「花になる」
幸せのかたちは、人それぞれだと言う。
財産を持つこと。家族に囲まれること。
誰にも縛られず、自由であること。
けれど、人が“本当の幸せ”について語るとき、
そこには決まって、自分の輪郭を手放すようなニュアンスが含まれている。
苦しみも、記憶も、名前さえも捨てて——
世界に溶け込むように、何かになりたいと願う。
僕がこの目で見たのは、そういう人たちの終わりの形だった。
彼らは、最期にこう言った。
「わたし、花になれるんだって。」
◇
取材帰りの喫茶店で、旧知の記者・島田と会った。
彼は地方紙のベテランで、オカルトめいた話にも食いついてくる数少ない同業者だ。
「悪いな、急に呼び出して」
島田はコーヒーに手をつけず、封筒を僕の前に滑らせた。
中には、行方不明者たちの顔写真が数枚入っていた。
年齢も性別もばらばら。ただ、全員が、ある特定の村に“自発的に”向かっていたという。
「行き先は〇〇県の山奥。地図にギリギリ載ってるような集落だ。
でな、全員、出発前に同じようなことを言ってたんだよ」
島田が指で空中に文字を書く。
「わたし、花になりたいんですってさ」
最初はポエムかスピリチュアル系かと思った。
けれど、奇妙なことに、全員が最後に笑って言い残している。
憔悴や焦燥ではなく、幸福の手前のような、満ち足りた表情で。
「それで消えるんだ。連絡もなしに。
家族も恋人も捨てて、花になりたい、ってさ。……どう思う?」
僕は写真の一枚をじっと見つめた。
その若い女性の口元に、微かに、花びらのような模様が浮かんでいるように見えた。
「……調べてみるよ。実際に行ってみた方が早いだろう」
◇
花の群生地に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿っているのに乾いていて、重たいのに軽い。
何かの記憶を嗅いでしまったような、頭の奥に直接染み込んでくるような匂いだった。
その匂いに包まれているうちに、僕は立っていたことを忘れていた。
気づけば、地面に片膝をついて、ひときわ大きな花の前にしゃがみ込んでいた。
——“見える”。
目の前の花の奥に、まるで他人の人生の断片が浮かび上がる。
小さなアパートの一室、曇った窓、冷えたコンビニ弁当。
独り言のような声が、頭の中に響く。
「もう、疲れたな。
誰かと話すのもしんどいし、誰かに理解されたいとも思わなくなった。
でも、あそこに行けば、“一緒”になれるって聞いたんだ。
個じゃなくなるって。
すごく楽になれるって」
その“声”は花のものだった。
あるいは、花になった誰かの思考の残響。
ふと、別の花に目を向ける。
今度は、子どもの声。
「ママ、パパ、先生、みんなバラバラに違うこと言うけど、
お花の中は、誰も怒らないって。
眠るみたいに、ずっといられるんだって」
彼らは、“なる”ことを選んだ。
逃げたのではなく、融合する幸福を信じて、そこへ還った。
ひとつになりたい。消えたいわけじゃない。
ただ、自分であることをやめたかっただけ。
花の声は、優しく僕を包み込もうとしていた。
まるで、「あなたも、こちらにおいで」と言っているようだった。
◇
気がつくと、足が埋まっていた。
くるぶしまで、土に。
いつのまにか、まっすぐ立っていたはずの足元が、柔らかく飲み込まれていた。
慌てて引き抜こうとするが、抵抗感がある。
引き止めているのは土か、根か、それとも——自分の意思か。
風が吹いた。
辺りの花がいっせいに揺れる。
その揺れが、まるで合図のように見えた。
——今なら、なれる。
君も、こちらに来られる。
記憶を捨てて、輪郭を溶かして、ただひとつの生命に混ざる。
痛みも、恐れも、考えることすらない。
“幸福の形”そのものになれる。
だがそのとき、僕の耳元で、別の声が囁いた。
「忘れないで。
君は“誰か”だった。
誰かであることを、あきらめないで」
その声は、僕自身の記憶だった。
旅の途中で出会った人々、くだらない会話、どうでもいい喧嘩、
意味のない時間たちが、急にいとおしく思えた。
幸福とは、痛みを含む輪郭の中にある。
誰かであることを引き受ける覚悟の中にしか、生まれない。
僕は土を蹴った。
足を引き抜き、花々の海からよろめくように後退した。
花は、何も言わなかった。
ただ、風に揺れているだけだった。
◇
村を離れる朝、あの群生地をもう一度だけ訪れた。
霧が薄く立ちこめていて、花の輪郭は少しぼやけていた。
けれど、確かにそこにいた。
昨日よりも——少しだけ花の数が増えていた。
その中のひとつが、ほんのわずかにこちらを向いているように見えた。
それが誰だったのかはわからない。
ただ、そこに在ることを、否定できなかった。
村の出口で、あの女性が待っていた。
初日に案内してくれた、あの静かな笑顔の人だ。
「よかったんですか? 咲かないで」
その問いかけは、攻撃でも皮肉でもなかった。
ただ、淡々とした確認のようなものだった。
「……僕は、まだ“誰か”でいたいと思っただけです」
彼女は小さく頷いて、背を向けた。
その肩に、小さな花びらが一枚、落ちていた。
◇
人は、幸福のかたちを求めて彷徨う。
痛みがない場所へ、記憶を手放せる場所へ。
けれど、何かを手放すことでしか得られない幸せは、
本当に“幸せ”と呼べるのだろうか。
自分であることの重さに耐えること。
その重さごと、誰かとすれ違って生きていくこと。
僕は、いまのところ——それを“咲かない選択”と呼んでいる。
【終】




