
人は過去を焼き払おうとする。
けれど、火で消せなかったものは、光で上書きするしかない。
記憶は焼けない。
だからこそ、記録には終わりが必要なんだと思う。
僕を無責任と罵る輩もいるだろう。
でもそれでいい。
記録とは良くも悪くもそういうものだ。
【終】