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「ドロップ」

忘れるというのは、救いだ。


けれど、それは同時に、何かを殺すことでもある。


人はよく「過去は捨てた」と言うが、記憶は勝手に死なない。

忘れられた側の記憶は、どこかに彷徨い続ける。


そしてたまに、何の関係もない他人の頭の中で、

脈絡もなく目を覚ましたりする。


これは、そんな風にして“舐められた記憶”の話だ。


誰かが一粒の飴で忘れたことを、

代わりに誰かが、一生忘れられなくなるという仕組み。



話を最初に聞いたのは、取材の合間に立ち寄った路地裏の喫茶店だった。

 いつも店の隅に座っている女子高生——**真白ましろ**が、不意に口にした。


「ねえ、一ノ瀬さん。ドロップ屋って知ってる?」


 その言葉に、僕は手にしたコーヒーカップを止めた。

 都市伝説の匂いがした。作り話として語られがちな、しかし時折、真実が混じるやつだ。


「一粒舐めるだけで、嫌な記憶がひとつだけ消えるんだって。

 でもね、ただ消えるんじゃなくて——誰かに移るんだって」


「誰かって?」


「それは、わかんない。ランダムって人もいるし、近くにいる人って説もある。

 でもね、“ドロップを舐めた人は笑うようになる”のに、

 そのあと、誰かが狂ったみたいに泣き出すんだって」


 真白はそう言って、口元を指さした。

 「ドロップを舐めた人って、たいてい、舌に色が残ってるんだよ」

 そう言いながら、紫色の飴玉の絵が描かれたシールを、手帳の裏から見せてきた。


 僕はそれを見て、小さく頷いた。

 確かにそれは、見覚えのある意匠だった。

 10年近く前、ある廃業した製菓会社の倉庫で見つけたパッケージと——同じだった。



 「ドロップを舐めたかもしれないやつがいる」

 真白から連絡が来たのは、それから三日後のことだった。


 案内されたのは、都内の古びたマンションの一室。

 そこには、20代の青年——**中澤隼人なかざわ はやと**が暮らしていた。


 彼は驚くほど明るい表情で出迎えた。

 開口一番、「人生めっちゃ軽くなったんですよ」と笑う。


「いじめられてたんですよ、中学のとき。ずっと。

 でも、それが全部、まるごと消えた。何されたかも、誰だったかも思い出せない。

 おかげで、今は超フラットです。許したとかじゃなくて、“無”ですね、記憶が」


 そして、ポケットから小さな銀色の包み紙を取り出した。

 中央には、紫色のドロップのイラスト。

 舐めたのは一粒だけ。だがそれで十分だったという。


 ——部屋を出た直後、マンションの階段下で異変が起きた。


 地面に蹲る老人。

 目を見開き、唇を震わせ、何かを喉の奥で繰り返していた。


「……なぐられた、ちがう、ちがう、あいつじゃない……ちがう……!」

「たすけてくれ、閉じ込められる……いやだ、いやだ……」


 その様子を見て、中澤は眉をひそめた。

 「なんかヤバい人いますね、関係ないですよね?」


 関係がないと、言い切れるだろうか?


 中澤が忘れた“痛み”が、どこかに浮き出ている。

 それが、まさにこの老人の中で“再生された”可能性を、僕は否定できなかった。



それは、ほんの一瞬の錯覚だった。

 中澤の部屋を出たその夜、シャワーを浴びているときのこと。


 ふと目を閉じた瞬間、頭の中に知らない教室の映像が浮かんだ。

 湿った空気。冬の曇り空。背後から投げられた紙くずの音。

 それを拾いもせずに黙って座る、自分の背中。


 ——いや、違う。

 これは僕の記憶ではない。


 その場面には、僕は存在していなかった。

 視点だけがあって、“誰か”の記憶を、まるで盗み見るような感覚。


 その日から、似たような“混ざり込み”が何度も起きた。

 通りすがりの他人の顔に既視感を覚える。

 聞いたことのない曲に涙が込み上げる。

 食べたことのない飴の味を、舌が覚えている。


 そして、ある朝——ポストに、小さな封筒が届いていた。


 差出人なし。消印なし。

 封を開けると、中には銀紙で包まれた飴の包みと、一枚のメモが入っていた。


「一ノ瀬一二三様へ

 あなたの記憶は、まだ“封じられたまま”です。

 どうぞ、取り戻すかどうかは、お好みで。」


 飴は入っていなかった。

 包み紙だけが、空のまま、丁寧に折り畳まれていた。



それは、ほんの一瞬の錯覚だった。

 中澤の部屋を出たその夜、シャワーを浴びているときのこと。


 ふと目を閉じた瞬間、頭の中に知らない教室の映像が浮かんだ。

 湿った空気。冬の曇り空。背後から投げられた紙くずの音。

 それを拾いもせずに黙って座る、自分の背中。


 ——いや、違う。

 これは僕の記憶ではない。


 その場面には、僕は存在していなかった。

 視点だけがあって、“誰か”の記憶を、まるで盗み見るような感覚。


 その日から、似たような“混ざり込み”が何度も起きた。

 通りすがりの他人の顔に既視感を覚える。

 聞いたことのない曲に涙が込み上げる。

 食べたことのない飴の味を、舌が覚えている。


 そして、ある朝——ポストに、小さな封筒が届いていた。


 差出人なし。消印なし。

 封を開けると、中には銀紙で包まれた飴の包みと、一枚のメモが入っていた。


「一ノ瀬一二三様へ

 あなたの記憶は、まだ“封じられたまま”です。

 どうぞ、取り戻すかどうかは、お好みで。」


 飴は入っていなかった。

 包み紙だけが、空のまま、丁寧に折り畳まれていた。



甘いから、簡単で、魅力的で、救いのようで——

でも、誰かがその甘さを選んだとき、

きっと別の誰かは、苦さを噛みしめることになる。


この飴が、本当に人を救っているのかどうかは、わからない。

けれど、今こうして包み紙を見つめている僕の中には、

“何かが抜けたままの空白”が、確かに存在している。


【終】


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