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「花になる」

幸せのかたちは、人それぞれだと言う。


財産を持つこと。家族に囲まれること。

誰にも縛られず、自由であること。


けれど、人が“本当の幸せ”について語るとき、

そこには決まって、自分の輪郭を手放すようなニュアンスが含まれている。


苦しみも、記憶も、名前さえも捨てて——

世界に溶け込むように、何かになりたいと願う。


僕がこの目で見たのは、そういう人たちの終わりの形だった。

彼らは、最期にこう言った。


「わたし、花になれるんだって。」



取材帰りの喫茶店で、旧知の記者・島田と会った。

 彼は地方紙のベテランで、オカルトめいた話にも食いついてくる数少ない同業者だ。


「悪いな、急に呼び出して」

 島田はコーヒーに手をつけず、封筒を僕の前に滑らせた。


 中には、行方不明者たちの顔写真が数枚入っていた。

 年齢も性別もばらばら。ただ、全員が、ある特定の村に“自発的に”向かっていたという。


「行き先は〇〇県の山奥。地図にギリギリ載ってるような集落だ。

 でな、全員、出発前に同じようなことを言ってたんだよ」


 島田が指で空中に文字を書く。


「わたし、花になりたいんですってさ」


 最初はポエムかスピリチュアル系かと思った。

 けれど、奇妙なことに、全員が最後に笑って言い残している。

 憔悴や焦燥ではなく、幸福の手前のような、満ち足りた表情で。


「それで消えるんだ。連絡もなしに。

 家族も恋人も捨てて、花になりたい、ってさ。……どう思う?」


 僕は写真の一枚をじっと見つめた。

 その若い女性の口元に、微かに、花びらのような模様が浮かんでいるように見えた。


「……調べてみるよ。実際に行ってみた方が早いだろう」



花の群生地に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 湿っているのに乾いていて、重たいのに軽い。

 何かの記憶を嗅いでしまったような、頭の奥に直接染み込んでくるような匂いだった。


 その匂いに包まれているうちに、僕は立っていたことを忘れていた。

 気づけば、地面に片膝をついて、ひときわ大きな花の前にしゃがみ込んでいた。


 ——“見える”。


 目の前の花の奥に、まるで他人の人生の断片が浮かび上がる。

 小さなアパートの一室、曇った窓、冷えたコンビニ弁当。

 独り言のような声が、頭の中に響く。


「もう、疲れたな。

 誰かと話すのもしんどいし、誰かに理解されたいとも思わなくなった。

 でも、あそこに行けば、“一緒”になれるって聞いたんだ。

 個じゃなくなるって。

 すごく楽になれるって」


 その“声”は花のものだった。

 あるいは、花になった誰かの思考の残響。


 ふと、別の花に目を向ける。

 今度は、子どもの声。


「ママ、パパ、先生、みんなバラバラに違うこと言うけど、

 お花の中は、誰も怒らないって。

 眠るみたいに、ずっといられるんだって」


 彼らは、“なる”ことを選んだ。

 逃げたのではなく、融合する幸福を信じて、そこへ還った。


 ひとつになりたい。消えたいわけじゃない。

 ただ、自分であることをやめたかっただけ。


 花の声は、優しく僕を包み込もうとしていた。

 まるで、「あなたも、こちらにおいで」と言っているようだった。




気がつくと、足が埋まっていた。


 くるぶしまで、土に。

 いつのまにか、まっすぐ立っていたはずの足元が、柔らかく飲み込まれていた。


 慌てて引き抜こうとするが、抵抗感がある。

 引き止めているのは土か、根か、それとも——自分の意思か。


 風が吹いた。

 辺りの花がいっせいに揺れる。

 その揺れが、まるで合図のように見えた。


 ——今なら、なれる。

 君も、こちらに来られる。

 記憶を捨てて、輪郭を溶かして、ただひとつの生命に混ざる。

 痛みも、恐れも、考えることすらない。

 “幸福の形”そのものになれる。


 だがそのとき、僕の耳元で、別の声が囁いた。


「忘れないで。

 君は“誰か”だった。

 誰かであることを、あきらめないで」


 その声は、僕自身の記憶だった。

 旅の途中で出会った人々、くだらない会話、どうでもいい喧嘩、

 意味のない時間たちが、急にいとおしく思えた。


 幸福とは、痛みを含む輪郭の中にある。

 誰かであることを引き受ける覚悟の中にしか、生まれない。


 僕は土を蹴った。

 足を引き抜き、花々の海からよろめくように後退した。

 花は、何も言わなかった。

 ただ、風に揺れているだけだった。



 村を離れる朝、あの群生地をもう一度だけ訪れた。


 霧が薄く立ちこめていて、花の輪郭は少しぼやけていた。

 けれど、確かにそこにいた。

 昨日よりも——少しだけ花の数が増えていた。


 その中のひとつが、ほんのわずかにこちらを向いているように見えた。

 それが誰だったのかはわからない。

 ただ、そこに在ることを、否定できなかった。


 村の出口で、あの女性が待っていた。

 初日に案内してくれた、あの静かな笑顔の人だ。


「よかったんですか? 咲かないで」


 その問いかけは、攻撃でも皮肉でもなかった。

 ただ、淡々とした確認のようなものだった。


「……僕は、まだ“誰か”でいたいと思っただけです」


 彼女は小さく頷いて、背を向けた。

 その肩に、小さな花びらが一枚、落ちていた。



人は、幸福のかたちを求めて彷徨う。

痛みがない場所へ、記憶を手放せる場所へ。


けれど、何かを手放すことでしか得られない幸せは、

本当に“幸せ”と呼べるのだろうか。


自分であることの重さに耐えること。

その重さごと、誰かとすれ違って生きていくこと。


僕は、いまのところ——それを“咲かない選択”と呼んでいる。


【終】

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