「ドロップ」
忘れるというのは、救いだ。
けれど、それは同時に、何かを殺すことでもある。
人はよく「過去は捨てた」と言うが、記憶は勝手に死なない。
忘れられた側の記憶は、どこかに彷徨い続ける。
そしてたまに、何の関係もない他人の頭の中で、
脈絡もなく目を覚ましたりする。
これは、そんな風にして“舐められた記憶”の話だ。
誰かが一粒の飴で忘れたことを、
代わりに誰かが、一生忘れられなくなるという仕組み。
◇
話を最初に聞いたのは、取材の合間に立ち寄った路地裏の喫茶店だった。
いつも店の隅に座っている女子高生——**真白**が、不意に口にした。
「ねえ、一ノ瀬さん。ドロップ屋って知ってる?」
その言葉に、僕は手にしたコーヒーカップを止めた。
都市伝説の匂いがした。作り話として語られがちな、しかし時折、真実が混じるやつだ。
「一粒舐めるだけで、嫌な記憶がひとつだけ消えるんだって。
でもね、ただ消えるんじゃなくて——誰かに移るんだって」
「誰かって?」
「それは、わかんない。ランダムって人もいるし、近くにいる人って説もある。
でもね、“ドロップを舐めた人は笑うようになる”のに、
そのあと、誰かが狂ったみたいに泣き出すんだって」
真白はそう言って、口元を指さした。
「ドロップを舐めた人って、たいてい、舌に色が残ってるんだよ」
そう言いながら、紫色の飴玉の絵が描かれたシールを、手帳の裏から見せてきた。
僕はそれを見て、小さく頷いた。
確かにそれは、見覚えのある意匠だった。
10年近く前、ある廃業した製菓会社の倉庫で見つけたパッケージと——同じだった。
◇
「ドロップを舐めたかもしれないやつがいる」
真白から連絡が来たのは、それから三日後のことだった。
案内されたのは、都内の古びたマンションの一室。
そこには、20代の青年——**中澤隼人**が暮らしていた。
彼は驚くほど明るい表情で出迎えた。
開口一番、「人生めっちゃ軽くなったんですよ」と笑う。
「いじめられてたんですよ、中学のとき。ずっと。
でも、それが全部、まるごと消えた。何されたかも、誰だったかも思い出せない。
おかげで、今は超フラットです。許したとかじゃなくて、“無”ですね、記憶が」
そして、ポケットから小さな銀色の包み紙を取り出した。
中央には、紫色のドロップのイラスト。
舐めたのは一粒だけ。だがそれで十分だったという。
——部屋を出た直後、マンションの階段下で異変が起きた。
地面に蹲る老人。
目を見開き、唇を震わせ、何かを喉の奥で繰り返していた。
「……なぐられた、ちがう、ちがう、あいつじゃない……ちがう……!」
「たすけてくれ、閉じ込められる……いやだ、いやだ……」
その様子を見て、中澤は眉をひそめた。
「なんかヤバい人いますね、関係ないですよね?」
関係がないと、言い切れるだろうか?
中澤が忘れた“痛み”が、どこかに浮き出ている。
それが、まさにこの老人の中で“再生された”可能性を、僕は否定できなかった。
◇
それは、ほんの一瞬の錯覚だった。
中澤の部屋を出たその夜、シャワーを浴びているときのこと。
ふと目を閉じた瞬間、頭の中に知らない教室の映像が浮かんだ。
湿った空気。冬の曇り空。背後から投げられた紙くずの音。
それを拾いもせずに黙って座る、自分の背中。
——いや、違う。
これは僕の記憶ではない。
その場面には、僕は存在していなかった。
視点だけがあって、“誰か”の記憶を、まるで盗み見るような感覚。
その日から、似たような“混ざり込み”が何度も起きた。
通りすがりの他人の顔に既視感を覚える。
聞いたことのない曲に涙が込み上げる。
食べたことのない飴の味を、舌が覚えている。
そして、ある朝——ポストに、小さな封筒が届いていた。
差出人なし。消印なし。
封を開けると、中には銀紙で包まれた飴の包みと、一枚のメモが入っていた。
「一ノ瀬一二三様へ
あなたの記憶は、まだ“封じられたまま”です。
どうぞ、取り戻すかどうかは、お好みで。」
飴は入っていなかった。
包み紙だけが、空のまま、丁寧に折り畳まれていた。
◇
それは、ほんの一瞬の錯覚だった。
中澤の部屋を出たその夜、シャワーを浴びているときのこと。
ふと目を閉じた瞬間、頭の中に知らない教室の映像が浮かんだ。
湿った空気。冬の曇り空。背後から投げられた紙くずの音。
それを拾いもせずに黙って座る、自分の背中。
——いや、違う。
これは僕の記憶ではない。
その場面には、僕は存在していなかった。
視点だけがあって、“誰か”の記憶を、まるで盗み見るような感覚。
その日から、似たような“混ざり込み”が何度も起きた。
通りすがりの他人の顔に既視感を覚える。
聞いたことのない曲に涙が込み上げる。
食べたことのない飴の味を、舌が覚えている。
そして、ある朝——ポストに、小さな封筒が届いていた。
差出人なし。消印なし。
封を開けると、中には銀紙で包まれた飴の包みと、一枚のメモが入っていた。
「一ノ瀬一二三様へ
あなたの記憶は、まだ“封じられたまま”です。
どうぞ、取り戻すかどうかは、お好みで。」
飴は入っていなかった。
包み紙だけが、空のまま、丁寧に折り畳まれていた。
◇
甘いから、簡単で、魅力的で、救いのようで——
でも、誰かがその甘さを選んだとき、
きっと別の誰かは、苦さを噛みしめることになる。
この飴が、本当に人を救っているのかどうかは、わからない。
けれど、今こうして包み紙を見つめている僕の中には、
“何かが抜けたままの空白”が、確かに存在している。
【終】




